豊臣秀吉の遺言と徳川家康の思惑
慶長三年(1598年)8月9日、病床の豊臣秀吉が徳川家康や前田利家らを呼び、秀頼の将来と朝鮮からの撤兵を依頼しました。
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この年の5月頃から体調を崩していた豊臣秀吉・・・
徐々に悪化する病状に、死期を感じた秀吉が、居城の伏見城に、度々、諸大名を召集して、この国の行く末や、息子・秀頼の将来について、様々な遺言めいた頼みをしていた事は有名な話ですが、本日は、この慶長三年(1598年)8月9日に行なわれた秀吉との面会について書かれた書状をご紹介しましょう。
それは、毛利家と縁戚関係にある重臣・内藤隆春(たかはる)が、息子・元家に宛てた8月19日付けの書状で、その中に「去る、9日の出来事」として語られています。
(ちなみに、秀吉はこの日から9日後の8月18日に62歳でこの世を去ります)
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その日の秀吉は、上段に座し、敷物を敷いた上に脇息(きょうそく・和風のひじかけ)に寄りかかりながら・・・そばには、数人の女性がいたとの事。
そこに居並ぶのは、左座に、徳川家康、前田利家、伊達政宗、宇喜多秀家、右には毛利輝元・・・
この内藤さんにも、最近は、あまり体調がよろしくないとの噂が耳に入って来ていて、当日も、秀吉自身が「もう、快復する見込みはないわ~」なんて、弱気発言をしている時には、その声もかすかに聞こえる程度で、いかにも弱々しく感じられたと言います。
しかし、いざ、今後の事を話す時になると、持っていた扇で畳を叩きながらの熱弁で、まるで、以前と変わらない激しさであったそうです。
そして、秀頼が王位(関白)につくまでの今後の事は、家康と輝元の両人に頼むと・・・
さらに、東西の事は家康・輝元の二人に、北陸の事は利家に、畿内の事は5人の奉行に任せたい・・・
さらに、さらに、朝鮮からは、速やかに撤退するように、とも付け加えます。
そして、「今日が最後になるかも知れないから・・・」
と、居並ぶ者たちとともにお酒を酌み交わし、奥へと戻ろうとしたのです。
・・・が、ふと、立ち止まって、そろそろと戻って来たかと思うと、家康と輝元を呼び戻し、立ったまま・・・
「これまで頼んだ事は、忘れたらアカンで~」
と、釘を刺したのだとか・・・
同席していた毛利家臣の佐世元嘉(させもとよし)などは、
「こんなにも、自分の死後の事を明確に決めた人を見た事がない!前代未聞や!」
と絶賛し、さすが天下の名将は違うと大感激だったようです。
・‥…━━━☆
・・・で、ここでも出てきましたね~
そうです。
「東西の事は家康・輝元の二人に、北陸の事は利家に、畿内の事は5人の奉行に・・・」
のくだりです。
以前、【関ヶ原から大坂の陣~徳川と豊臣の関係に新説?】(5月10日参照>>)でも書かせていただいたように、家康の征夷大将軍の就任は、秀吉の構想の中にすでにあった事なのです。
家康が征夷大将軍として東を治め、輝元が鎮西将軍?として西を治め、畿内が五奉行・・・そして、その上にいるのが関白たる秀頼なのです。
天正十六年(1588年)頃から文禄年間(1593年~95年)にかけての、公家の日記や大名の日記、談話集などには、当時の秀吉の構想が垣間見えます。
それらによれば・・・
(内容は、「中山家伝」「輝元公上洛日記」「御湯殿の上の日記」「時慶卿記」「三伝奏連署状」「北越耆談」などを参考にしています)
秀吉は、公家の家格にならい、武家にも家格を導入していました(7月15日参照>>)。
豊臣本家は、公家でいうところの近衛・鷹司・九条・二条・一条の五摂家に相当する家格・・・つまり、摂政や関白を輩出する家柄です。
