戦国リボンの騎士~女城主・井伊直虎
天正十年(1582年)8月26日、遠江・井伊谷の領主であった井伊氏の第23代当主・井伊直親から、次の24代当主へバトンタッチするまでの約18年間、井伊家の当主を務めた井伊直虎がこの世を去りました。
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手塚治虫先生の少女漫画の代表作「リボンの騎士」をご存じでしょうか?
男性しか王位につけないシルバーランドの王女として生まれたサファイア・・・しかし、王の従兄弟であるジェラルミン大公が、スキあらば息子のあほプラスチックを王位につかせようと画策するため、サファイアは女性であるにも関わらず男性として育てられ、公にはサファイア王子として、時々はリボンの騎士に変装しながら、悪と戦うというストーリーです。
これと同じように、女でありながら、公には男として家督を継ぎ、家系を守った女当主が、戦国時代の日本にいたのです。
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そもそもは、南北朝時代からの今川氏との確執にさかのぼります。
この時、南朝方だった井伊氏は、自らの領地・井伊谷に宗良(むねよし)親王を迎え入れて北朝と戦いますが、空しく敗れ去り、大きな痛手を被ります。
しかも、ご存じのように、大勢は北朝の勝利・・・世は、足利の天下となってしまい、結局は北朝方の今川貞世(さだよ・了俊)に従う事となり、室町幕府下で九州探題となった貞世の配下として、九州にまで遠征するハメになってしまいます。
続く応仁の乱では、遠江(とおとうみ・静岡県西部)の守護だった斯波(しば)氏に従っていましたが、その守護職を巡って、斯波氏と今川氏が争うようになると、何とか今川の支配から逃れようと斯波氏に味方して戦いますが、またしても敗北・・・結局、その後、遠江の守護となった今川氏に従属させられてしまうのです。
やがて天文十一年(1542年)、第21代当主だった井伊直宗(いいなおむね)は、今川氏の命令で三河(愛知県東部)の田原城を攻めますが、ここで戦死してしまいます。
当主の戦死を受けて、井伊家では嫡子・井伊直盛(なおもり)が第22代当主となるのですが、この直盛さんの娘が、本日の主役です。
そう、実は、この直盛さんには、子供は、彼女一人しかいなかったのです。
当然の事ながら、当主に後継ぎがいないと不安です・・・なので、ここは、近親者に、一人娘の婿となって後を継いでもらおうと考えます。
とは言え、直盛には兄弟もいませんでしたから、父=直宗の弟にあたる直満(なおみつ)の息子(つまり直盛の従兄弟)の亀之丞(かめのじょう)を、娘の婿に迎える事に決まり、二人は婚約します。
ところが、この結婚を快く思わない人物が・・・それは、直盛の重臣・小野政直(道高)でした。
彼は、もともと直満とは性格は合わないし、将来、彼の息子が当主になれば、その力が強大になって惣家に取って代わるのでは?と心配したのです。
そこで、大物である今川義元にチクリ・・・「直満と、その弟・直義(なおよし)が、今川家に逆心を抱いている」と告げ口したのです。
その報告を、すっかり信じた義元は、すぐに、直満と直義を駿府(すんぷ)に呼んで殺害・・・そして、当時まだ9歳だった息子の亀之丞にも魔の手が伸びたため、亀之丞は信濃(しなの・長野県)へと逃亡し、以後、12年間という年月を隠れるように過ごす事となります。
10年後に、あのチクリの政直が亡くなってはじめて、直盛の訴えが義元に聞き入れられ、やっと罪を許させて、彼を井伊谷に呼び戻す事ができたのです。
ところが・・・すでに17歳になっていた亀之丞は、信濃で自分をかくまってくれた恩人=奥山親朝の娘と結婚してしまっていたのです。
直盛・父娘ショ~~ックΣ( ̄ロ ̄lll)
しかし、状況が状況・・・直盛は、これを許し、亀之丞を養子に迎えて直親(なおちか)と名乗らせました。
結婚を夢見ていた乙女の心の傷はいかに???
