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2010年9月24日 (金)

西郷とともに生き、ともに殉じた桐野利秋

 

明治十年(1877年)9月24日、西南戦争での最後の戦いとなった城山の決戦にて、西郷隆盛とともに戦っていた桐野利秋が討死しました。

・・・・・・・・・

この日終結した西南戦争・・・維新後に勃発した最後にして最大の士族の反乱ですが、その経緯については、昨年の9月24日に書かせていただいたページでご覧いただくとして(2009年9月24日参照>>)、本日は、その西南戦争で・・・いや、その半生を西郷隆盛とともにした桐野利秋(きりのとしあき)について・・・

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桐野利秋という名前より、旧名の中村半次郎という名前のほうが有名かも知れません。

幕末には「人斬り半次郎」の異名を持ち、維新の動乱で策略を張り巡らしたワリにはクリーンなイメージの西郷隆盛に代わって、そのウラで暗躍し、実際に手を汚す役目=影の部分を一手に引き受けた人物とされ、何となくダークなイメージがつきまとう桐野さんですが、実際に人を斬ったのは佐幕派の上田藩士・赤松小三郎だけだったとされています。

また、西郷が「半次郎にもう少し学問があれば・・・」と嘆いたとされる事から、教養もない無骨者ように思われがちですが・・・確かに、ご本人も「俺が、頼山陽の日本外史を読めたら、天下取ったる!」なんて冗談まじりに話していたみたいですが、それは、漢詩が苦手だったというだけで、武士としての一通りの教育はちゃんと身につけていました。

なんせ、桐野家は、あの坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の父・苅田麻呂(かりたまろ)の血を受け継ぎ、戦国時代から島津家の配下として活躍した歴史ある家柄で、5石という少なさではあるもののれっきとした城下の士です。

ただ、彼が10歳の時、父の与右衛門(兼秋)徳之島に流罪になってしまった事で、一家は貧困の極みとなり、家計を助けるために小作や開墾に従事して、武士たる教養どころではなくなってしまった事は確かですが・・・

そんな利秋に転期が訪れるのは25歳の時・・・

文久二年(1862年)、前薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)の弟で、国父(こくふ・現藩主の父)となった島津久光(ひさみつ)が、公武合体を推し進めるべく、兵を率いて上洛するというニュースを聞いた時です。

利秋は、この一団の一人に加えてもらおうと、サツマイモ3本を手土産に、今まで会った事もない西郷隆盛に頼みに行くのです。

この日の利秋は、政治の事などいっさい語らず、ただひたすら熱意を込めて、「供に加えてほしい」と懇願するのみ・・

そんな利秋を見て、隆盛の弟・吉次郎「唐いも侍めが!」と失笑したところを、隆盛は「本人が苦労して育てたサツマイモには誠の心がこもっている・・・これ以上の土産はない!その気持ちに答えよう」と言ったのだとか・・・

以来、利秋は、その生涯をかけて、隆盛の配下として影に日向に働く事になります。

まずは、その国父・久光のお供をして京都に入った利秋は、そのまま京都詰め役として残り、久光と同じ公武合体派だった中川宮(なかがわのみや・青蓮院宮)(8月18日参照>>)の警護につきます。

諸藩の多くの志士と交流を持つようになるのは、この頃・・・ただ、一方では、先のただ一度の暗殺を行ったのもこの頃で、その必殺剣ゆえ、「人斬り」と恐れられはじめたのもこの頃です。

この京都での様々な交流から、尊王攘夷一色である長州藩の志士たちとのつながりがあったとも言われ、やがて、薩摩の態勢が変わってくる頃には、天狗党水先案内人として派遣された事もありました(12月2日参照>>)

しかし、なんと言っても、その活躍ぶりが際立つのは戊辰戦争・・・鳥羽伏見の戦いでは斬り込み隊を組織して奮戦し、その後の西郷と山岡鉄舟の会談(4月11日参照>>)にも、勝海舟との世紀の会談(3月14日参照>>)にも、愛しの西郷どんと行動をともにし上野での彰義隊(しょうぎたい)との一戦(5月15日参照>>)にも、西郷の配下として黒門口で戦います。

そんな功績から、かの会津戦争では軍監という役どころを任され、会津若松・鶴ヶ城の受け渡しという大任を果たす事になります。

Aidurakuzyoukawaraban001 ちょうど一昨日に書かせていただいたばかりの若松城の開城(9月22日参照>>)・・・そのページにupさせていただいた落城を報じる瓦版(←)

