記紀にはしょられた天皇たち…欠史八代
孝昭天皇八十三年(紀元前393年頃)8月5日、第5代・孝昭天皇が93歳(もしくは113歳)で崩御されました。
・・・・・・・・・
アマテラスオオミカミ(天照大御神・天照大神)の孫・ヒコホノニニギノミコト(日子番能邇邇芸命・彦火瓊瓊杵尊)が日向・高千穂の峰に降臨し、日向三代を経てから、そのひ孫にあたるカムイヤマトイワレビコノミコト(神倭伊波礼毘古命・神日本磐余彦尊)が東へと向かい、畝火(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)にて即位・・・これが、初代天皇の神武天皇です(2月11日参照>>)。
その神武天皇の死後、残された異母兄弟間で、皇位継承を巡っての争いが勃発しますが、その争いに打ち勝ったのが一番下の弟だったカムヌナカハミミノミコト(神沼河耳命・神渟名川耳尊)で、葛城(かつらぎ)の高岡に宮殿を造って即位・・・第2代綏靖(すいぜい)天皇となります。
ところが…です。
この第2代綏靖天皇から、本日の孝昭天皇を含む第9代開化(かいか)天皇までの8代に渡って、『古事記』『日本書紀』ともに、ストーリーらしいストーリーのない変な展開となってます。
どこで天下を治めた(宮殿の場所)とか、誰々との間に何人の子供がいたとか、何歳で死んでどこに葬られたか・・・という事が淡々と書かれるだけの、言わばデータのみの記述で、それ以外の情報がほとんどないのです。
とりあえず、神武天皇を含めて、そのデータを箇条書きにすると・・・(享年の()内は日本書紀の没年齢)
- 神武天皇
享年:137歳(127歳)
宮殿:白檮原宮
御陵:畝傍山東北陵
(うねびのやまのとうほくのみささぎ)
注:神武天皇はエピソード多数…なので、2代~9代までの8代がはしょられデス - 綏靖天皇
享年:45歳(84歳)
宮殿:葛城の高岡宮
御陵:桃花鳥田丘上陵
(つきだのおかのうえのみささぎ) - 安寧(あんねい)天皇
享年:49歳(57歳)
宮殿:片塩(かたしお)の浮孔宮(うきあなのみや)
御陵:畝傍山南御陰井上陵
(うねびやまのみなみのほとのいのうえのみささぎ) - 懿徳(いとく)天皇
享年:45歳(77歳)
宮殿:軽(かる)の曲峡宮(まがりおのみや)
御陵:畝傍山南纖沙谿上陵
(うねびやまのまなごのたにのうえのみささぎ) - 孝昭(こうしょう)天皇
享年:93歳(113歳)
宮殿:掖上(わきのかみ)の池心宮(いけごころのみや)
御陵:掖上博多山上陵
(わきのかみはかたのやまのかみのみささぎ) - 孝安(こうあん)天皇
享年:123歳(137歳)
宮殿:室(むろ)の秋津嶋宮(あきつしまのみや)
御陵:玉手丘上陵
(たまてのおかのうえのみささ) - 孝霊(こうれい)天皇
享年:106歳(128歳)
宮殿:黒田の廬戸宮(いおとのみや)
御陵:片丘馬坂陵
(かたおかうまさかのみささぎ) - 孝元(こうげん)天皇
享年:57歳(116歳)
宮殿:軽の境原宮(さかいはらのみや)
御陵:剱池嶋陵
(つるぎのいけのしまのみささぎ) - 開化天皇
享年:63歳(111歳)
宮殿:春日の率川宮(いざかわのみや)
御陵:春日率川坂本陵
(かすがいざかわのさかもとのみささぎ)
・・・とまぁ、こんな感じです。
記紀の手抜きとも思われる、このエピソード・ゼロの方々を総称して『欠史八代(けっしはちだい・缺史八代)』と呼びますが、100歳以上も生きたのにはしょられた方は、本当にお気の毒・・・
しかし、お察しの通りです。
この、今問題の100歳以上の所在確認できない方々・・・実は、所在どころか、その存在すら危ういというのが一般的な見方です。
すでにブログに登場している第10代崇神(すじん)天皇(12月5日参照>>)・・・
そのページにも書かせていただきましたが、再びエピソード満載な書き方が始まる、この崇神天皇こそが本当の初代天皇で、実在したかもしれない人物・・・つまり、「ここまでの天皇は架空の人物であろう」というのが大半の見方です。