ところが、そんなこんなの永禄三年(1560年)、直盛は、義元に従軍して遠征中に討死してしまうのです。
そう、あの桶狭間の戦い・・・織田信長の奇襲にヤラれたのです。
またしても当主を失った井伊家・・・養子となっていた直親が、第23代当主となり、それから間もなく、待望の男の子=虎松が生まれます。
父の従兄弟の元婚約者が当主となって、その彼に後継ぎができた・・・「もう、私の出る幕は無いわ」と、亡き直盛の一人娘は、出家を決意します。
そこで、彼女は親戚(大叔父)でもあり、龍譚寺(りゅうたんじ)の住職でもあった南渓(なんけい)和尚に相談しに行くのですが、和尚の答えは、耳を疑うとんでもない物でした。
「出家は許す!・・・ただし、男になって出家しなさい」
「ハァ???┐(´д`)┌」
困惑する彼女・・・
「確かに、直親が家督を継いで、嫡男も生まれた・・・しかし、まだ、生まれたばかりやないかい!世は戦国や、何があるかワカラン」
そうです。
女が出家すれば尼と呼ばれ、男が出家すれば僧と呼ばれる・・・僧が還俗(げんぞく・一旦出家した人が一般人に戻る事)すれば家督を継げますが、尼では継げません。
もしもの時のために、その身をキープしておけ・・・という事です。
かくして、彼女は、次郎法師(じろうほうし)という名前で出家します(出家した時期&理由については諸説あり)。
これは、井伊家の惣領(そうりょう・後継ぎ)が代々名乗る備中次郎を継承した出家名・・・もちろん、男用の名前です。
いや、ここで、男の名前をつける事で、周囲の誰もが女だと知っている彼女という人物を、公には男という事にしたわけです。
正式な後継ぎは、まだ幼いが、還俗すれば、いつでも家督を継げる人物が井伊家にはいると、他国には見せかけたのです。
南渓和尚の読みが的中するのは、わずかに2年後・・・あのチクリ政直の息子・小野政次(道好)が、またしても父と同じ事を・・・
亡き義元の後を継いで、今川の当主となっていた氏真(うじざね)に・・・
「直親は、密かに、徳川家康や織田信長と通じてまっせ!」
と・・・
で、またしても、すっかり信じた氏真が激怒!
身に覚えのない言いがかりをつけられた直親は、弁明のため、氏真のいる駿府へと向かいますが、途中で、氏真の家臣に殺されてしまうのです。
わずか2歳の虎松は、井伊家の重臣・新野親矩(にいのちかのり=左馬介)にかくまわれ、何とか助かりました。
そして、幸いな事に、かつて第20代当主を務めた彼女の曾祖父(直宗の父)・井伊直平(なおひら)が、84歳という高齢ながら健在でしたので、とりあえず、直平が当主という事で・・・。
しかしながら、急きょ当主に返り咲いた直平も、その1年後の永禄六年((1563年)、今川の命令で敵地に向かう途中に亡くなってしまうのです(毒殺とも病死とも)。
しかも、その翌年、かの親矩が、とある戦で戦死してしまった(12月20日参照>>)ために、虎松をかくまっていた事が氏真にバレてしまいます。
即座に機転を利かせた親矩の妻によって、その命取られる前に虎松を出家させ、何とか殺されずにすみました。
・・・とは言え、当然の事ながら、井伊家の当主になる人物がいなくなってしまったわけです。
ここで、一族家臣相談のうえ、次郎法師を還俗させて、当主と仰ぐ事にしたのです。
かくして、還俗した次郎法師は、井伊直虎(いいなおとら)と名乗ります。
このいかにも男っぽい名前は、それこそ、他国にナメられないため・・・顔写真のついたパスポートも免許証もない時代です、彼女の顔を知らない者にとっては、この名前なら、どっからどう見ても猛々しい武将にしか思えません。
領内の社寺に残る、この頃の黒印状や命令書などの文書には、「次郎直虎」の署名と花押(かおう・武将のサイン)が、力強く記されています。
しかも、主家である今川家からの徳政令即日実施の命令にも、「ウチの事は、ウチ独自で考えますよって」と突っぱね、3年間も引き延ばすという、当主の意地も立派に見せてくれています。
さらに、今川家の先行きを、見事に読んだ直虎は、徐々に家康に近づき、家康が遠江に進攻した時には、ちゃっかりと家臣の井伊三人衆を道案内に差し向けたりもします(10月22日参照>>)。
途中、南下してきた武田信玄の家臣・山県昌景(やまがたまさかげ)に井伊谷城を奪われる場面もありましたが、養子として育てた虎松を家康のもとへ馳せ参じさせ、家臣に取り立ててもらえるよう努力するのも忘れませんでした。
やがて、家康に気に入られた虎松は、かつての井伊家の旧領を与えられ、小姓に取り立てられます。
彼女が女を捨てて守った井伊家が、やっと次世代へつながったのです。
かくして天正十年(1582年)8月26日、彼女は、世間的には男・直虎のまま、この世を去ります。
彼女の死を受けて、虎松が、第24代当主となり、その名を井伊直政(なおまさ)と改めます・・・そう、後に、徳川四天王の一人となり、井伊の赤備えで名を馳せる、あの井伊直政です(2月1日参照>>)。
彼女=直虎が女であった事が明かされるのは、江戸時代に書かれた『井伊家伝記』によって・・・
「備中次郎と申す名は井伊家惣領の名、次郎法師は女にこそあれ、井伊家惣領に生まれ候(そうろ)う間、僧侶の名を兼ねて次郎法師とは是非なく、南渓和尚お付け候う名なり」
ここで、初めて、人々は、生涯独身を貫いて井伊家を守った、勇猛な女当主の存在を知る事になるのです。
追記:大河ドラマの第1回の感想等については2017年1月12日のページでどうぞ>>
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コメント
茶々さん、こんにちは!