このド真ん中、裃をつけて土下座する会津のおエラ方の前で、股を広げて、ちとエラそうに見える感じの人物が半次郎こと利秋です。

実際には、こんなエラそうな雰囲気ではなく、会津藩士の名誉を傷つける事のない配慮に満ちた対応だったそうで、それこそ前藩主の松平容保(かたもり)が、後に刀剣を贈って感謝の意を表すほど見事な物だったのだとか・・・

おそらくは、こんな大任を請け負ったのが初めてであろう彼・・・終わってから「どうやって、そんな重要な儀式の采配をどこで覚えたんだ?」と聞かれた利秋は、「いやぁ、前に小屋で見た赤穂浪士の城の開け渡しのシーンを再現しただけさ」と答えるお茶目な部分もあった利秋も、維新後には陸軍少将に昇進・・・ここまで出世しても、まだ、ついてくる「人斬り」のダークな噂にも、まったく動じない太っ腹な性格だったようです。

しかし、ここで、再び彼に転機が訪れます。

明治六年(1873年)10月・・・明治六年の政変=いわゆる征韓論争に敗れ、中央政界から追われる事になった西郷・・・(10月24日参照>>)

利秋は、西郷とともに辞職して、故郷・鹿児島へと戻り、私学校での後輩の指導に従事する事になりました。

地元では、後輩指導にとどまらず、自ら、開墾事業にも積極的に励む利秋でしたが、ここで、ご存じの西南戦争の勃発です(1月30日参照>>)

確かに、この西南戦争では、西郷は担ぎあげられただけで、利秋こそがヤル気満々で薩摩軍の主導権を握っていたとも言われますが、そこには、彼なりの、命を賭けても守らねばならない大義があったのでしょう。

今となっては、その大義名分も不明瞭なところもありますが、利秋の生涯を見る限り、それは、すべて「西郷さんのため」であったに違いなく、そこに、個人的な利害損得や保身の感覚はなかったように思います。

その一本気さは、政治家というよりは、殿様に忠義を尽くす戦国武将のようでもあります。

この城山の戦いの少し前・・・迫りくる政府軍の情報を知りながらも、日向(宮崎県)のお茶屋で大宴会を催して大騒ぎしていたあたりは、大坂の陣薄田隼人(すすきだはやと)をほうふつとさせます。

最近は、徐々に、その人気も上がってきているという利秋さん・・・そんなところに魅力があるのかも知れません。

この城山で、負けが決定的になった頃、愛しの西郷さんに自害を勧め、その最期を見届けた利秋はなおも戦い続けましが、ついに眉間を銃弾で撃ち抜かれ明治十年(1877年)9月24日40年の生涯を終えました。
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コメント

今月から毎日、興味深く読ませていただいております。
さて、桐野利秋は陸軍少将だったはずです。少尉に任ぜられたかもしれませんが。

投稿: ミスターますりん | 2010年9月24日 (金) 13時19分

ミスターますりんさん、早々のご指摘、ありがとうございます。

仰せの通り、書き間違いでおます。
陸軍少将で、熊本鎮台の司令官やってました。

早くに気付いていただいて幸いでした。
早速、訂正させていただきました。

今後とも、間違いに気づかれましたら、速やかなるご指導を…(*´ェ`*)

投稿: 茶々 | 2010年9月24日 (金) 13時31分

茶々さん、こんにちわ
人切り半次郎といわれながら、実際は1人暗殺していない。意外ですね。

投稿: いんちき | 2010年9月24日 (金) 14時28分

いんちきさん、こんにちは~

まぁ、記録に残っているのは…って事なので、動乱のドサクサで犯人がよくわからない(龍馬も含めて)人もいますから、実際には、もっと斬ってたかも知れませんが、それを言うなら「人斬り」と呼ばれていない人も、もっと斬ってたかも知れないわけで…

結局は、腕がたつという事の代名詞にような気がします。

投稿: 茶々 | 2010年9月24日 (金) 16時06分

こんばんは。
「半次郎」という映画が鹿児島で、
公開されましたね。
榎木武明の製作&主演です。

最後まで師と一緒にという所が、
男気を感じます。
身内に弓を引いた大山巌は、
薩摩に帰ることはなかったそうですね。

投稿: やぶひび | 2010年9月24日 (金) 22時31分

やぶひびさん、こんばんは~

>「半次郎」という映画…

くわしくは知らないのですが、先日、書店の店頭で、雑誌をチラ見した時に、榎木さんのインタビュー記事が載ってました。

榎木さんも、かなりの半次郎ファンのようです。

投稿: 茶々 | 2010年9月25日 (土) 01時04分

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