「お父ちゃん、褒めたげて!」黒田長政の関ヶ原
元和九年(1623年)8月4日、豊臣秀吉の軍師として知られる黒田如水の長男で、初代・筑前福岡藩主となった黒田長政が56歳の生涯を終えました。
・・・・・・・・・・・
豊臣秀吉の中国大返し(6月6日参照>>)を見事にサポートした軍師として超有名な黒田如水(じょすい・官兵衛孝高)・・・
未だ小寺姓を名乗る播磨(兵庫県)の小大名だった彼が、織田信長の傘下に入り、一気に3万石の大名へとのしあがるのが、天正七年(1579年)の摂津(大阪府北部)有岡城の攻防戦・・・
この時、信長に叛旗を翻した有岡城主・荒木村重を説得するために有岡城へと向かった如水は、逆に、「お前も寝返ろ!」と言われるも、それを断ったために城内に監禁され、城の落城とともに、やっと救出されます。
劣悪な環境で監禁されたため、以後、足腰が立たない不自由な体となってしまいますが、そんな状況になっても信長を裏切らなかった事から、絶大な信頼を得る事になり、石高の大幅アップとなったわけですが・・・
この時、有岡城から戻らぬ如水を、裏切ったものと判断した信長によって殺されるところだったところを、竹中半兵衛重治(はんべいしげはる)の機転によって、その命を救われた如水の息子・・・その息子が松寿丸=黒田長政、その人です(10月16日参照>>)。
命救われた時、12歳だった長政少年は、その3年後くらいから秀吉軍団の一員として合戦に参加し、天正十一年(1583年)の賤ヶ岳(しずかだけ)の戦い(3月11日参照>>)や、天正十五年(1587年)九州征伐(4月17日参照>>)にも、父とともに従軍しました。
やがて、天正十七年(1589年)には、父・如水の隠居とともに家督を相続・・・石高12万石の豊前(大分県)中津城主となります。
その後の朝鮮出兵にも参加して半島各地を転戦し、武功を挙げたりしますが、なんと言っても、長政一番の活躍と言えるのが、あの関ヶ原の合戦です。
慶長三年(1598年)8月の豊臣秀吉の死・・・
翌年閏3月の前田利家の死・・・
これによって、日頃の不満が爆発したのは、武闘派の加藤清正や福島正則たち・・・豊臣家内の事務方を荷っていた文治派の石田三成に怒りが集中した彼らは、利家が亡くなったその夜、三成宅を襲撃しますが(3月4日参照>>)、長政もキッチリ、この仲間に入っています。
実は、朝鮮出兵から帰国した黒田父子は、しばらくは京都の伏見に滞在していたのですが、その後、本拠地の中津に戻る事になった如水が、「やがて世は乱れるかも・・・」と、息子・長政には上方に留まるよう指示していたのです。
結局、かの襲撃事件は、三成の謹慎という形で、一応の決着をみますが、次に起こったのが、家康の上洛要請を拒否し続ける上杉景勝への出兵(4月1日参照>>)・・・いわゆる会津征伐です。
慶長五年(1600年)6月、会津に向けて進発した家康のそばには、従う長政の姿もありました。
この直前には、家康の養女・栄姫(えいひめ)との婚儀も済ませていた長政・・・もう、すっかり家康派ですね~。
・・・で、この家康の留守を狙って、伏見城を攻撃した三成(7月19日参照>>)・・・こうして関ヶ原の戦いの幕が上がったわけですが、この時、豊臣恩顧の多くの武将を、家康の東軍へと引き入れたのが長政でした。
中でも、戦いのキーポイントとなった吉川広家(きっかわひろいえ)と小早川秀秋(こばやかわひであき)を寝返らせた功績はかなりのモンです。
この時、早いうちから寝返りの話を持ちかけられ、一応のOKを出していた広家でしたが、表面上は、まだ、西軍として参戦している立場だったため、8月25日の安濃津城の戦い(8月25日参照>>)にて、意外な大活躍をしてしまうのですが、その行動に対して長政は、「家康さんは、もう駿河まで来てはるんやから、行動に気ぃつけや~」と、手紙にてキッチリ釘を刺しています。
もちろん、コレ、嘘です。
家康が江戸を出立したのは、9月1日ですからね~。
長政さん、なかなか、やります!