井伊直虎、意外に注目すべき女傑ですね。現在のご時世なら、時代劇作品の主人公としてもいけるかも…
投稿: 御堂 | 2010年8月26日 (木) 14時37分
御堂さん、こんばんは~
直虎、主人公…
いけると思います。
かっこよく描いてほしいですね~
投稿: 茶々 | 2010年8月26日 (木) 20時06分
初めて知りました。いや~ドラマチックな・・すごい人生を歩んだ女性もいたもんですね。まんま、ドラマになるやん・・歴史に名を残す名家になったのもこの人の踏ん張りのおかげ?あの井伊直弼につながるんですよね?いろんな人生があるんだなぁ・・・
投稿: Hiromin | 2010年8月26日 (木) 20時59分
茶々さまこんにちは。今回も歴史のもつ面白さと魅力を堪能させていただき有り難うごさいます。生き抜くためには、捨てなくていけないものもあれば、逆に残さなくてはならないものもある。大事を達する生き方・考え方に、戦国時代も今も同じと思いました。歴史を知ることで未来がわかる?。歴史はいいですね。
なお、もし女優さんなら誰?私は天海ゆうき?さんをイメージしました。
投稿: 伸之介 | 2010年8月26日 (木) 21時21分
Hirominさん、こんばんは~
>あの井伊直弼につながるんですよね?
そうです、そうです!
彼女の踏ん張りがなかったら、井伊直弼が世に出る事もなかったかも…
歴史のおもしろさを感じますね~
投稿: 茶々 | 2010年8月26日 (木) 23時58分
伸之介さん、こんばんは~
>私は天海ゆうき?さん
わぁ、ホント!ぴったりですね~
天海さんなら、公の男の部分とプライベートな女の部分を、見事に演じわけてくれそう…いいですね~
投稿: 茶々 | 2010年8月27日 (金) 00時02分
再来年の大河ドラマの主人公に決まりました。柴咲コウさんが主演です。
実は地元の人が大河化運動をしていたようなんですが、生涯独身だった女性が主人公になるのは大河ドラマ初では?
ところで女性としての幼名は不明なのでしょうか?大河ドラマになるので最初は便宜上女性名を使いますね。男性名の諱が直虎なので「虎姫」とか。
桶狭間の戦いの時に20歳くらいだとすると、享年は40代半ばかな?柴咲さんは17年に36歳。
映画・大奥で女将軍だったことが今回の起用につながったかも。
投稿: えびすこ | 2015年8月27日 (木) 08時58分
えびすこさん、こんにちは~
大河に決定したおかげで、ここ3日ほど、このページがブログ内でのアクセス1位のページとなってます。
ありがたいです。
女性の場合、公式記録に名前が残るのは、ごくマレですね。
まして、直虎の場合は女である事を公表して無かったですし、当主の○代にも入っていないので…
女性の名前がわかる場合、大抵は、誰かの手紙の中で通称が登場ずるか、本人が手紙を出すか、その女性自身に宛てた手紙とかで判断されるわけですが、直虎の場合は、公には男の名前で書状とか書いてるでしょうしね。。。
どーなんでしょ?
残ってるのかな?
投稿: 茶々 | 2015年8月27日 (木) 15時49分
当主の代数にカウントされていないのですか。
後の時代に歴代当主の代数を整理する際に代数に数えなかったのかも?
