秀吉を魅了した万年寺山と御茶屋御殿~枚方宿
去る9月21日のページで、大阪城天守閣で開催されている『「豊臣期大坂図屏風」ふたたび』と題した展示で、その大坂図屏風を見て来た事を書かせていただきましたが(9月21日参照>>)、実は、その日、大阪城へと向かう前に、枚方宿の散策にも行ってきました。
枚方宿の周辺は、おけいはん(京阪電車を利用する人)な私にとって現在もテリトリー内であり、若き日の職場の近くでもありますので、かなりどっぷりと入り浸っていた場所が数多くあり、個人的にも思い出の多い場所であるのですが、なぜか、この日、急に行きたくなって、大阪城へ行く前に立ち寄ったのです。
ところが偶然にも、午前中の枚方宿の散策と、午後の「豊臣期大坂図屏風」が、少しつながりがあったのです!!!(そのお話は後ほど・・・)
・・・と、個人的な思い入れはどうでも良いのですが、ここ枚方宿は、以前、「道の日」にちなんで書かせていただいたページでご紹介させていただいたように、豊臣秀吉が淀川の東岸に築いた文禄堤によって大きく発展した宿場町です。
秀吉にとって、淀川の氾濫防止と、いざという時の東国から(対・家康?)の侵入を防ぐための物であった文禄堤ですが、当時、伏見城と大坂城という2大拠点を構える秀吉にとっては、この二つを結ぶ事も重要で、この文禄堤の高くなった部分を京街道として整備して主要道路の一つにしたわけです。
その後、秀吉の後に天下を取った徳川家康によって、この京街道に、伏見・淀・枚方・守口の4つの宿場町が整備され、かねてからあった東海道を、山科追分(やましなおいわけ)で分岐し、この4つの宿場町を経て大阪の高麗橋に至る道を東海道としたのです。
なので、江戸時代の東海道は五十三次ではなく、五十七次だったんです(8月10日参照>>)。
ご存じの方も多いかも知れませんが、江戸時代を通じて、武士は特別な用がない限り京の都には入ってはいけなかった・・・これは、地方の大名が朝廷に近づく事を懸念した幕府の政策なのですが、つまりは、参勤交代などでは、京都を避けるように、伏見から山科へと抜けるルートがとられていたわけで、武士にとっては、東海道の終着点が京都・三条大橋ではなかったのですね~。
歴史好きの方の中には、2~3週間前の「龍馬伝」で、伏見の寺田屋にいたお龍さんが龍馬に「ここにいては危険どっさかいに、早く京を出ておくれやす」と言ったセリフに違和感を覚えられた方も多いはず・・・今でこそ京都府なので、伏見は京都観光の中に入ってますが、幕末と言えど、伏見は京都ではなかったのですから・・・
ちょっと話がそれましたが、そんなこんなで、東海道の一部となった京街道・・・中でも、京都と大坂の中間の位置にある事で、枚方宿は大いに発展したわけです。
こうして、江戸時代の宿場町としてのイメージが強い枚方ですが、実は、もっと以前から風光明美なステキな場所として、その時代によって姿を変えて来た歴史があるのです。
上記の通り、宿場町として発展したのは、淀川沿いを走る京街道に沿った場所・・・しかし、もともとの枚方の中心だった場所こそが、今回、ご紹介する万年寺山です。
山といっても、高さが40mほどの場所ですが、京阪電車を利用された事がある方なら、枚方市駅と枚方公園駅の間に、あれだけ住宅地が開発されているにも関わらず、ポツンと、そこだけ山が残っている部分があるのを気付かれた方もいらっしゃるのでは?
