少年・徳川家康の命の値段
天文十六年(1547年)8月2日、松平広忠が、今川義元への臣従の証しとして人質に送った長男・竹千代が、織田信秀方に奪われ、尾張古渡城に送られました。
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ずいぶんと前に、このブログでも【徳川家康は4人いた?説】(11月27日参照>>)なんて書かせていただきましたが、そこでも書かせていただいたように、やれ、人質時代に別人とすり替わっているとか、関ヶ原で、あるいは、大阪の陣で討たれ、その後は影武者だったとか・・・と、別人説が数多く飛び交う徳川家康さんですが、その一つに、
「駿府にいた旅芸人の子が願人坊主(がんにんぼうず・門付けなどの修行で放浪する乞食僧)に売られた後、さらに本物の家康とすり替わった」
というものもありますが、もちろん、いずれも俗説で、正史としての家康は、後にも先にも、皆さんよくご存知の、あの家康1人です。
ただ、そんな替え玉説も、晩年の影武者説同様、話の出どころというのはあります。
どうやら、家康さん・・・
晩年に家臣たちに話して聞かせた若い頃の昔語りの中で
「わし…子供の頃に売られたこと、あるんや~」
なんて話をしていたようで・・・
この話は、『松平記』『駿府記』『駿府政治録』などなど・・・ある程度、正史であろうとされている文書に複数回登場するところから、「実際に売られた」かどうかはともかく、「売られたと話してした」事は事実であろうという事で、そこから、明治になって登場したのが、上記の替え玉説・・・
という事で、まぁ、小説やドラマにするなら、替え玉説はおもしろそうではあります。
・・・で、そもそも、家康は、なんで、「自分は、子供の頃に売られた」なんて事を話すようになったのか???
それが、今回の人質と関係があるのでは?
という事なのです。
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そもそもは、家康の父の松平広忠さん・・・
彼は、岡崎城を拠点に、その周辺の西三河を統治していた戦国大名だったわけですが、群雄割拠する戦国の世において、隣国・駿河(静岡県東部)の今川義元(よしもと)の保護を受けて、かろうじて独立を守っているといった状態でした。
そんな時、勢力を拡大してきたのが、尾張(おわり・愛知県西部)の織田信秀・・・
これをチャンスとばかりに、叔父にあたる三木(みつき)松平信孝は、信秀傘下の酒井忠尚(ただひさ)や、松平忠倫(ただとも)と結び、惣領家にあたる広忠を岡崎城から追い出し、自分が、松平家のトップに立とうと画策します。
こうなると、向こうに織田というバックアップがいるのですから、当然、こちらも、これまでよりも、さらに強固に、全面的に今川にバックアップしてもらわねばたちうちできませんが、そうなると、タダというわけにはいきません。
戦国の世のならい=臣従の証しとなる人質です。
こうして、駿府へと人質に差し出される事になったのが、広忠の長男の竹千代・・・後の家康です。
天文十六年(1547年)8月2日、わずか6歳の竹千代を連れた一行は、岡崎城をあとにし、西郡(にしのこおり)から船に乗って田原へと出ました。
この先は、陸路で駿府まで・・・
ところが、田原で彼らを出迎えた田原城主の戸田康光・・・
「陸路は、危険ですよって海路で行きましょ!」
と、一行を船へと案内します。
この康光という人は、その娘を広忠の後妻としていて、言わば身内のような人・・・なので、竹千代を護衛していた侍たちも、すっかり信用して、何の疑いもなく、船に乗っちゃったわけですが、実は、すでに、信秀側に寝返っていたんですね~
残念ながら、船は駿府へとは向かわず、尾張の方角へ・・・
・・・で、この時、康光が寝返った条件というのが、義理でも人情でもなく、ほかならぬお金だったのです。
ただ、史料によってまちまちで、一千貫文とする物もあれば五百貫文とする物もあり、一番安いのでは百貫文という物までありますが、もし、五百貫だとすると、現在の価値になおして、だいたい5000万円から7000万円くらいに相当するらしいです。
う~ん???