取り上げる時代で見ると徳川家康の幼少期や、織田信長・豊臣秀吉の青年期が見られるでしょう。
何よりも早くも着目されている点が、「大河ドラマ主人公では異例の生涯独身だった女性」という点ですね。
女性が主人公の場合は結婚はしている人(しかも直近5年では再婚経験者が続いた)だったので。
投稿: えびすこ | 2015年9月 1日 (火) 17時53分
えびすこさん、こんばんは~
彦根城博物館の井伊家の系図も「直親」の次は「直政」になってますから…
(これを機会に、直虎が入るかも知れませんけど)
神功皇后も寿桂尼も、夫に代わって政権運営やってますが、○代には入れないので、やはり次の代への中継ぎの感覚が強いのでは無いか?と…
直虎の場合、唯一の近親者である直親に正室がいる以上、結婚できないでしょう。
直親とて、惣領の姫を側室にするわけいかないし、一旦正室で迎えた姫に、「惣家継ぐんで側室になって」とも言えないし、するとしたらお世話になった信濃の姫と離縁するしか無いし…
(黒田長政は離縁したけど…)
あくまで私見ですが、嫁ぐ相手が複数あれば何回でも結婚するし、無ければ一生結婚しないのが戦国の姫なのでは無いか?と…
信玄娘の松姫も状況の変化で、1回も結婚せず出家しましたし…
あと、結婚してない女性は、歴史の記録に残る確率が少ないので、必然的にドラマの主役になる方は結婚してる方が多くなると思います。
投稿: 茶々 | 2015年9月 2日 (水) 03時43分
明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
茶々さん、
井伊直虎は地味な当主ですね。
でもその地味な女当主がその後の井伊家の基礎を作るのですから世の中は分かりません。
鹿児島でも島津常盤と言う地味な未亡人がその後の島津家の基礎を作りました。
結構江戸時代までは女城主は多いのだなと思いました。
井伊直虎がリボンの騎士だと島津常盤は野球を想像したのもありますが、野球狂の詩の水原勇気です。この二人が代表的な戦国の女城主ですが他には何方が有名でしょうか?最近政宗の伯父も母も見直されているそうですね。
投稿: non | 2017年1月 8日 (日) 16時10分
今回の大河は子役の時が長いですね。
徳川家康、政宗、春日局等は子役の期間が長かったですが、最近見られなかったで異例だと思いました。
投稿: non | 2017年1月 8日 (日) 21時25分
nonさん。明けましておめでとうございますm(_ _)m
子役時代が1ヶ月ほどあるらしく、ネットニュ-スでは「大河で最長」ってなってましたが、私のイメージでは「北条時宗」が、幼少期の子役さんと、青春期(中学生くらい)の子役さんとがいて、結構長かった気がしてるのですが、記憶違いで、実際にはそうでも無かったかも…ですね。。。
とりあえず、前年の「真田丸」で43歳の俳優さんに15歳の役を、また「姫たちのアレ」みたいに25歳の女優さんに8歳の役を演じさせるような事は、個人的には好きではありませんので(役者さんが気の毒)、その点では良かったと思っています。
戦国時代の女城主系の人物に関しては、このブログでも、赤松洞松院>>、今川寿桂尼>>、吉岡妙林尼>>、龍造寺慶誾尼>>、
などなどご紹介していますが、彼女たちは、病気や死亡で夫や息子が政務をこなせない状態だった時に政治手腕を発揮したり、当主が留守の間に城を守ったりで、一時的に城主の役割を果たしてはいますが、いずれも、危機的状況の際の中継ぎ的な感じで、結局のところ、直虎同様、城主や当主に数えられる事は無く、○○代城主や●●代当主という呼び方はされませんので、厳密には城主でも当主でも無いんです…残念ですが、
なので、ご質問通り「女城主として一人有名な人をあげる」としたら、やはり立花誾千代>>でしょうね。
彼女は、父の立花道雪から、通常の男性当主の相続と同じ手続きを踏んで、主家である大友家の許しを得た上で立花家の当主&城主となり、後に宗茂が婿養子となった後も、夫とは独立した別行動をとってますから…、
ま、そこには、戦国特有のどっちか生き残る作戦=お家存続の駆け引きもあったんでしょうが、「夫の代わりに」「息子の代わりに」城主をこなすのとは、明らかに違う感じがしてます。
投稿: 茶々 | 2017年1月 9日 (月) 03時39分
茶々さん、おはようございます。
日本はローマによく似ています。両方とも女系を認めないのと女当主がいないのです。カラカラ帝以降にその母親と妹のユリアマエサ、ユリアマイナ姉妹が実権を握りましたが皇帝ではありませんでした。イギリスでもマルティナ、ジェーングレイと言う女王がいましたが、ロンドン市民が賛成しなかったので公式記録に載っていません。と言う位に男以外は君主と認めない伝統が欧州にもあります。
