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2010年8月13日 (金)

息子・隆元の死を乗り越え…毛利元就・白鹿城奪取

 

永禄六年(1563年)8月13日、毛利元就が、吉川元春小早川隆景らとともに、尼子氏の支城・出雲白鹿城への総攻撃を開始しました。

・・・・・・・・・

群雄割拠の中国地方・・・大大名の出雲(いづも・島根県)尼子氏周防(すおう・山口県)大内氏のハザマで、何とか独立を守っていた小大名の毛利氏・・・

当主となったのをきっかけに、それまで傘下に収まっていた尼子氏から、大内の配下となった毛利元就(もとなり)は、天文十一年(1542年)の第一次・月山富田城(がっさんとだじょう)の戦いでは、その大内義隆の配下として、城攻めに参加するも、尼子氏の固き守りに阻まれてしまいました。

しかし、その後、大内氏の家臣・陶晴賢(すえはるかた・隆房)によるクーデターというお家騒動の勃発(8月27日参照>>)に乗じた元就は、弘治元年(1555年)、その晴賢を厳島の戦いの奇襲に破り(10月1日参照>>)山陽の雄=大内氏に取って代わる大大名に成長したのです(4月3日参照>>)

そして、以前から尼子VS大内の間で繰り返されていた金の成る木石見(いわみ)銀山の争奪戦に、その大内氏の後釜として突入した元就は、永禄五年(1562年)6月8日、石見を手に入れ(12月24日参照>>)、いよいよ、尼子の本領=出雲攻略へと本腰を入れるのです。

永禄五年(1562年)7月・・・次男の吉川元春(きっかわもとはる)と三男の小早川隆景(こばやかわたかかげ)とともに、総勢・1万5000の兵を率いた元就は、石見を経由して出雲へと入ります。

この行動だけで、もはや三沢為景(みさわためかげ)三刀屋久祐(もとやひさすけ)赤穴幸清(あかなゆききよ)といった出雲の国人衆たちが、あっさりと尼子を見限って毛利の傘下へ・・・

そのおかげで、なんなく宍道湖を迂回して洗合(あらわい・島根県松江市)到着した元就は、ここに、城攻めの拠点となる支城を構築します。

もちろん、その間にも、尼子の本拠地・月山富田城への牽制も忘れず、そこから北東に位置する白鹿城(しらがじょう・松江市法吉町)と、富田城の分断を謀ります。

そう、まず、元就が狙っているのは、この白鹿城なのです。

実は、尼子氏は、本拠の富田城を守るべく、領内に「尼子十旗」と呼ばれる支城を配置していたのですが、この白鹿城は、その十旗の中でも、最も重要な第1位の城・・・

日本海側に面した位置にあり、言わば、海の玄関口の役割を果たしているこの城を占拠してしまえば、尼子は海路からの兵糧搬入が不可能となり、かなり有利に立てる事は間違いありません。

まぁ、だから元就が、最初に狙ったのでしょうが・・・

Amako10cc
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

ちなみに、2位以下を順番に紹介すると・・・

  • 三沢城:島根県仁多郡
  • 三刀屋城:島根県雲南市
  • 赤穴城:島根県飯石郡
  • 牛尾城:島根県雲南市
  • 高瀬城:島根県簸川郡
  • 神西(じんざい):島根県出雲市
  • 熊野城:島根県松江市
  • 馬木(まき):島根県奥出雲町
  • 大西(だいざい):島根県雲南市

・・・と、とにかく重要な白鹿城ですが、もちろん、それを構築した尼子しだって、その重要性は承知・・・

その年の12月・・・いよいよ毛利が白鹿城を囲みはじめる中、尼子氏の重臣・熊谷西阿(くまがいせいあ)が、最初の段階で寝返って、今はすでに毛利の傘下となっている三刀屋城に迫ります。

しかし、未だ本格的な攻撃を仕掛ける前に、久祐からの奇襲を受けて大将の西阿は討死・・・年が明けた1月には、尼子配下の宇山(うやま)牛尾氏が、その遺志を継いで、再び、三刀屋への攻撃を仕掛けますが、毛利の大軍が援助に駆けつけるとの噂に、あっさりと攻撃をやめて戻ってしまいます

そんなこんなの3月・・・実は、元就は、その勢力を西にも領地を広げようと、この尼子氏攻めと同時に、九州にも手を出していて、あの北九州に君臨する大友宗麟(そうりん・義鎮)2月10日参照>>)を相手に戦っていたわけですが、ここに来て、その大友氏と和議が成立します。

