幕末・会津戦争~長命寺の戦い
慶応四年(明治元年・1868年)8月29日、幕末・会津戦争における城下の合戦・長命寺の戦いがありました。
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毎度毎度、恐縮ではありますが、初めてご覧になられる方もいるやも知れませんので、とりあえずは、これまでの経緯から・・・
- 1月9日:鳥羽伏見の戦い終結>>
- 1月23日:徳川慶喜、恭順を決定>>
- 2月10日:松平容保、会津へ帰還>>
- 4月11日:江戸城無血開城>>
- 4月20日:世良修蔵の暗殺>>
- 5月1日:白河口攻防戦>>
- 5月3日:奥羽越列藩同盟、結成>>
- 7月29日:二本松戦争>>
- 8月21日:母成峠の戦い>>
- 8月22日:十六橋・戸ノ口原の戦い>>
- 8月23日:城下での戦いが始まる>>
- 8月25日:娘子軍の奮戦>>
・‥…━━━☆
新政府軍による会津若松・鶴ヶ城への包囲網が、着々と形成される中、娘子軍(じょうしぐん)の中野竹子が若い命を散らした翌日の8月26日には、会津藩・若年寄の山川大蔵(おおくら・後の浩)が、会津小松の彼岸獅子の囃子隊を先頭にたて、祭囃子も軽快に堂々と敵中を突破し、ただ茫然とする新政府軍の真っただ中で入城を果たして、敵のド肝を抜きました。
この離れ業は、城内で踏ん張る会津軍を大いに勇気づけ、このすぐ後に家老に昇進した彼は、後に「智恵山川 鬼佐川(官兵衛の事)」と称されるほどの軍略の才能を発揮し、籠城戦の指揮をとる事になります。
(以前ご紹介した山川捨松さんのお兄さんです…2月18日参照>>)
以前の8月25日にupした地図ですが、位置関係がわかりやすいので、もう一度・・・
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
しかし、もちろん、その間にも新政府軍には続々と援軍が駆けつけ、兵士の数も増えるうえ、最新兵器も到着してきます。
26日には、城の本丸を射程距離に収めたアームストロング砲ほか8門の大砲が、東南の小田山に備えられ、それが命中するたびに城内では死傷者が出ます。
もちろん、城内でも軍議が行われ、家老の梶原平馬は、主君・松平容保(かたもり)の米沢脱出を提案しますが、同じく家老の佐川官兵衛と大蔵は猛反対・・・徹底抗戦を訴えます。
・・・で、結局、今後の方針は徹底抗戦と決まり、ここで新たな守備編成が組まれる事になり、大蔵がその中心となります。
二の丸・三の丸・北出丸・西出丸のそれぞれに家老を指揮官として配置し、城外を統括する役目には官兵衛・・・
ここまで、未だ1500ほどの軍勢が城外で戦ってはいましたが、現在の状況を打開すべく、大蔵は、新たに官兵衛に1000ほどの城兵をつけ、越後街道方面の新政府軍の一掃を命じました。
かくして慶応四年(明治元年・1868年)8月29日午前7時・・・官兵衛率いる若松城兵が、城の西側に位置する融通寺町口郭門(ゆうつうじまちぐちかくもん)から出撃し、長命寺に陣取っていた新政府軍の長州・大垣・備前兵を攻撃しました。
しかし、一時は長命寺を占領する勢いだった会津軍も、新政府軍の持つ強力な兵器ですぐに反撃され、またたく間に200人近い死者を出してしまい、結果的に惨敗を喫してしまいます。
この後の官兵衛ら城兵の戦い方は、小規模なゲリラ戦へと変化していき、一方の新政府軍は、城の南西2.5kim地点まで、包囲を狭める事になります。
さらに、9月4日には、ともに抵抗中だった米沢藩が新政府軍に降伏し、城の周囲に据えられた大砲も50門に増加・・・それらが一斉に火を吹くと、本丸は大きな被害となり、出丸も壊滅状態に・・・
やがて、城下で戦っていた城兵の多くが城内へと戻るか、逆に城下から10km以上離れた場所に撤退し、城下は、ほぼ新政府軍に制圧されてしまいます。
もはや、会津の負けは、誰の目にも明らかでした。
しかし、このような状況となっても、まだ、士気が衰えない会津軍・・・そこには、彼らの精神的支えとなる藩祖・保科正之の「家訓」がありました。
この保科正之(ほしなまさゆき)さん・・・すでにブログに登場していますので、くわしくは昨年の12月18日の【徳川の礎を築いた将軍の隠し子・保科正之】>>を見ていただけたらお解りいただけるものと思いますが、第2代将軍・徳川秀忠の息子です。
第3代将軍・徳川家光の異母弟として徳川を支え、第4代将軍・徳川家綱の補佐役となった彼の残した家訓の第1条には・・・
「大君(たいくん)の義、一心大切に忠勤を存ずべく、列国の例を以って自ら処るべからず。若(も)し二心を懐(いだ)かば、則(すなわ)ち我が子孫にあらず、面々決して従うべからず」
つまり・・・
「他の藩はどうであっても、この会津藩は、徳川将軍に忠誠をつくしなさい。もし、将軍家を裏切るような事があったら、それは、もはや私の子孫ではない。家臣も、そんな主君に従ってはならない」
と・・・
おそらくは、この時の容保から末端の者たちまで、会津の誰もがこの家訓を胸に抱き、心の支えとしてこの戦いに挑んでいたのでしょう。