このへんの、毛利との密約については、昨年の「天地人」がらみで書いた【関ヶ原敗戦での毛利の転落】(9月28日参照>>)をご覧いただければ幸いです。
・・・で、もう一人の小早川秀秋・・・なんだか煮え切らない秀秋に対しても、8月27日の日づけの浅野幸長(よしなが)との連名による書状で、「家康さんは、2~3日中にも、到着しはるよって・・・」と、これまたハッタリかましてます。
しかも、その後も何度も使者を送り、合戦前日には家臣の大久保猪之助(いのすけ)を陣中に送り込み、その行動を監視させてもいます。
決戦当日になっても、まだ態度のはっきりしない秀秋に対して、猪之助が「お前、東軍で参加するて言うたんやないんかい!」と、刀に手をかけて、寝返りを迫ったなんて逸話もあります。
もちろん、長政の関ヶ原での功績は、このような内応工作だけではありません。
合戦そのものでも、石田隊の島左近(さこん・清興)や蒲生郷舎(がもうさといえ)らと激闘を演じる中、鉄砲隊を迂回させて背後へと回らせ、見事、左近の狙撃に成功しています。
これだけの大活躍を見せた長政・・・
さすがに、家康も大喜びで、合戦後には長政の手を握り、「よくやってくれた」と大感激・・・おかげで、石高52万石の福岡藩主に大抜擢されました。
天下分け目の戦いで、大変な武功を挙げた長政は、意気揚々と故郷へと戻ります。
そして、早速、父・如水に報告・・・
「あんな、お父ちゃん、
東軍勝利の原動力になった秀秋くんの寝返りも、広家くんの寝返りも、みな俺がやってん!
ほんで、当日も、メッチャ頑張ってん。
関ヶ原が一日でケリついたんは、俺の働きがあったからやねんで!」
と、自慢気に語る長政・・・まぁ、そら、自慢したくもなります。
ところが、如水・・・
「天下分け目の合戦てなモンはやなぁ・・・腰を落ち着けて、もっと、ゆっくりやるモンや!」
えぇ?どういう事?
と、思いながらも、
「もう、家康さんなんか、わざわざ、俺の手を握って、アリガトアリガトて言うてくれはったんやで!」
と、続ける長政・・・
「ふ~~ん・・・で、その時、家康は、お前の、どっちの手を握っとったんや?」
「いゃ・・・右手ですけど・・・」
「ほな、あいてる左手は何をしとったんじゃあ~~~!」
以前にも書かせていただきましたが、
実は、関ヶ原当日には、九州にいた如水・・・「合戦が長引けばチャンスあり」と睨んで、この天下分け目のドサクサにまぎれて、自分こそが天下を取ろうとしていたとも言われているのです。
現に、関ヶ原の2日前の石垣原の戦いで、大友義統(よしむね)を破ったのを皮切りに、九州全土を制覇せんが勢いで進軍し続けていたのでした(9月13日参照>>)。
なのに、肝心の中央での戦いが、たった一日で決着がついてしまっては、なんとも・・・
つまり、
「家康が、長政の右手を握っていたのなら、あいてる左手で家康を刺せば、天下が転がり込んで来たのに・・・」
という事です。
とは言え、この長政の功績で、徳川政権のもとで生き残る黒田家・・・
長政自身は、大坂の陣にも徳川秀忠に属して出陣したりしますが、元和九年、秀忠上洛の準備のために京都にやってきたところ、にわかに発病し、元和九年(1623年)8月4日、返らぬ人となります。
上記の関ヶ原後の父子の逸話から、優れた武将であった父・如水に対して、息子・長政は、それほどでもなかったという印象を持ってしまいますが、どうして、その働きぶりは大したもんです。
如水も、それは充分にわかっていたと思います。
なぜなら、如水は、自らの死の間際に、「優秀な家臣を長政のために残してやりたい」として、自分への殉死を禁止して、わざと悪態をついて、家臣からの信頼を失うようなそぶりを見せていたとも言われているからです。
それは、息子が頼りないからではなく、自分とは違う道を歩もうとする優秀な息子が、さらに能力を発揮するためのプレゼント・・・
家康を越えようとした父と、家康の配下で上りつめようとした息子・・・どちらも勇将。
人生も、適材適所・・・ムリをしてはいけません。
その人に合ったいごこちの良い場所という物が、きっとあるはずですから・・・。
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コメント
