天皇の後継者を偶然発見!顕宗天皇と仁賢天皇
仁賢天皇十一年?(498年頃)8月8日、第24代仁賢天皇が崩御されました。
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またまた、記紀神話のあいまいな時代の天皇ですが、まずは、古事記に従って話を進めて参りましょう。
ただし、この仁賢(にんけん)天皇についてお話するには、少し時代をさかのぼったところから始めなければなりません。
そもそもは、第21代雄略(ゆうりゃく)天皇にはじまります。
すでに、そのご命日に記事を書かせていただいている雄略天皇は、そこでもお話させていただいたように(8月7日参照>>)、立派に治世した名君=「ニックネーム:有徳天皇」という一面と、敵を根絶やしにしてしまう暴君=「ニックネーム:大悪天皇」の2面性を持った天皇で、その即位の時にも、一波乱ありました。
雄略天皇の兄で、先代=第20代安康(あんこう)天皇が、家臣の謀略によって、罪のない叔父・大日下(おおくさか)皇子を殺したあげくに、その妻を娶った事で、成長した大日下の息子・目弱(まよわ)王が安康天皇を殺害・・・
今度は、その兄の殺害に怒り爆発した弟・雄略天皇が、その目弱王を攻めようとするのですが、その挙兵に乗り気にならなかったとかで、すぐ上の二人の兄を殺害してしまいます。
その後、単身でその息子を攻め殺し、ついでに、第17代履中(りちゅう)天皇の息子・・・つまり自身の従兄弟にあたる人物で、次期天皇の呼び声も高かった市辺忍歯(いちべのおしは)も殺してしまうという暴挙に・・・、
怨みの敵討ちなんだか、皇位争奪戦なんだか・・・
そんな、わけのわからない状況ではありますが、とりあえずライバルが一掃された事で、兄の後を継いで雄略天皇が即位したという経緯があったのです。
・・・で、その雄略天皇亡き後、その息子の第22代清寧(せいねい)天皇が即位・・・ここでも、異母兄弟との間に一波乱あるのですが、それは、また、別の機会に書かせていただく事として、その清寧天皇が、子供が無いまま亡くなってしまった事で、さぁ、たいへん・・・
そう、雄略天皇が、ライバルを皆、消しちゃった事で、天皇の後継者がいなくなってしまったわけです。
やむなく、市辺忍歯の妹・飯豊(いいとよ)を、ひとまず、王とする事にしました。
その同じ頃、小楯(おだて)という者が、行政の長官として播磨(はりま・兵庫県)国に赴任しますが、ちょうど、地元の者が家を建てたとかで、新築祝いの宴会に招かれました。
宴会が進むにつれ、テンションも徐々にマックスになったところで様々な舞いが披露される中、ある二人の兄弟の順番となります。
兄弟で順番を譲り合いながらも、まずは先に兄が舞い、次に弟・・・
♪物部(もののふ)の 我(わ)が夫子(せこ)の
取(と)り佩(は)ける 大刀(たち)の手上(たかみ)に
丹画(にか)き著(つ)け 其(そ)の緒(を)は
赤幡(あかはた)を載(の)せ 赤幡(あかはた)を立(た)て
見(み)れば い隠(かく)る
山(やま)の三尾(みを)の 竹(たけ)をかき苅(か)り
末押(すえお)し靡(なび)かすなす
八絃(やつを)の琴(こと)を 調(しら)べたる如(ごと)
天(あめ)の下治(したおさ)めたまひし
伊邪本和気(いざほわけ)の天皇(すめらみこと)
の御子(みこ)
市辺(いちのべ)の押歯王(おしはのみこ)の奴末 ♪
「武人の兄が、腰にさす太刀の鞘に赤い色を塗って、その紐も赤い紐にして、赤い旗を立てると敵は皆逃げていく…それは、山の竹の先端を刈ってなびかせるように、八絃(げん)琴を奏でるようにして天下を治めた伊邪本和気天皇(履中天皇の事)の息子・市辺押歯の息子だからだよ~イェイ」
そうです。
この弟が舞いながら歌った歌は、彼らの素性を表す歌・・・