そして、徳川・毛利・上杉・前田・小早川といった大老の立場にあった大名は、久我・転法輪・三条・西園寺・徳大寺・菊亭・花山院・大炊御門などの七清華に相当する家格・・・
しかも、この秀吉が決めた武家の家格は、秀頼の時代にも残っており、だからこそ、公家や諸将の年始の挨拶は、秀吉生存の頃と同様に行なわれていたわけで、個人的な官位は、秀頼より家康が上でも、家格は豊臣家のほうが上で、この先、秀頼が関白になる事はあっても、家康や秀忠が関白になる事はないのです。
あの慶長十六年(1611年)3月28日の、二条城における家康と秀頼の会見も、通説では、家康が秀頼を呼びつけ、アウェーな空気の中、豊臣より徳川が上であると見せつけたとされていますが、どうやら、そうでもないようなのです。
・・・と、言いながらも、実は、私も、以前は通説の通りだと思っていました。
以前書かせていただいた【家康×秀頼~二条城の会見で出された饅頭は・・・】(2008年3月28日参照>>)のページでも、そのようなニュアンスで書かせていただいています。
もちろん、今でも、それが通説なのですから、一般的にはそれで良いのかも知れませんが、私個人の現在の考えは違います。
先の【関ヶ原から大坂の陣~徳川と豊臣の関係に新説?】のページで書かせていただいたように、以前から、関ヶ原の戦いの後に、豊臣家の石高が大幅カットされて一大名に成り下がっていたとしたら、つじつまの合わない事が多すぎるという疑問に、スッキリした回答を出すには、関ヶ原の後も、豊臣家がトップだったとするしかないと考えるしかないようになったのです(2014年3月28日参照>>)。
・・・で、先の二条城の会見ですが・・・
確かに、秀頼のほうから家康の拠点におもむいた事はおもむいたわけですが、『当代記』の「慶長十六年三月二十七・二十八日の条」に、その様子がくわしく書かれています。
それによれば・・・
秀頼が到着したと聞いた家康は、自ら庭に出て出迎え、二条城の中で最高の座敷である「御成の間」に通し、二人対等の立場で礼儀を行なう事を提案します。
しかし、それを断ったには秀頼のほう・・・
家康のほうが年長者であるし、朝廷から受けている官位が上なので、
「どうぞ上座へ・・・」
と、秀頼自らが譲ったというのです。
しかも、その会見の後に行なわれた会議で、他の諸大名は、将軍(この時はすでに2代将軍・秀忠です)に忠誠を誓うような内容の誓紙に連署していますが、そこに、秀頼の署名はありません。
つまり、ここでも、まだ秀頼は別格だったという事ではないでしょうか?
家康が、例の方広寺の鐘にイチャモンをつける(7月21日参照>>)のは、この会見から2年後・・・
秀吉が死のうが、関ヶ原で勝とうが、揺るがない豊臣の家格・威勢に対し、「一刻も早く、武力でぶっ潰すしかない!」
これが、家康の答えだったわけです。
なぜなら、この後、亡き秀吉の構想通り、輝元が西の将軍になり、秀頼が関白になってしまっては、もう、自分の天下はありませんからね。
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コメント
こんばんは。
秀頼が一大名として、徳川の
臣下になれば生き残れたという説も
あるようです。
征夷大将軍になって幕府を開いたら、
もっと長期政権になったでしょうが。
投稿: やぶひび | 2010年8月 9日 (月) 18時40分
やぶひびさん、こんばんは~
通説では、関ヶ原で一大名に成り下がった豊臣家を、プライドの高い淀殿が認めず…みたいに、言われますが、個人的には、やはり、一大名には成り下がっていなかっただろうと思います。
…だとしたら、これから関白になるかも知れない秀頼が、自ら希望して、東半分のみを支配する将軍の臣下に下るという事になりますから、やはり、常識としては考えられなかったんじゃないでしょうか?
