三剣聖に次ぐ屈指の剣豪・疋田景兼
慶長十年(1605年)9月30日、剣術・新陰流の開祖・上泉信綱の高弟で疋田陰流の祖でもある疋田文五郎景兼が大坂城内にて69歳の生涯を閉じました。
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三剣聖の一人・上泉信綱(かみいずみのぶつな)の弟子であり、その甥(信綱の姉の子)ともいわれる疋田文五郎景兼(ひきたぶんごろうかげかね)さん・・・
その三剣聖に次ぐ、戦国屈指の腕前を持つ剣豪で、これまでも、助演男優っぽい感じでチョイチョイ登場していただいてますが、本日は、ご命日という事で、その景兼を中心に・・・
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運命のいたずら・・・とでも言いましょうか。
景兼が大坂城内で息ををひきとる39年前・・・
日づけも同じ9月30日、彼の人生を大きく変える出来事が起こります。
それは、上野(群馬県)箕輪(みのわ)城の落城・・・(2008年9月30日参照>>)
この日、景兼は、若き当主・長野業盛(ながもり)を補佐し、甲斐(山梨県)の武田信玄率いる大軍勢を相手に籠城作戦を展開していました。
しかし、信玄は、すでに上杉謙信との5度の川中島決戦を経験している大大名・・・その軍勢の数もハンパじゃありません。
関東一の智将とうたわれた亡き長野業正(なりまさ)の息子として、その後を継いだ業盛は、父に負けず劣らずの勇将ではありましたが、未だ19歳・・・覚悟を決めた業盛は、大軍に囲まれた城内で自刃しました。
この時、籠城作戦の中心となっていたのが、景兼の叔父である上泉信綱(1月16日参照>>)でした。
父の代からの重臣だった信綱と景兼は、若き当主が自刃した後、最期の戦いに挑んで華々しく果てるつもりでいましたが、武田方に説得され、箕輪城を開城・・・ここで、長野氏の家臣=戦国武将として生きてきた二人の人生が急展開するのです。
その腕を見込まれ「武田の家臣にならないか?」という信玄の誘いを断って、全国行脚の武者修行の旅に出るという信綱・・・この信綱は、若い頃の修行の旅で、日向(宮崎県)の愛洲移香斎久忠(あいすいこうさいひさただ)という人物の手ほどきを受け、剣術三大源流の一つ・陰流(かげりゅう)をマスターしており、そこにアレンジを加えて自らが起こした新陰流(しんかげりゅう)を、全国に広めたいという夢があったのです。
もちろん、その弟子でもあった景兼も、叔父のお供をして、ともに旅に出る決意をしました。
まずは、伊勢(三重県)の国司・北畠具教(とものり)を訪ね、その後、具教に紹介された奈良の宝蔵院(ほうぞういん)というお寺へと向かいます。
・・・で、この宝蔵院に滞在中の彼らに、「手合わせ願いたいm(_ _)m」と挑戦してきたのが、かの柳生宗厳(やぎゅうむねよし)です。
ところが、近畿一を自負する宗厳が、あっさりとヤラれてしまい、即座に弟子入り・・・彼らを柳生の里へと招き入れたのです(4月19日参照>>)。
この柳生の里で、しばらくの間、宗厳らに剣術を指南する生活を送る彼らでしたが、約1年後に、信綱は他の弟子とともに再び修業の旅へ・・・しかし、景兼は、その後も宗厳らの指導に当たるため一人残り、宗厳に新陰流のすべてを伝授してから柳生の里を去ります。
そう、ここで、師匠である叔父・信綱と別れ、景兼は一人、別の道を歩む事になりました。
その後は、丹後(京都府北部)宮津城主・細川忠興(ただおき)に仕え、さらに、当時関白であった豊臣秀次にも、刀槍指南役として召しかかえられたりしますが、あまり長く一つの所に落ち着く事はなく、基本、放浪の武者修業という姿勢を崩す事はありませんでした。
ところで、その秀次の指南役をしていた時、同時に指南役として召し抱えられていた長谷川宗喜(そうき)という人物がいました。
彼もまた、中条流(冨田流)の達人・冨田景政(とだかげまさ)の弟子で、後に冨田流長谷川派という独自の一派を起こす事になる剣豪なのですが、剣術に強い関心を持つ秀次が、「二人の試合を見たい!」と言いだしたのです。
この話を聞いた宗喜は、即座に「OK!」しますが、一方の景兼は、かたくなに断ります。
秀次の希望をたずさえた側衆(そばしゅう)が、何度説得にあたっても、ガンとして首を縦にふりません。
そうなると、当然、変な噂が立ちます・・・
「長谷川の強さに、疋田はおじけずいたのだ」
とか
「口先ばかりの弱虫め!」
とか・・・とにかく、景兼をあざ笑うような悪口ばかり・・・
しかし、それでも景兼は試合を拒み、その理由についても多くは語りませんでした。
後日、あまりの噂に心配して、彼のもとに訪れた、ごく親しい友人にだけポツリと語ったと言います。
「長谷川君は、太刀筋もええし、かなりの達人やと思う。
けど、俺も新陰流の印可皆伝をもろてる身・・・二人が勝負したら、どっちかが命を落とす事になるかも知れん。
自分の命は惜しみはせんけど、そんな結果になって損をするのは、オモシロ半分で試合をさせた関白様やないやろか?
試合は遊びやないねや」
と・・・
しかし、ご存じのように、まもなく秀次は、豊臣秀吉から謀反の疑いをかけられ、高野山で自害・・・一族もろとも処刑されます(7月15日参照>>)。
自分の名誉より守りたかった秀次の名誉・・・景兼がどんな思いで秀次の死を聞いたかを思うと胸が熱くなります。
慶長十年(1605年)9月30日、疋田景兼は69歳で病にかかり、大坂城内にて、その生涯を閉じますが、ここも、客人として招かれていた、一時的な場所でした。
そんな景兼の剣術を目の当たりにしながらも、彼に負けたはずの宗厳の弟子となった徳川家康は、景兼の剣術を「一騎討ちの剣」と称しています。
大量の兵士を動員して、大規模な合戦を念頭に置いていた家康にとっては、景兼の一騎打ちの強さは必要なかったのかも知れません。
・・・が、景兼の剣術は、その死後も息子・景吉に継承れ、さらに景兼の弟子の一人だった山田勝興に受け継がれ、その名を疋田陰流(ひきたかげりゅう)と称して、今なお受け継がれながら多くの猛者を輩出しています。
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