高いと判断するか安いと判断するかは、人それぞれ・・・。
竹千代を奪った信秀の思惑は、当然、広忠を織田傘下に引っ張り込むため・・・早速、信秀は、竹千代の命をたてに、広忠を味方に誘いますが、彼の答えは「NO!」
考えて見れば、相手が織田であれ今川であれ、息子を人質に出した時点で、戦国武将たるもの、それなりの覚悟が必要・・・その命、惜しさに寝返るようでは(金で寝返る人もいますが・・・)、同盟関係も構築できないというのが、広忠の考えです。
おそらくは、義元の援助なしでは存在できない立場であったという事もありましょうが、とにかく、「人質を生かすも殺すも存分に・・・」という返事をしたとの事・・・。
こうして、父にも見捨てられ、もはや、人質の価値はなくなってしまった竹千代でしたが、信秀は彼を殺そうとはせず、竹千代は、しばらくの間、尾張で過ごす事となります。
信秀は、ご存知・織田信長のお父さんですから、この時に、おそらくは吉法師=後の信長に会う機会もあったかも知れません。
この先の桶狭間(5月19日参照>>)から後の二人の関係を見る限りでは、立場などに関係なく人に接する少年・信長に、意外と竹千代はなついていたのかも知れません。
やがて、そんな竹千代に転機が来るのは天文十八年(1549年)・・・わずか2年後の春です。
父・広忠が、岡崎城内で家臣の手によって殺されてしまうのです。
当主を失ってしまった松平家・・・先に書いたように、すでに一族の中には、織田方についている者もおり、後継ぎの竹千代も織田側にいるとなると、この先、織田の傘下となったほうが良いのでは?と、家臣たちの中にも、そんな空気が流れはじめます。
そこに「待った!」をかけたのが、今川方の軍師・太原雪斎(たいげんせっさい・崇孚)・・・
この先、西へと領地を広げたい義元にとって、岡崎城は、ぜひとも、このまま傘下に納め続けて置きたい場所ですから・・・
こうして、雪斎自らが総大将となって、竹千代奪還に挑むべく、信秀の息子・織田信広が守る安祥城へと攻め込む事となるのですが、後の人質交換も含めて、そのお話は、すでに書かせていただいているので【安祥城の戦い】(11月6日参照>>)のページでどうぞo(_ _)oペコッ
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・・・で、結局は、この時、いくらかの金額で康光が寝返ったという事で、「今川に行くはずの自分を織田へ売った」と・・・
冒頭に書かせていただいた家康晩年の昔語り・・・
「わし…子供の頃に売られたこと、あるんや~」
って、話は、この事ではないか?というのが、大勢の見方となっているようです。
この家康の命の値段・・・先ほど、高いか安いかは人それぞれと書きましたが・・・
後の歴史を知っている者からすれば「安すぎっ!」という気がするものの、この時点では、海の物とも山の物ともわからない少年=家康だし・・・
しかも、ここで、信長に出会ってるとすれば、家康側にもメリットがあった感も拭えませんから、プラマイを考え出すときりがない・・・
そんな事よりも、義元&信長&家康・・・彼らの運命の歯車、絡み合う糸のほうに興味津々ですよね。
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コメント
こんにちわ、茶々様!
相変わらず面白いお話に感謝です
(^ω^)
家康の幼少期の苦労が後の成功を導いた事は疑うべくはありませんが、信長(吉法師)との交流があったように書かれているのは創作なんですかね?
交流があった方が面白いですが、騙されて人質を『とった側』と『取られた側』で交流なんてあったのかな~なんて思ってしまいます。
投稿: DAI | 2010年8月 2日 (月) 20時49分
DAIさん、こんばんは~
そうですね~
人質時代の家康と信長が会った事があるのかないのか?どちらかに確定できるような史料は、今のところなかったと認識しておりますが…どうなんでしょうね。
ただ、本文にも書かせていただいたように、桶狭間の後で同盟関係を結ぶに至る伏線として、二人の交流を指摘する研究者も多いようです。
今川に戻った家康が、義元の姪=築山殿と結婚する事を思えば、人質と言っても、この時代は、けっこう優遇されていたような気もします。
ドラマなどでは、必ずと言って良いほど交流してますね…そのほうがオモシロイですから。
投稿: 茶々 | 2010年8月 2日 (月) 21時48分
こんばんは。
松本清張の「徳川家康」では、信長と家康は
兄弟のような交流があったように書かれています。人質が殺される場合もあるので、家康は強運だったと思います。
アニメでは離縁された生母は織田方、父は今川方になっていました。
桶狭間の戦いでやっと人質生活も終わった
ようですね。
投稿: やぶひび | 2010年8月 2日 (月) 23時56分
やぶひびさん、お早うございます。
そうですね。
外交交渉のカードとして優遇される場合もある代わりに、うまくいかない場合は殺される場合もあり…家康はラッキーですね。
アニメって、
あの「一休さん」のシリーズでやってた「少年徳川家康」ですよね?
私も、見てました(*≧m≦*)
♪東~に鬨の声あ~が~り♪
♪西に轡の音高し~♪
歌も歌えますww
投稿: 茶々 | 2010年8月 3日 (火) 08時00分
徳川家康は小さい時に母親と引き離されてしまって、後年大名として自立した際に母親と異父弟を迎えたと聞きました。
家康の母で秀忠らの「おばば様」である於大の方は、秀忠が20代前半の時まで健在だったので、境遇が似ている孫嫁の江さんと気があったかも?
テレビで出てきませんが、秀忠の母親は秀忠が11歳の時に死んでいます。秀忠は「おばあちゃん子」だから、番組では大政所に前髪を切らせたのかも。
投稿: えびすこ | 2011年8月 6日 (土) 08時47分