彼らは、雄略天皇に父を殺された事で、身の危険を感じた市辺押歯の二人の息子・・・逃げるようにその地を離れ、ここで身を隠して住んでいたのでした。
ヤッター!天皇の後継者…はっけ~~ん ヘ(゚∀゚ヘ)
歌によって、その事に気づいた小楯は、早速、飯豊王に報告・・・彼女は、喜んで二人の皇子を宮殿に迎え入れたのです。
この兄弟が、
兄=意祁命(おけのみこと)、弟=袁祁命(をけのみこと)
という、口で呼ぶ時、どない区別すんねん!兄弟です。
大和に戻った兄弟は、早速、父の遺骨を探すとともに、皇位継承の準備を・・・
本来なら、兄の意祁命が即位するところですが、先の物語にあったように、中央から派遣された長官の前で、身分を明かす決意をしたのは弟・・・という事で、弟の袁祁命が即位して第23代顕宗(けんぞう)天皇となり、兄が皇太子となります。
・・・で、こうして、天皇として権力を握っちゃうと、やりたくなるのが、無念のまま死んだ父の敵討ち・・・とは言え、もう、仇の雄略天皇は亡くなってますから、
「それならば、墓をグチャグチャにしてやろう!」
と、顕宗天皇が誰かを派遣しようとすると、兄が
「そんな事、他人に任せられるかい!俺が行く!」
と、自ら志願・・・
しかし、結局、ちょっとだけ掘り返しただけで帰ってきます。
「まぁ、グチャグチャに壊したい気持ちもわからんではないけど、なんだかんで、仇でもある一方で、叔父でもある人・・・あんまりな事したら、後世の人も批判するよって、ちょっとだけ壊して恥ずかしい思いをさせたら、それでえぇんとちゃうかな?って思て・・・」
この兄の意見に顕宗天皇も納得・・・めでたしめでたし
・・・で、この顕宗天皇が亡くなり、その後を継いで即位したのが、皇太子だった兄の意祁命・・・この方が、第24代仁賢(にんけん)天皇です。
そして、その仁賢天皇は・・・と言いたいところなんですが、実は、この仁賢天皇から第33代の推古(すいこ)天皇まで、ちょうど先日書かせていただいたばかりの「欠史八代(けっしはちだい・缺史八代)」(8月5日参照>>)のように、ほとんどエピソードらしいエピソードもなく、そのまま尻すぼみ状態で、『古事記・全三巻』は、幕を閉じてしまうのです。
ただ、欠史八代と違うのは、コチラの仁賢天皇の次の第25代武烈天皇から推古天皇までの方々は、日本書紀には、かなりくわしく書かれていますので、おそらくは、古事記と日本書紀のコンセプトの違いによるはしょりだと思われます。
今、考えられているのは、
当時の歴史観で言えば、推古天皇以降は「現代」に当たり、その前の10代くらいは「近代」に当たる・・・つまり、近代と現代に重きを置く日本書紀と、古代に重きを置く古事記というところの違いではなかったかという事です。
日本書紀では、今回の「身分を明かす」お話は、雄略天皇が亡くなった直後に明るみになり、清寧天皇が大喜びで宮中に迎えたという、少し時間的な違いがあるお話になってます。
また、弟の顕宗天皇が、好きになった彼女の父親と、激しい歌合戦を繰り広げるお話が古事記には登場するのですが、まったく同じエピソードが日本書紀では、兄の仁賢天皇の息子である第25代武烈(ぶれつ)天皇のエピソード(武烈天皇の場合は彼女の恋人が相手)として登場する(12月8日参照>>)ところもミソですね。
果たして、偶然のように後継者が見つかって、天皇家の血筋が保たれるお話・・・真偽のほどは、いかに・・・
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コメント
天智天皇系にもどった頃と似ています。政変続きで、後継者がいなくなったのだから。
投稿: やぶひび | 2010年8月11日 (水) 15時42分
やぶひびさん、こんばんは~
天武系から約100年ぶりの天智系でしたね…確か
投稿: 茶々 | 2010年8月12日 (木) 01時04分