あんなに愛した仲なのに…陶隆房・大寧寺の変
天文二十年(1551年)8月27日、周防の戦国大名・大内義隆のもとに、重臣・陶隆房が挙兵したとの一報が届きました・・・大寧寺の変と呼ばれる戦いです。
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大内氏は百済(くだら)の琳聖太子(りんしょうたいし)の子孫と言われ、周防(すおう・山口県東部)は「大内」を本拠地としたところから、大内と名乗るようになります。
明徳二年(1391年)頃には、山陽・山陰の西部に勢力を伸ばし、この頃から、代々、大内氏の当主が、周防などの守護を務めるようになります。
また、第29代当主の大内政弘が応仁の乱(10月3日参照>>)で活躍したり、第30代当主の大内義興(よしおき)が管領・細川家のトップ争いに関与したり(8月24日参照>>)と、中央でも一目置かれる存在となっていったのです。
享禄元年(1528年)に、その義興から家督を継いだのが第31代当主の大内義隆(よしたか)・・・
天文五年(1536年)には、九州北部に勢力を誇っていた少弐資元(しょうにすけもと)を撃破して、その翌年には豊後(大分県)の大友義鑑(よしあき・宗麟の父)(2月10日参照>>)と和睦し、同盟関係にある龍造寺胤栄(りゅうぞうじたねみつ・隆信の養父)(11月26日参照>>)を肥前(佐賀県)の守護代に据えて、少弐氏の勢力を完璧に抑えました。
このようにして、一時は、日本の6分の1=10カ国を掌握する大大名となった義隆は、敵対する出雲(いずも・島根県東部)の尼子氏から、自分のとこに寝返った毛利元就(もとなり)が、怒った尼子晴久から本拠地の安芸(広島県)郡山城を攻められた天文九年(1540年)には、重臣の陶隆房(すえたかふさ・晴賢)を派遣して、見事、尼子氏を撤退させました(1月13日参照>>)。
・・・で、ここで登場した義隆の重臣・陶隆房・・・この陶氏は、もともと大内氏の一族で、平安時代の後期に、初代当主となる弘賢(ひろかた)が、周防・陶村に移住した事から陶氏を名乗るようになり、南北朝の頃からは、代々、周防の守護代を務めて、守護の大内氏を支えました。
特に、応仁の乱の頃からは、冒頭に書かせていただいたように、中央政府に軍事介入するようになった大内氏が、度々上洛して周防を留守にするものですから、国元で起こったゴタゴタを解決するのは、ほとんどこの守護代の役目でした(5月27日参照>>)。
しかも、上洛した主君がピンチの時には、すぐさま駆けつけたりもしましたから、隆房の祖父も父も、そして隆房自身も、政治面・軍事面ともに、大内氏には無くてはならない存在だったのです。
さらに、この義隆と隆房は、戦国時代にありがちな、いわゆる男と男の関係でもあったと言われ、ある時、隆房にどうしても会いたくなった義隆が、5時間も馬を飛ばして会いに行ったところ、たまたま隆房が疲れて眠っていたため、その寝顔を見た義隆は、「起こしては悪い」と思い、そっと枕元に和歌をしたためて帰還した・・・なんて、遠距離恋愛の恋人同士でも赤面してしまいそうなエピソードも残っています。
そんなに仲良かった二人・・・いや、仲が良かったからこそ、一旦亀裂が入ると、修復が不可能な状態となってしまうのかも知れません。
その兆しが見え始めるのは、天文十一年(1542年)から翌年にかけての月山富田(がっさんとだ)城の攻防戦の頃から・・・
月山富田城と言えば・・・そう、あの長年のライバル=尼子氏の居城です。
実は、その前年、現・尼子当主の晴久の祖父にあたる尼子経久(つねひさ)(11月13日参照>>)が亡くなったのですが、この経久さん、彼1代で、この尼子氏を中国11カ国を支配する大名へと押し上げた英傑だったもんですから、「この機に乗じて攻めない手はない!」という国人衆の声に押されるかたちで、義隆は、自ら大軍を率いて進撃したのです。