結果的には、それがより多くの犠牲者を出し、会津を壊滅へと導いてしまうわけですが、後世の一歴史ファンとしては、そこに滅びの美学のような物を感じずにはいられません。
こうして、初代藩主の家訓は、彼らの勇気となり、もう少しの間、踏ん張る事になりますが、続きのお話は、籠城組とは連絡もおぼつかなくなった城外野戦組・・・長岡藩から会津へと転戦して活躍する山本義路(よしみち・帯刀)の飯寺の戦いは9月8日のページでどうぞ>>
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コメント
こんにちわ、茶々様。
>彼らの精神的支えとなる藩祖・保科正之の「家訓」がありました
容保は養子ですよね・・・それでも家訓を守ろうと京都守護職に就き、絶対不利と分かっている中の会津戦争。
また容保だけではなく会津藩士の忠誠に胸が熱くなります・・・(ρ_;)
投稿: DAI | 2010年8月29日 (日) 11時49分
DAIさん、こんばんは~
>容保だけではなく会津藩士の忠誠に胸が熱くなります…
本当ですね~
養子なのに家訓を守る
慶喜に裏切られても、まだ忠誠を誓う…
戦争を美化してしまうと怒られるかも知れませんが、そこに感動してしまいます。
投稿: 茶々 | 2010年8月29日 (日) 18時18分
後年、容保の孫に当たる女性が秩父宮家に嫁いだことで朝敵の汚名が少しは晴れたでしょうか。その秩父宮妃殿下が福島県を訪問された時、土下座をしている人たちがいたとか。その人たちは「妃殿下のお成り」に敬意を表していたのでなく、「松平家の姫君」の久々のお国入りに感激していたそうです。昭和の時代、それも戦争が終わってだいぶ経っても会津藩に思い入れの強い人たちがまだいらっしゃたんですね。 「滅びの美学」 う~ん、そうか、そういうことか。幕末の会津藩のあまりに悲惨な行く末にちょっと理解できない部分があったんですが、「滅びの美学」と言われると納得できます。要領良くひょいひょいと時代の波に乗れず(乗らず?)伝統を守り抜こうとした姿勢も胸を打ちます。
投稿: Hiromin | 2010年8月31日 (火) 11時11分
Hirominさん、こんばんは~
現在の私たちが感じる「滅びの美学」という感覚を、当時の人たちが感じていたかどうかはわかりませんが、「要領良く時代の波に乗れず(乗らず?)」というのは、やはり歴史好きのツボにはまる部分だと思います。
新撰組もそうですし、古くは、源義経や木曽義仲も…
投稿: 茶々 | 2010年8月31日 (火) 18時56分
「八重の桜」ではこの場面は触れますね。
先日触れた「白虎隊の悲劇」もあるかな?
再来年は「地域色」が出る番組となりそうな感じですね。
「八重の桜」は出演者かスタッフが不祥事をしでかさない限り、どんな事があろうとも番組を打ち切りにしてはいけません。打ち切りにすると番組のコンセプトに反するので、打ち切りにすると日本中から非難されます。
投稿: えびすこ | 2011年8月 9日 (火) 15時41分
えびすこさん、こんばんは~
大河がうち切りになるなんて事が、今まであったんですか?
どんな事があっても、うち切りにはならないと思いますが…
朝のテレビ小説と大河はNHKの目玉商品ですから…
俳優の所属事務所との関係がトンデモない事になってしまいます。
投稿: 茶々 | 2011年8月 9日 (火) 23時34分
おっしゃる通り。確かに「大河ドラマが途中で打ち切り」は前例がないですね。
ただ、2003年の様な事があると「ホラ話」ではなくなるような気もしたので。
大河主役の人は「完走しなくては」と言う使命感があると、どこかで聞いた事があります。たとえ視聴率が低迷しようとも、主役の座を放り投げない心がけです。
朝ドラの方で数年前に、週刊誌の記事が火元の(ただし、主役は無関係)「打ち切り危機説」があった記憶がありますが、その時は不問になって最終回まで予定通り放送されました。
投稿: えびすこ | 2011年8月13日 (土) 10時58分
えびすこさん、こんにちは~
やっぱり、大河ドラマが途中で打ち切りになったら、一大事件でしょう。
投稿: 茶々 | 2011年8月13日 (土) 16時58分
滅びの美学、というよりは既に大政奉還という政治的に高度な駆け引きをして徳川の存続を計り、軍事的にはほぼ降参という状態であった旧幕府側にあくまで軍事的勝利を望んだ新政府軍が無理矢理戦争を仕掛けた、故に戦わざるを得なかった旧幕府とおっしゃる通りの家訓に従い徹底抗戦した会津藩、と認識しておりました。
会津戦争は本来必然性のあったものでなく、進路も退路も絶たれた末に誘導されたもののように思います。
太平洋戦争の経緯と似ていて心が痛みます...
ブログ大変わかりやすく、楽しく読ませていただきました。
今後も楽しみにしております。
投稿: | 2013年5月 5日 (日) 21時17分
こんばんは~
そうですね。
「滅びの美学」というのは、後の結果を知っている後世の人間が、勝手に、そう思ってしまっている事のような気もしますね。
投稿: 茶々 | 2013年5月 5日 (日) 23時59分