昨日放送の「なんでも鑑定団」で、黒田官兵衛の太刀の鞘が400万円の値がつきました。長政は福島正則と兜の交換をしたと聞きます。
投稿: えびすこ | 2010年8月 4日 (水) 13時29分
こんばんは。毎日楽しみに読ませて頂いてます。
今日はなんとっ!!大好きな黒田官兵衛!!!…の息子の長政。“官兵衛が好き”と言うより、“黒田家&家臣団”が大好きです。
2世武将の長政。父があまりにも凄すぎて、あまり評価が…。輝元、勝頼、織田ブラザーズ等々。ってな2世武将ですが、最近は“見方”が変わったんです。例えば今川義元さんトコの息子さん。はっきり言って、時代が違えばメチャクチャ凄くないっスか?自分の中では“アントニオ猪木(義元)の嫡男、稲葉浩志(氏真)”なんです。…ハイ、すみません。言い過ぎました。
でも、今川親子は、このイメージに近いモノだったと思うんです。残念と言うか、惜しいと言うか…。『時代って、酷い』と思う今日この頃。
投稿: 佐賀の田舎者 | 2010年8月 4日 (水) 23時11分
えびすこさん、こんばんは~
>長政は福島正則と兜の交換を…
なんだか、サッカーの試合後みたいでイイですね( ̄▽ ̄)
投稿: 茶々 | 2010年8月 5日 (木) 03時00分
佐賀の田舎さん、こんばんは~
確かに、生まれる時代っていうのもありますね~
関ヶ原後も、如水に警戒心を抱く家康に、如水は「心配しなくても、もう、そんな事しないよ」ってな事を言ったらしいですが、やっぱり、それも、時代が変わったという事を痛感しての事かも知れませんね。
まぁ、本人の年齢もあるでしょうが…
投稿: 茶々 | 2010年8月 5日 (木) 03時06分
茶々さまこんにちは。黒田如水、好きですね~。子供の頃、孔明みたいな軍師の立場の人に憧れ、サラリーマンとなってからはその難しさを痛感しております。武将とは違う魅力を感じさせる軍師の話しを待ってます。
投稿: 伸之介 | 2010年8月 5日 (木) 07時18分
伸之介さん、こんにちは~
私も、高校時代に「よく当たる」と評判の占い師から「諸葛孔明の生まれ変わりや」と言われてからというもの、孫子を読みふけり、準備万端整えておりますが、未だに軍師になれません(p´□`q)゜o。。
憧れます!
投稿: 茶々 | 2010年8月 5日 (木) 11時02分
初めまして。カムバッカーといいます。
確かNHKの番組の「その時歴史は動いた」の最後で、あんまりに長政の悪口を言う如水を切腹覚悟で諌めにいった家臣の話を聞きました。
その時の如水曰く
「そなたのような家臣がいて黒田家は幸せだ。長政のやり方が面白くなければ、私を担ぎ出して、という輩が出てくる。そんな輩を出さないために私はあえて、長政の悪口を言って私のところに来ないようにしているのだ」
と答えたそうです。
如水はジェネレーションギャップをも、利用しようとしたのかもしれませんね。
投稿: カムバッカー | 2010年8月16日 (月) 03時43分
来年の新春時代劇で黒田長政を演じる俳優にも注目したいです。劇中では30代半ばまでなので、若手俳優になりますが誰でしょうね?
同じ時代を取り上げる大河ドラマと、配役が重複しないように配慮しないと。
投稿: えびすこ | 2010年8月16日 (月) 09時11分
カムバッカーさん、こんにちは~
>確かNHKの番組の「その時歴史は動いた」の最後で…
「家臣に嫌われるように悪態をついた」
というのは、その事なんでしょうね~
ひょっとして、武田家を反面教師にしたのかも…
投稿: 茶々 | 2010年8月16日 (月) 11時59分
えびすこさん、こんにちは~
高橋克典さんの息子ですからね~
あんまり、年齢がひっついてると、ちょっと違和感出ますね
投稿: 茶々 | 2010年8月16日 (月) 12時02分
今日の一部のスポーツ新聞では、「江 姫たちの戦国」の放送開始日が「1月9日」と出ています。昨日収録が始まったようです。
1月2日は安心して(?)黒田官兵衛を見られますね。新春ワイド時代劇の配役も気になります。こちらも近々収録をするでしょう。
投稿: えびすこ | 2010年9月 8日 (水) 10時30分
えびすこさん、こんにちは~
やっぱ、2日は特番ですかね( ̄ー ̄)ニヤリ
投稿: 茶々 | 2010年9月 8日 (水) 11時01分