しかし、いざ攻防戦が始まると、意外にも支城の攻略に手間取ったうえに、作戦面での対立が目立ち、これにイヤ気がさした国人衆の離反も相まって、結局、義隆は、出兵から1年半後の天文十二年5月に撤退を開始しました。
ところが・・・です。
その撤退の途中で乗り込んだ船のうちの1艘が転覆してしまうという事故が発生、たまたまその船に乗り込んでいた嫡子・晴持(はるもち・養子です)が溺死してしまうのです。
一説には、この出来事のショックから立ち直る事ができず、その後の義隆は政治を顧みないようになり、隆房を含む重臣たちとの間に亀裂が生じてしまったとも言われます。
また、もともと、義隆は学問や文芸に造詣が豊かで、京風の文化を好んだうえ、外国との交流にも熱心で、キリスト教の布教も許可したおかげで、当時の山口は、西の京都と呼ばれるほどの文化の花が開いたとも言われていますが、一部の重臣にとっては、義隆のあまりの京風ドップリぶりが目に余ったという話もあります。
逆に、月山富田城攻めに積極的だった隆房を、義隆のほうから避けたという話も・・・
さらに、当時、政治面をまかされていた文治派の相良武任(さがらたけとう)と、武闘派の隆房ら、重臣同士の対立もあったようです。
もちろん、ここに来て、その武任を寵愛しはじめた事に、隆房がカチンときたという愛の噂も継続中・・・
とにかく、その重臣同士の対立から、身の危険を感じた武任が、ある事ない事をぶっちゃけトークして、全責任を武闘派に押しつけ、それを信じた義隆が、完全武装の姿で武闘派に詰問した事で、亀裂は決定的に・・・しかも、当の武任が、そのまま、九州へ逃亡しちゃったもんで、いよいよ隆房は行動を起こします。
天文二十年(1551年)8月27日、義隆のもとに、隆房が挙兵したとの一報が届きます。
そして、翌・28日、隆房は、山口を襲撃するのです。
この時、義隆に味方したのは、側近の冷泉隆豊(れいぜいたかとよ)を含む、わずか2000人ほど・・・一方の隆房には、武闘派中心に1万人ものメンバーが味方します。
この数字を見ても、理由はどうあれ、もはや、家臣たちの心は義隆から離れていた事がわかります。
結局、義隆は、抵抗らしい抵抗もできないまま長門(ながと)へ敗走・・・そこから海路で、さらに逃げるつもりでしたが、暴風雨のため船が出せず、「もはや、これまで!」とばかりに、長門の深川にあった大寧寺(だいねいじ)で自害したのでした。
翌日には、まだ7歳だった義隆の実子・大内義尊(よしたか)も殺され、ここに大内氏の嫡流は滅亡したのです。
・・・と、「嫡流は・・・」と書かせていただきましたが、実は、この後、隆房は、以前、一時期だけ義隆の養子となっていた事のある、大友宗麟の弟・義長(よしなが)(4月3日参照>>)を、豊後から呼び戻し、当主として迎え入れるのです。
もちろん、未だ歳若き義長は、名目上の当主・・・実権は隆房自身が握るための策です。
しかし、この大内家内でのゴタゴタを、じ~っと見ていた者がおりました。
後に西国の王者となる毛利元就・・・
いよいよ元就が動きますが、そのお話は4月8日の【毛利元就VS陶晴賢~厳島へのカウントダウン】をどうぞ>>
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コメント
茶々さんこんばんわ!(^-^)
いつの時代も兄弟喧嘩とか友達同士の喧嘩とかありますよね(^O^)
でも、それが、こんな悲しい結末になるなんて…
仲が良すぎて、お互い意地を張り、修復出来なくなってしまったんでしょうかね…
身につまされます(>_<)
投稿: みか | 2010年8月27日 (金) 20時08分
みかさん、こんばんは~
やっぱ、仲が良ければ良いほど、崩れた時の修復が難しいのかも知れませんね~
投稿: 茶々 | 2010年8月27日 (金) 23時48分