会津戦争~会津若松城下の戦い
慶応四年(1868年)8月23日、会津戦争において、戸ノ口原から会津若松城へと迫る新政府軍が、甲賀町口郭門を突破・・・城下での壮絶な戦いとなりました。
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鳥羽伏見の戦い(1月9日参照>>)に始まった戊辰戦争は、江戸城無血開城(3月14日参照>>)を経て、さらに北へ・・・
東北最大の戦いとなった会津戦争のこれまでの経緯は・・・
●松平容保が会津へ帰還(2月10日へ>>)
●世良修蔵の暗殺(4月20日へ>>)
●白河口攻防戦(5月1日へ>>)
●母成(ぼなり)峠の戦い(8月20日へ>>)
●十六橋・戸ノ口原の戦い(8月22日へ>>)
で、ご覧いただくとして、本日は、慶応四年(1868年)8月23日、その戸ノ口原を突破した新政府軍が、その勢いのまま、江戸街道を進軍したところから・・・
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
その頃、会津若松城下では、敵近しを知らせる鐘が鳴り響き、藩士たちの家族が続々と城内へと向かっておりました。
昨日、戸ノ口原の最前線に激励に向かうはずだった前藩主・松平容保(かたもり)は、敵がもう、戸ノ口原を突破して目前に迫っている事を知らされ、一夜の宿とした滝沢本陣を引き払い、一路、城下へと戻りはじめました。
途中、同行していた桑名藩主で弟の定敬(さだあき)に、再起の夢を託して米沢藩へと向かわせ、自らは、とり急ぎ、城の北側に位置する甲賀町口郭門(こうかまちぐちかくもん)から城内へと入ります。
しかし、この時、すでに新政府軍の先頭集団は、もう間近に迫っていたのです。
なんせ、敵の銃撃で馬を撃たれた容保が、やむなく徒歩で入城したというのですから、もはや射程距離内!
そんな中、甲賀町口を守る家老の田中土佐(たなかとさ)の指揮のもと、白虎隊の一番隊が銃で応戦するものの、それ以外は、槍しか持たない老兵ばかりの会津軍・・・
やがて、午前10時頃、甲賀町口の東・・・神保内蔵助(じんぼくらのすけ)が守る六日町口(むいかまちぐち)が破られ、「もはや、これまで!」と観念した田中は、その神保と刺し違えて自害します。
とにかく、ここまで新政府軍の進攻が早いとは誰も予想していなかったため、何もかもが準備不足の会津若松・鶴ヶ城・・・
なので、先ほど、続々と藩士の家族が城内へ向かって・・・と書かせていただきましたが、うまく入城できた人たちもいましたが、実際には、取り残された人も多くいました。
そんな藩士の女子供たちは、これから始まるであろう籠城戦の邪魔にならないよう、あるいは、敵に捕まって辱めを受けないよう、自刃したり刺し違えたりして、命を絶っていったのです。
主だった人では、家老の西郷頼母(たのも)の一族、同じく家老・内藤介右衛門(ないとうすけえもん)の一族、滝沢出雲(たきざわいずも)一族など・・・その数は約230名に達したと言います。
一方、甲賀町口を破って城内に侵入した新政府軍は、この先の侵入経路を北出丸に絞り、甲賀町口近くの通りに大砲を据えて、集中砲火を浴びせます。
しかし、さすがに東北一と称されるほどの堅城・若松城・・・その大城郭は、なかなか落とせるものではありませんから、新政府軍も、ここは無理をせず、夕刻には、城を包囲しながらの砲撃に作戦変更・・・長期戦に踏み切る事になりました。
・・・と、この時、この新政府軍の攻撃で城下に立ち上る煙を見て、城が落ちたと思い込んでしまったのが、昨夜の戸ノ口原での激戦を切り抜けて、飯盛山までたどり着いた白虎隊二番隊のうちの19名の隊士たち・・・
「もはや城が落ちた以上、帰る場所はない」と、彼らが死を選んだ事で、「白虎隊の悲劇」として、数多くのドラマやお芝居の題材となったわけですが、一昨年の今日のページ(2008年8月23日参照>>)にも書かせていただいたように、その中で、わずかに一人だけ、生き残った少年がいました。
飯沼貞吉(いいぬまさだきち)・15歳・・・彼も、脇差でのどを突いて自殺しますが、わずかに急所がはずれ、気を失ったまま倒れていたところを、心配して息子を捜しに来た別の隊士の母親に発見され、一命をとりとめたのでした。
しかし、当然の事ながら、素直に生き残った事を喜べる心境ではなかったようで、しばらくは、先に逝った仲間たちの事を思って苦しみ、一人だけ生き残った罪悪感から、沈みがちな生活を送っていたようです。
ただし、ご心配には及びません。
未だ歳若い彼は、新たな時代の訪れとともに、新たな人生を歩み始める事になるのですが、そのお話は、明治以降の事になりますので、いずれまたの機会に・・・
一方、このページの冒頭で、容保と別れた弟の定敬さんですが・・・
兄の命を受けて、米沢藩の上杉家へと向かいますが、すでに、新政府への恭順を視野に入れていた米沢藩からは、「お断り」され、中に入れてももらえませんでした。
しかたなく、彼は仙台藩に向かいますが、ここでも同じ・・・
どうしたものか?と思っていたところに、ちょうど寄航していた幕府軍艦・開陽丸で(10月20日参照>>)、榎本武揚(えのもとたけあき)らが、さらに北へ向かうと聞いて、定敬も、榎本と行動をともにする事になります(7月12日参照>>)。
会津若松に残った兄と、北の大地・函館へ向かった弟・・・そして、この時、やはり、ここで別れた二人もいました。
ご存じ、新撰組の土方歳三(ひじかたとしぞう)と斎藤一(はじめ)・・・土方は北へ向かい、斎藤は会津に残って戦います。
かくして、新政府軍に包囲された会津若松・鶴ヶ城・・・しかし、その頃、これまで国境あたりの各地で、それぞれの戦いを繰り広げていた西郷頼母や原田対馬(はらだつしま)などといった面々が、城の急を聞きつけて次々と帰還・・・敵の手薄な天神口から、それぞれの隊を率いて入城を果たします。
いよいよ籠城戦へと突入・・・東北一の城は、もうしばらく戦い続けます。
*この23日に入城した山本八重については2012年8月23日のページでどうぞ>>
*このお話の続きとなる娘子軍(じょうしぐん)の活躍は8月25日のページでどうぞ>>
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