その度量の大きさを物語る~大田道灌の書状
文明十年(1478年)8月16日、太田道灌が沼尻但馬守に書状を送りました。
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大田道灌(どうかん)と言えば、関東管領職にあった扇谷(おうぎがやつ)上杉家に仕えた執事・・・
京都に拠点を構えた将軍家の足利家と枝分かれして、関東を任された鎌倉公方の足利家・・・本来なら、公方の下に関東管領があり、その管領の職務をサポートするのが執事・・・
しかし、いつしか、公方は、都におわす将軍の傘下から、関東のみを独立支配しようとして対立・・・第6代将軍の足利義教(よしのり)と、第4代鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)の頃にピークを迎えたこの対立は、持氏の遺児・足利成氏へと引き継がれます。
将軍から任命されたのではない古河(こが)公方という名を勝手に名乗って、関東で反乱を繰り返す成氏の、格好のターゲットとなったのが、将軍から関東管領に任命されている上杉家だったわけです。
その古河公方から、関東を守るべく、道灌が築城したのが江戸城(4月8日参照>>)・・・
後に、徳川家康がこの江戸城に入り、日本一とも言える大城郭を築く事になるのは、皆様、ご存知の通りです。
道灌は、扇谷上杉家を躍進させた立役者でもあり、数々の武勇伝の持ち主でもあり、先の江戸城に見るように、築城の名人でもあるのです。
そんなこんなの文明十年(1478年)8月16日・・・本日は、その日付けでの道灌の書状をご紹介するわけですが、この文明十年という年は、その2年前から、例の成氏だけでなく、扇谷と同族の、山内(やまのうち)上杉家の執事であった長尾家の長尾景春(かげはる)も反乱を起している真っ只中という状況・・・
以前、ブログでも、その長尾景春の乱(4月13日参照>>)の中の一つの合戦である用土原の戦いのページ(5月13日参照>>)に書かせていただきましたが、「道灌が、頑張ってんのに、上杉、何やってんねん!」と、ツッコミを入れたくなるくらい、道灌の活躍が目立ってます。
しかし、紹介させていただく手紙は、そのような反乱に、現在対応しているとは思えない雰囲気・・・道灌の度量の大きさを感じさせてくれるものです。
「最近、連絡ないから、どうしてるんやろ?って思てたんやけど、今回の報告には、色々細かい事まで書いてくれて、ありがとな。
こっちとしては、下総への出陣も、近々する予定やけど、こっちの事は何も心配せんでもええからな。
ところで、長井六郎君の進退については、変わりないようで、君も喜んでるやろね。
山内(上杉)顕定(あきさだ)さんの判断で、今後、再び、山内上杉家への出仕が許されるようやし、僕も、ホンマ、うれしいわ。
こちらの状況については、また、いずれ、正式な伝書で伝わるやろから、ここでのくわしい報告ややめとくわな」
現代風にわかりやすくするため、かなり私見の入った口語訳になりましたが・・・この書状は、山内上杉家に仕える沼尻但馬守(ぬまじりたじまのかみ)に宛てた手紙・・・
この中の、長井六郎という人物の一件に関しては、本来、扇谷上杉家に仕える道灌から見れば、同族とは言え他家の主従関係・・・しかも、この時期は、扇谷より山内のほうが、ちょっとだけ強かった時代です。
そんな他家における、何か不始末を起した家臣が、その直属の上司に許された事を、あえて、この手紙に書き、そして喜んでいるという事は、おそらくは、道灌は、この問題に関与していたのでしょう。
つまり、他家の主従関係にも介入するほどの力を、すでに持っていた事になります。
そうなんです。
実は、道灌は、本人さえその気になれば、関東一円を支配する事も夢ではなかった実力を持っていたとも言われています。
先の長尾景春の乱での活躍を見ても、その事がうかがえます。
しかし、この乱世でありながら、道灌には、おそらく、その気はなかった・・・あくまで、道灌の思いは、関東管領である上杉が支配する関東であり、その上杉の治める関東の平和を目指していたに違いないでしょう。
個人的な印象ではありますが、今回の書状は、なんとなく、そんな思いが伝わってくる文面です。
しかし、肝心の主君=上杉家は、そうは思ってくれなかった・・・
道灌の突出した有能ぶりは、やがて、「取って代わられるのでは?」という主君の脅威となり、入浴中の騙まし討ちという、道灌の悲しい最期へと結びついてしまうのです。
個人的な妄想の域を出ないものではありますが、私は、大田道灌には、主君に取って代わるという野心はなかったと思っています。
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コメント
こんばんは。江戸城を作った人ですね。歌の才能もあって、山吹の話も残っています。主君に恵まれなかったのが不運です。
投稿: やぶひび | 2010年8月16日 (月) 19時31分
やぶひびさん、こんばんは~
「みの一つだに…」ですね。
それを書くの忘れてましたね~
次回の道灌登場の時にも書かせていただきます~
投稿: 茶々 | 2010年8月16日 (月) 23時20分
はじめまして。本人には、とってかわる意志が別にあったわけでもないのに、だまし討ちにあうなんて、気の毒ですね。
投稿: チュンリー | 2011年11月26日 (土) 17時43分
チュンリーさん、こんばんは~
ホントですね~
>とってかわる意志が別にあったわけでもないのに…
というのは、あくまで憶測ですが、一連の道灌の行動を見ていると、やはり、とって代わる気は無かったと思います。
優秀すぎるという事は、相手を疑心暗鬼にさせてしまうのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2011年11月26日 (土) 18時58分