そこには、これらの天皇の和風諡号(しごう)に、後世の天皇のソレとかぶる物が複数あるのが怪しいという説・・・
和風諡号とは、いわゆる日本風の諡(おくり名)の事で、神武天皇でいうところのカムイヤマトイワレビコノミコト、綏靖天皇でいうところのカムヌナカハミミノミコトという名前の事です。
なので、後世の天皇の和風諡号を参考に、これらの天皇の名前を後世の人が考えたのではないか???という事だそうですが、個人的には、その逆・・・つまり、ご先祖様の名前を、後世の人が参考にした可能性だってあると思うので、それだけでは怪しいとは言えない気がします。
むしろ、長寿大国を思わせる没年齢のほうがよっぽど怪しい・・・
いずれにしても、この8代だけが、まったく別の書物のような書き方になっている点は、やはり不可解で、そこに創作の疑いがかかるのはいたし方ないところであります。
一方、この欠史八代は、架空ではなく、実在したとする説もあります。
それは・・・
実在したけど、くわしくは書けない人たち・・・つまり、別の王朝だったのではないか?というのです。
いわゆる「葛城王朝説」です。
これは、これら8代の天皇の活動拠点が葛城地域に集中している事から端を発した説で、もともとは九州を含む西日本一帯を支配していた葛城王朝でしたが、九州から、新たにやってきた豪族=崇神天皇にとって代わられたのでは?というもの・・・
この話は、邪馬台国の存在とも微妙にリンクしていて、邪馬台国=畿内説では葛城王朝を邪馬台国とし、そこに、後の大和朝廷となる新勢力=崇神天皇がやってきたと・・・
逆の、邪馬台国=九州説では、崇神天皇が邪馬台国に関連する人物で、邪馬台国のあった九州から畿内へと侵攻したと考える人も多いようです。
果たして、記紀の記述において、明らかにおかしい欠史八代・・・
神の領域の神武天皇と皇室ご先祖の崇神天皇をつなぎ合わせるための架空の人物なのか?
それとも、記紀編さん者が、書きたくても書けない別王朝だったのか?
考え出したら夜も寝られません(。>0<。)
第8代孝元天皇の陵墓とされる剣池(奈良県橿原市)
★剣池へのくわしい行きかたは本家・HP【奈良歴史散歩・明日香】へどうぞ>>
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コメント
こんにちは。
神話のような感じで、この天皇たちは実在しないような気もします。
後から作られた歴史だから、辻褄があわない
こともありますね。
「邪馬台国」イコール「大和朝廷」
という説もありますが。
(肥後和男/邪馬台国は大和である)
地理的に海路を使って
中国や朝鮮半島と交流あったとすると
九州や沖縄の方が有力な気がします。
「魏志倭人伝」はちょっとしたミステリー
だと思っています。
投稿: やぶひび | 2010年8月 6日 (金) 09時36分
やぶひびさん、こんにちは~
まぁ、今の平成の世で、記紀神話をすべて事実だと考えている人は少ないでしょうが、
まったくの創作なのか?
何かしらの伝承に少しは基づいているのか?
が気になるところです~
まぁ、「魏志倭人伝」は「又聞き」の「又聞き」ですからね~
投稿: 茶々 | 2010年8月 6日 (金) 11時59分
>書きたくても書けない別王朝だったのか?
私の妄想では、「出雲王朝」ではないかと思っています。
“国譲り”は、「出雲王朝」の“後継”を自称していると思うからです。
そうだとすると、万世一系には不都合になります。
正統性の証であると同時に、否定もするわけですから。
ただ、なぜ「葛城」にしたのかは、いくら考えても思いつかないのです。(泣)
投稿: ことかね | 2010年8月16日 (月) 15時44分
ことかねさん、こんにちは~
未だに、出雲大社は、他の神社と一線を画していますからね~。
出雲は、天皇家にとって、目の上のタンコブだったでしょうね。
投稿: 茶々 | 2010年8月16日 (月) 16時06分