と言いましても義元の母、直虎、常盤等は実質当主です。中継ぎですが・・・おまけに家康の正室の瀬名みたいな当主よりも力がある妻もいますので江戸時代まで甘く見積もっても明治時代までは結構女当主みたいな位な地位が実質あったのかなと思います。神功皇后も明治までは即位したことになっていますし、これを書くと右翼が怒るでしょうが、顕宗天皇、仁賢天皇の前には叔母が政務をとっていましたし、平安時代では即位していませんが女院と言う形がありましたので男女の差は無かったと思います。実は欧州ではフランス革命以前の頃の方が女の人の力は強かったのです。その名残でしょうか欧州の王国は王妃でなく女王と大使館ではそう書いています。つまり近世までは男女対等だったらしいのです。不思議な事ですが・・・
まあ成人の日ですが、お互いがお互いを支えあう時代を作ってほしいなと思います。私は独身で終わるので無理ですが・・・
ところで女当主と言いますと我が家もそうなのです。父方の祖母、母も当主でした。母の場合は私が収入なしなのでですが・・・
投稿: non | 2017年1月 9日 (月) 09時26分
でも今回の大河ドラマは地味な主人公を焦点にあてていますね。
それならば北条早雲、里見八犬伝でも良かったのにと思いながらも去年静岡に行って面白かったので良いなと思いました。
静岡市、浜松市ですが、何だか今回は浜松が良くて、静岡が悪みたいですね。
直虎がリボンの騎士だと義元の母は何になるのでしょうか?ブラックジャックのブラックレディーでしょうか?それとも瀬名がブラックレディーかな?島津常盤は野球狂の詩の抑えの水原勇気みたいになっていますが、政宗の母とかは何になるのかなと思ったりします。でも皆漫画のヒロイン同様に気が強いなと思いました。お今さんみたいに切腹をする人もいるくらいですから・・・
投稿: non | 2017年1月 9日 (月) 10時23分
nonさん、こんにちは~
現在の人が頭に描く男尊女卑的な差別の感覚は、江戸時代になって儒教が浸透してからだと言われています。
それまでは男女に違いがあっても差別ではなく、特に戦国時代は日本の歴史上、最も女性の地位が高かった時代です。
差というよりは役割が違うのです。
なんせ、男性が子供を産むことは、どうやってもできませんから、役割に違いが出るのは当然です。
投稿: 茶々 | 2017年1月 9日 (月) 16時57分
茶々さん、こんばんは。
西欧でもイスラム社会でも戦国時代と言いますか中世では女性の地位は高く、女城主、女王、女指導者、女将軍が数多くいました。ところが近代になると一気に消えてしまいました。女王は中継ぎ扱いです。ヴィクトリア女王でさえもそうです。本当に男尊女卑が激しくなりました。
確かに男は子供を産めません。役割に違いが出ます。ハプスブルグだとマリアテレジアが政治、財政を夫のフランツ1世が担当しました。奥さんの方が権限が強かったですが・・・
江戸時代の儒教も大きいですが、西欧文明の影響も男女の格差が生んだのかなとヴィクトリア女王の話を聞きながらそう思いました。
戦国時代もそうですがWW2の時も女性は強く女子野球チームもありました。男が戦場に行くと家を女性が守るからかなと思います。直虎も義元の母もそうかなと思います。城主代行でないですが政宗のお母さんも凄いですね。戦場に駕籠で駆け付け、最上義光、政宗の戦をやめさせました。政宗は母親に似ているのではと思います。ナポレオンの所も母親の方が勇ましいです。英雄は母親が強い人が多いです。
投稿: non | 2017年1月 9日 (月) 20時55分
nonさん、こんばんは~
日本では、古代から明治までの長きに渡って、他者に本名を晒す事は良く無い事とされて来た経緯があります。
特に女性は名前の残って無い人が多いですが、上記の経緯から「名前が残っていない=あまり政務に関わって無い」事にはならないが、日本の歴史でもありますね。
現在では、
「○○さんの奥さん」
「○○ちゃんのママ」
と言われると、「1個人として扱われていないようで不快」とおっしゃる奥さま方も多いですが…
投稿: 茶々 | 2017年1月10日 (火) 03時40分
井伊直盛の一人娘として生まれた井伊直虎(次郎法師)は、波瀾万丈の人生を送ったといっても過言ではありませんね。何しろ井伊家の人々が、次々と不幸に見舞われたことで、存続の危機を回避しなければ
ならなくなったわけですから、並大抵の苦労ではないと思います。今でこそ、男女平等の時代ですが、直虎のような女性がいなかったら、井伊家そのものが、完全に滅亡していたかもしれません。まさしく、直虎あっての井伊家ではないでしょうか。あと、話が逸れてしまいますが、来年もよろしくお願いします。
投稿: トト | 2017年12月29日 (金) 08時35分
トトさん、こんばんは~
ホント、もう少し史料が残っていたら良かったですね~
こちらこそ、来年もよろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2017年12月30日 (土) 00時59分