通説通りなら、アリだと思いますが…
投稿: 茶々 | 2010年8月 9日 (月) 19時38分
茶々さまこんにちは。今回の事も含め、なぜ秀吉は家康を生かしていたのでしょうか?天下人だから大義名分はいくらでも作れたはず。戦になり乱世に戻る可能性が大でも一番の脅威と知っていたはずてす。あと、どうしてそんなに毛利をかっていたのでしょうか?毛利ファンの方にはすいませんが。
投稿: 伸之介 | 2010年8月 9日 (月) 21時37分
伸之介さん、こんばんは~
そうですね~
歴史家のかたの中には、「家康を江戸で追いやった事」を、秀吉最大のミスと位置づける人も多いようです。
秀吉にすれば、「キライな人物を遠ざける」あるいは、「脅威になりそうだから、何も無い田舎へ追いやる」という感覚だったのかも知れませんが、歴史をふりかえれば、必ずと言って良いほど、東国の勢力が畿内をおびやかしています。
ひょっとして秀吉は、現在進行形の情勢にはくわしくても、日本の歴史を深く知らなかったのではないか?とも言われているようです。
あと、秀吉は敵対した者を殺すというよりは、臣下に組み込む形で勢力拡大するタイプなので、特別、家康だけを殺さなかったという事ではないと思います。
毛利は…
やはり領地の広さと経済力でしょうね。
以前もどこかでお話しましたが、秀吉亡き後の関ヶ原までのあたりは、「家康は米で道を作り西に向かって進軍する」と噂され、「毛利は銀で道を作って東に進軍する」と言われた事もありましたから、やはり、当時は、家康に対抗できる軍事力と経済力を持っていたように思います。
投稿: 茶々 | 2010年8月 9日 (月) 23時57分
>「一刻も早く、武力でぶっ潰すしかない!」
これには違和感を感じます。薩長の影響でしょうか?(笑)
私ならこう書きます。
「一刻も早く、権威をぶっ潰すしかない!」
この頃の家康は、唯一の実力者です。毛利は名実共に没落していますから、西の将軍は無いでしょう。
残るは、豊臣家の権威のみ。
この場合、権威とは大名の支持があるということです。
誰かに利用されたら、関が原の再現となるかもしれません。
大変な脅威でしょう。また勝てるとは限らないのですから。
>伸之介様
秀吉にとって、脅威ではなかったとは考えられませんか?
信頼あっての、五大老筆頭であるとは?
家康が一番の脅威というのは、結果に影響を受けているのかも。
投稿: ことかね | 2010年8月16日 (月) 15時38分
ことかねさん、こんにちは~
>この場合、権威とは大名の支持があるということです…
そこが一番のひっかかるところです。
私は、おそらくは、大坂冬の陣の勃発するまで、豊臣家は最高の権威を持っていたと思っています。
しかし、それなら家康があれほどの大名を味方につける事が、なぜできたのか?という疑問にぶりあたります。
でも、ひょっとしたら、それも騙されているかもしれません。
本当は、関ヶ原のように、いや、関ヶ原以上に戦力は拮抗していたのかも…
記録によれば、豊臣の味方となったのは、ほとんどが、真田幸村や後藤又兵衛のような浪人者のようになってますが、それも、家康が天下を取ってから書かれた記録となれば、豊臣の味方となった人物が抹消されている可能性もゼロではないかも知れません。
…と、ここらへんは、もっともっと知りたい部分なので、更に色々と調べていきたいと思っています。
投稿: 茶々 | 2010年8月16日 (月) 16時03分
こんばんは、茶々さん。カムバッカーです。
真田昌幸が息子の幸村に死の間際に言い残した大坂の陣での「私ならこうする」という戦術の話で
「篭城戦で、相手を蹴散らせて時間をかければ、味方になる大名が出てくるだろう」
と言ったとか。
ただその後で
「これは私なら出来るが、そなたでは出来ないだろう」
とも言ったのだそうです。
大坂の陣では、確かに幸村はお父さんのアドバイスから「真田丸」を作ったりして善戦するも・・・ということになりました。
こうなると長生きした家康の勝ちなんですかね。
投稿: カムバッカー | 2010年8月16日 (月) 22時26分
カムバッカーさん、こんばんは~
確かに、長生きしたモン勝ちですね~
家康も、その事は重々承知していて、ものすご~く健康に気をつけていたなんて事も言われますね。
投稿: 茶々 | 2010年8月16日 (月) 23時23分