会津戦争も佳境に…母成峠の戦い
慶応四年(1868年)8月20日、会津藩の拠点・若松城を攻めるべく、新政府軍が二本松城を進発しました。
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幕府軍の敗退に終った鳥羽伏見の戦い(1月9日参照>>)・・・
その後、官軍となった薩長軍は、元15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)や会津藩主・松平容保(かたもり)、桑名藩主・松平定敬(さだあき)らを朝敵として追討令を出し、東へと進む中、慶喜は江戸城を明け渡して自ら謹慎する事を決意します(1月23日参照>>)。
一方、慶喜から登城禁止を言渡された容保は、会津へと戻り、恭順な態度を示しつつも、軍制を整え、来るべき戦いの準備に入ります。
その間にも、新政府側についた仙台・米沢の両藩を通じて、「会津藩救済の嘆願書」が提出されますが(2月10日参照>>)、願い空しく却下され、同じく、戦いを決意した長岡藩などとともに、会津藩は東北の諸藩による奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を結成(4月25日参照>>)・・・戊辰戦争は東北へと舞台を広げます。
関東での戦い(5月15日参照>>)、北越での戦い(5月19日参照>>)と同時進行で行なわれた会津戦争・・・5月1日に、会津への玄関口となる白河を落とした新政府軍は、7月29日には二本松城を奪取して、いよいよ本拠地の会津若松城に狙いを定めます(5月1日参照>>)。
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こうして、二本松(1月15日参照>>)まで奪った新政府軍・・・
この時、江戸にて上野戦争の指揮を取りつつも、新政府軍全体の責任者でもある大村益次郎(ますじろう)は、まずは、奥羽越列藩同盟に属する東北諸藩を潰してから会津攻めに本腰を入れるつもりでしたが、二本松の現地で指揮を取る参謀の板垣退助や伊地知正治(いじちまさはる)らは、「まずは会津を・・・」との作戦を上申します。
結果的に、この現地の意見が採用され、新政府軍は、現在の勢いのまま、会津・本拠地を目指す事になったわけですが、今度は、そのコースで、板垣と伊地知が対立・・・
御霊櫃(ごれいびつ)峠越えを主張する板垣と、母成(ぼなり)峠越えを主張する伊地知・・・スッタモンダのあげく、譲らぬ二人の間に長州藩士が入り、なんとか、伊地知の母成峠案で合意しました。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
かくして慶応四年(1868年)8月20日、新政府軍は、板垣と伊地知が率いる本隊と、谷干城(たにたてき)率いる左翼、川村純儀(すみよし)率いる右翼と、隊を三つに分けて、一路、母成峠を目指して二本松城を進発しました・・・陽動作戦を展開する別働隊と合わせると、総勢3000にも及ぶ大軍でした。
一方、守る会津側も、ここを破られては容易に会津に侵入されるとあって、峠から山麓にかけての一帯に、3段の台場を設置して防御体制を整えていましたが、悲しいかな兵力が・・・
日光から転戦に次ぐ転戦でここまでやってきた大鳥圭介(おおとりけいすけ)率いる伝習隊(でんしゅうたい)に加え、会津・仙台の一部、二本松の生き残り、そして新撰組の生き残り・・・彼ら、全部を合わせても約800ほどにしかすぎず、しかも、その中には、かなりの数の農民兵も含まれていたのです。
戦闘の火蓋が切られたのは、翌日=8月21日の午前9時頃・・・新政府軍が石筵(いしむしろ)へ侵入した時でした。
まずは、新政府軍の砲撃により第1台場が炎上します。
やむなく、第2台場へと後退する会津連合軍・・・そこを、側面から現われた兵の攻撃を受け、さらに後方に配置していた守備隊まで、板垣率いる土佐兵にやられてしまいます。
とうとう、第3台場の母成峠付近に追い込まれた連合軍・・・なんとか5門の大砲で応戦しますが、これに対する新政府軍の大砲は、なんと20門以上・・・
集中砲火を浴びせられた母成峠の第3台場に、もはや打つ手はありませんでした。
しかも、ここに来て濃霧が発生して、ほとんど視界がきかない状態となり、「もはや、これまで・・・」と確信した連合軍・指揮官の大鳥は、午後4時に、総員退去命令を発令・・・しかし、その命令も届かないくらいに大混乱となってしまっていた軍兵は、散り々々に逃走するしかありませんでした。
こうして、母成峠の戦いを制した新政府軍・・・いよいよ、本拠・会津若松城に向かって進軍するのですが・・・
そのお話は、次の展開となる2日後=8月22日のページへどうぞ>>・・・
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コメント
こんばんは。峠の名前もいわれがあるんですね。「御霊櫃峠」は後三年役の鎌倉影政が賊を祀ったという。
投稿: やぶひび | 2010年8月20日 (金) 19時22分
やぶひびさん、こんばんは~
そうなんですか~
地名もイロイロありますもんね。
京都なんて、オドロオドロしい地名がいっぱいです~
投稿: 茶々 | 2010年8月21日 (土) 01時38分
先ほど特別企画で「白虎隊」の放送がありました。独身時代の新島八重(当時・山本姓)さんも出ていました。
以前誰かが、「明治後半~昭和初期の時期の学者や文化人は東北地域出身者が多い」と書いておりましたが、「薩長土肥」も文化面で劣りません。戦後ですが九州出身のポップス歌手が多いのは芸能界で有名な話。著名な漫画家は四国出身の人が多いです。この「薩長土肥」地域では多くの幕内力士を出しております。
でも今日のベテラン人気歌手(特に演歌)は、北海道+東北出身の人が多いですね。
投稿: えびすこ | 2011年8月 6日 (土) 17時29分
えびすこさん、こんばんは~
やはり地域色というのがあるのでしょうね。
お笑いは、やっぱ大阪ですかね~
投稿: 茶々 | 2011年8月 7日 (日) 01時58分
「八重の桜」では登場人物が限定的になる可能性がありますね。主人公の行動が限定的なので、普通に考えると面識がない人は出ない可能性が高いです。
「新撰組!」、「篤姫」、「龍馬伝」に出た人は将軍以外は出ない可能性があります。
投稿: えびすこ | 2011年8月 8日 (月) 18時24分
えびすこさん、こんばんは~
今回こそ、あまりにも無関係な出来事に、主人公が首を突っ込まない事を祈ります。
投稿: 茶々 | 2011年8月 8日 (月) 22時11分