インドネシア独立のために戦った日本人
昭和二十年(1945年)8月17日、インドネシアが独立宣言を発表しました。
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昭和二十年と言えば、太平洋戦争の終った年・・・つまり、日本が敗戦した2日後に、インドネシアは独立を宣言したという事になります。
そもそもは、17世紀に始まる西欧諸国のアジア進出・・・この頃にオランダの植民地になって以来、インドネシアは約350年に渡ってオランダの支配下にありました。
この時代のインドネシア人は、貧困に次ぐ貧困・・・支配者からは、まるで家畜のように扱われ、一説には、インドネシア人の平均寿命が35歳まで落ち込んだと言われるほど、厳しい政策だったと言われています。
そうなると、当然の事ながら、国民の支配者への反感がつのる事になりますが、インドネシアには、12世紀頃に活躍したジョボヨヨ王の予言という伝説があって、オランダの支配から抜け出す術を持たない民衆は、しだいに、その予言に希望を抱くようになっていったのです。
その予言というのが・・・
「北方の空から黄色い強者が降ってきて、圧政者を追放してくれるだろう」
というもの・・・
やがて、日露戦争において、日本が勝利すると(9月5日参照>>)、がぜん予言は真実味をおび、「黄色い強者は日本人の事ではないか?」という事が、本当に信じられるようになったのです。
なので、太平洋戦争が始まった翌年の昭和十七年(1942年)に日本軍がインドネシアに上陸をはじめると、現地の人々は、「予言通り、黄色い人間が異民族を追い出す時がやってきた!」と大いに喜び、積極的に日本軍の作戦に協力・・・
そのおかげもあって、日本軍は、上陸から、わずか8日間でオランダを降伏させ、今度は、日本が軍政をしきました。
しかし、それは、オランダの支配下の時代とは少し違うものでした。
- オランダ語に代わるインドネシア語の採用
- インドネシア人の軍事訓練
- 住民組織の確立
- 行政組織の重要箇所をインドネシア人に委譲
などですが、これらは、後に、「日本軍占領での利点」としてインドネシアの教科書に掲載された事もあったほどですから、占領下とは言え、彼らにとっても、良い政策だったと思われます。
ところが、昭和二十年(1945年)8月15日・・・ご存知のように、日本は敗戦します。
その直後のオランダの構想は、未だ現地にいる日本兵と交代する形で、再び、インドネシアをオランダの支配下に置こうというものでしたが、それを知った現地住民は、このまま独立を勝ち取ろうと考えたのです。
かくして昭和二十年(1945年)8月17日、インドネシアは独立宣言を発表したのです。
これに対してオランダは、すぐさま宣戦布告・・・インドネシア独立戦争の始まりです。
しかし、近代兵器を持つオランダに対して、武器のないインドネシアは竹ヤリでの応戦・・・この頃、未だ現地に残っていた日本兵の中には、オランダに協力すると見せかけて武器の輸送を担当し、その武器をインドネシア側に横流ししていた者もいたとの事ですが、そんなのは、いずれはバレてしまいます。
そんな中、現地に残っていた日本兵の中には、連合軍の支配下となった軍を離れ、インドネシア独立のために戦う者も出てきたのです。
やがて、それは、現地に残っていた一般の日本人にも広がり、1000とも2000とも言われる数の日本人が、独立のためのゲリラ戦を展開する事になるのです。
それから4年5ヶ月に及ぶ戦乱・・・インドネシアでの戦死者は80万人を数え、そこに参戦した日本人も大半が戦死したと言いますが、それは、やがては、オランダへの非難を呼ぶ事になり、結局、オランダはインドネシアの独立を認めざるをえない形となったのです。
独立戦争を生き残った宮原永治は、
「自分がインドネシアに来たのは、インドネシアを独立させるため・・・それは、自分の責任において最後までやりぬかねばならない事だと思った」
と語っています。
また、東京の青松寺(せいしょうじ)には、「市来竜夫君と吉住留五郎君へ」と書かれた石碑があります。
そこには、
「独立は一民族のものならず、全人類のものなり」
という、インドネシア初代大統領・スカルノの言葉が記されています。
この市来と吉住なる人物は、かの独立戦争で命を落とした日本人です。
確かに、日本の軍政にも、問題がなかったわけではありません。
また、太平洋戦争へと突入する過程など、日本とアジア諸国との関係は、未だに語りつくす事のできないものでもあります。
しかし、インドネシアの独立記念日では、その式典で、今なお、日本軍の軍服を着た人が国旗掲揚をし、誇らしげに日本の軍歌が歌われるという事実・・・そこには、インドネシア独立のために戦った日本人への感謝の気持ちが、少なからず、込められているはず・・・
一日本人として、心に留めておきたい物語の一つです。
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コメント
戦争でひどい目に会ったのはすべて日本軍のせい!というのはチト短絡的ではないか、どこか八つ当たりみたいなところがないか、と思ってました。そりゃ今振り返れば‘あれがいけない’‘これもいけない’とつっつくところもあるんでしょうが、物事必ず別の側面からも見なくてはいけないと思います。感謝されることもしてるのです。それは知っていなくてはいけないと思います。こんな事言うと「軍国主義を美化するのか~!」とキレられるご時世ですが、美化も罵倒もおかしい、‘こんなことがありました、あんなこともありました’と冷静に伝えることが大事じゃないかと思います。戦争関連の話題が多い中、(私はほとんど見ませんが)こういう事を教えて下さってありがとうございます。TVだと取り上げるのは難しかったかも。
投稿: Hiromin | 2010年8月17日 (火) 20時32分
こんばんは。 デビイ夫人も日本とインドネシアの関係に貢献したようです。
投稿: やぶひび | 2010年8月17日 (火) 22時25分
Hirominさん、こんばんは~
私も、インドネシアの方々が、日本語で日本の軍歌を歌いながらパレードをしている独立記念日の映像を、初めて見た時は驚きました。
今日のお話は、日本人よりもインドネシアの方のほうが、よくご存知なのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2010年8月18日 (水) 01時18分
やぶひびさん、こんばんは~
デビ夫人はスカルノさんの第3夫人ですもんね~
ホント、若い時はものすごくキレイでした…あ、今もキレイですが(^-^;
投稿: 茶々 | 2010年8月18日 (水) 01時21分
いくら強弁しても関東軍には正義はありません。だが、欧米列国の植民地支配からの脱却を訴えたアジア主義のなかには正しく発展していけば20世紀が変わったかも知れないと思うところがありました。孫文や周恩来なども日本に期待していたことと思います。決して左派ではありませんが、中国の軍事力の脅威だけを言う人もいますが、米国の軍事力も中国にとっては脅威のハズです。
投稿: syunchan | 2010年8月18日 (水) 18時53分
syunchanさん、こんばんは~
私も、右でも左でもありませんが、良い事も悪い事も、あった事はあったと後世に伝えていってほしいと思います。
投稿: 茶々 | 2010年8月19日 (木) 02時57分