早速、九州戦線を任せていた長男の毛利隆元(たかもと)を、次男・三男らとともに、この白鹿城攻めへと参加させるつもりで、出雲に呼び寄せたのですが・・・

なんと、この出雲に向かう途中の8月4日・・・行軍の中で、隆元が急死してしまうのです。

あまりの急死に毒殺説も囁かれる隆元の死ですが、そのお話は、2011年8月4日のページ>>で見ていただくとして・・・怪しかろうが、不可解であろうが、亡くなってしまったものは、どうしようもありません。

そこが、元就の戦国武将たるところ、と言えば、そういう事になるのでしょうが、その長男の死から、わずか9日後永禄六年(1563年)8月13日・・・かの白鹿城に、総攻撃を仕掛けるのです。

迎え撃つ白鹿城の城主は、勇将で知られる松田誠保(さねやす)・・・しかし、その時、本拠の富田城から派遣されいた兵は、わずかに1800ほどでした。

そして、たとえ相手が、どんなに無勢でも、手を緩めないのも元就の戦国武将たるところ・・・

石見銀山の抗夫・数百人に指示して、地下通路を構築・・・まずは、城の井戸を破壊して、水を断ちます。

さらに、その地下通路を使って城内にも侵入・・・しかし、さすがは勇将の誉れ高い誠保城主は、なかなか侵入を許さず、地下での合戦にも、果敢に立ち向かいます

9月には、白鹿城の危機を聞きつけた尼子氏の当主・義久の弟・尼子倫久(ともひさ)が、1万の兵を率いて駆けつけ、白鹿城を囲む毛利軍に、その外側から攻撃を仕掛けます。

しかし、この援軍が、昼間こそ善戦したものの、ある夜に奇襲をかけられて大敗を喫した事で、徐々に、白鹿城内にも不安が広がり、同時に、最初に断たれた水が、ここに来て、もはや、これ以上の籠城が不可能である事を物語っていました。

やがて10月29日・・・わずかの兵で80日間踏ん張った白鹿城も、とうとう陥落・・・誠保は城を脱出し、隠岐(おき)へと逃亡しました。

さぁ、尼子氏最大の防御が崩れました。

いよいよ、元就は、本拠地の攻防戦へと突入します・・・これが第二次月山富田城の戦いですが、そのお話は11月21日の【山中鹿之介の一騎討ち~第二次・月山富田城攻防戦】でどうぞ>>
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コメント

茶々様
大河ドラマでは隆元は毒殺のように描かれていました。いろいろ説があるとは。その日のブログを楽しみにしています。

投稿: いんちき | 2010年8月13日 (金) 18時18分

毛利元就と家康は生い立ちが似ていると思います。大大名にのし上がったまでの戦略がすごいです。

投稿: やぶひび | 2010年8月13日 (金) 19時29分

いんちきさん、こんばんは~

>大河ドラマでは…

そうなんですか?
大河ドラマ「毛利元就」は見てないので、初めて知りました~

誰に毒を盛られたという設定だったのかが気になります。

投稿: 茶々 | 2010年8月14日 (土) 01時37分

やぶひびさん、こんばんは~

家康は織田と今川のハザマで…って感じですかね~

投稿: 茶々 | 2010年8月14日 (土) 01時39分

「毛利元就」では隆元(この時の隆元は上川隆也さん)は暗殺されたと思います。毒殺は尼子の方だと思います。

先日、歴史秘話ヒストリアでも毛利三兄弟を取り上げていましたね。息子の嫁さんと元就の娘(つまり嫁と小姑)が不仲と言われていたようです。

投稿: えびすこ | 2010年8月14日 (土) 09時35分

えびすこさん、こんにちは~

そうですか…やっぱ、毒殺なのだとしら尼子氏ですよね~

一時期、ものすごく多忙な時期があって、「毛利元就」や「武蔵」あたりは、ぜんぜん見てないんですよね~

投稿: 茶々 | 2010年8月14日 (土) 10時46分

茶々様
えびすこさんのいうとおり、尼子氏が毒をもったと大河ドラマでは、やっていたと思います。

投稿: いんちき | 2010年8月14日 (土) 22時02分

いんちきさん、こんばんは~

やはり、そうですか…
ありがとうございますo(_ _)o

投稿: 茶々 | 2010年8月15日 (日) 01時56分

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