そう、そこが万年寺山・・・現在は、意賀美(おかみ)神社が鎮座していて、大阪屈指の梅の名所(3月27日参照>>)として知られていますが、その起源自体は神代につながる古さを持つこの神社も、場所がここ万年寺山へと移転したのは、明治四十二年(1909年)と意外に新しいのです。
実は、その万年寺山という名前でもお察しの通り、ここには、明治の廃仏の嵐が吹くまでは万年寺というお寺があったのです。
それは、推古天皇の時代(562年~628年)・・・高麗(こま・高句麗)からやってきた僧・恵灌(けいかん)が、「この地の景観はすばらしい!唐(中国)の林岸江(りんがんこう)に似ている!」と大変気にいって、ここに草庵を築いた事にはじまります。
以来、1000年近くに渡って徐々に大きな寺院となった万年寺は、東海道の宿場町として発展した時代になっても参拝者は絶えず、その晩鐘は宿場町に時を告げつる名物ともなっていたのです。
そして、もう一人、この万年寺山の景色に魅了された人が・・・それが、京街道を整備した秀吉です。
秀吉は、家臣で枚方城主の本多政康の娘・乙御前(おとごぜん)をたいそう気に入って、風光明美なこの地に建つ万年寺のすぐ横に、彼女が住むための御殿を建設します。
つまり、側室にしたんですね~
そして、大坂と京都を往復するかたわら、ここに立ち寄っては彼女に会いに来ていたと・・・
御茶屋御殿と呼ばれたその建物が建つ万年寺山は、その頃は御殿山と呼ばれ、現在の京阪電車の駅名の由来となったようですが、場所的には御殿山駅ではなく、枚方市駅に近い、この場所が御殿山なのです。
現在は、展望台として整備されている「御茶屋御殿跡」・・・今では、淀川沿いにマンションが立ち並んでいるため、半分の視界が遮られてはいますが、わずか40mの山とは思えないすばらしい景観です。
かつては、西は遠く六甲の山々が、北は琵琶湖畔の比良山まで見えたのだとか・・・たとえ半分遮られても、ここの風景を気に入った奈良時代の恵灌や戦国時代の秀吉の気持ちがわかるくらい美しいです。
・・・で、やっとこさ、かの「豊臣期大坂図屏風」とのつながりのお話ですが、それが、この御茶屋御殿・・・
実は、かの屏風には、秀吉時代の大坂城とともに、その周辺の名所も書かれているのですが、そこには、四天王寺、住吉大社、堺の町、宇治の平等院、石清水八幡宮や天王山と並んで、この御茶屋御殿が描かれているのです(屏風の大きな画像は9月21日のページで>>)。
屏風に描かれた御茶屋御殿跡(手前の山に隠れた塔が天王山にある宝積寺です)
天王山は、ご存じのように秀吉が天下を握るきっかけとなった明智光秀との山崎の合戦(6月13日参照>>)の地、堺は当時、東洋一と言われた商業都市、その他の神社仏閣は、もはや、説明もいらないくらい全国的に有名な場所ですよね?
そんな中に、堂々と・・・他の場所と同等の扱いで描かれているのですから、秀吉全盛当時は、この御茶屋御殿が、いかに重要な場所であったのかがうかがえます。
何の脈絡もなく、急に行きたくなった万年寺山=御茶屋御殿跡・・・
そして、そのあと、「まだ時間があるから」と向かった大阪城の「豊臣期大坂図屏風」・・・もちろん、屏風に御茶屋御殿が描かれているなんて事は、屏風を見るまで知りませんでした。
なんだか、秀吉さんに導かれたようで、不思議な感覚の残る組み合わせでした。
万年寺山などのくわしい場所は、本家ホームページの大阪歴史散歩「枚方宿」のページでご紹介しています>>(別窓で開きます)
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コメント
茶々さん、こんばんは!
枚方はくらわんか舟にも見られる様に河川交通の起点ですもんね!また、百済寺の様に渡来系氏族の拠点でもあるので、重要な場所である事は間違いのない事実!!
ところで、いつも大阪城天守閣を見ていて考えるのは、「この城、水攻めするとしたら、どの辺りを決壊させたらええんやろ?」ってな思い付きです…そう考えながら、枚方から寝屋川、守口市と京阪から眺めてます(笑)
投稿: 御堂 | 2010年9月27日 (月) 23時51分
御堂さん、こんばんは~
大阪城を水攻め…
かなり、難しいような気がします。
神代の昔から陸地だった上町台地は、けっこう高い位置にあるので…
大阪城を水没させるとなると、生駒から西のほとんどを水没させないとダメなんじゃないでしょうか?
「道の日」のページ>> に書かせていただいたように、秀吉の構想では、枚方以北のどこかを決壊させて、現在の東大阪あたりを水没させて、東からの敵を防ぐつもりでいたようですが、古代に河内湖と呼ばれていた大きな入り江になったそこの部分が、今でもかなり低くて、大雨は降ると近鉄電車のレールが水没して、よく止まってますから、周囲はともかく、城そのものを水攻めは至難の技ではないかと…
西は海、北と東が川の大坂城なら、やはり、南から攻めるというのがベストのような気がします。
投稿: 茶々 | 2010年9月28日 (火) 00時52分