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2010年9月22日 (水)

会津戦争終結…藩士と領民・それぞれの道

 

慶応四年(明治元年・1868年)9月22日午前10時頃・・・孤立無援となった会津若松城にて、開城を決意した前藩主・松平容保の命を受け、会津藩士・鈴木為輔安藤熊之助が、城の北追手門前に「降参」と書いた白旗を掲げました。

・・・・・・・・

江戸無血開城を経ても、なおも新政府軍に抵抗を続けていた会津藩・・・これまでの経緯は・・・

・‥…━━━☆

その日は、城下での戦いが始まってから毎日のように続いていた発砲も止み、以前の静けさを取り戻したような朝でした。

すでに16日の段階で、新政府軍参謀板垣退助(いたがきたいすけ)伊地知正治(いちじまさはる)が、城の北西7kmの地点に退いていた会津藩・家老萱野権兵衛(かやのごんべえ)のもとに、米沢藩を通じて降伏をうながした事で、権兵衛の配下であった若年寄手代木直右衛門(てしろぎすぐえもん)軍事奉行添役(そえやく)秋月悌次郎(ていじろう)米沢藩の陣へ派遣され、そこで退助らと対面・・・

新政府軍が出した開城・降伏の条件をたずさえて、城に戻った彼らによって、おそらくは話し合いが行われたはず・・・そう、この日の静けさは、新政府軍が会津藩の正式な降伏表明を待っていた静けさなのです。

やがて、白旗が掲げられた追手門を出ていくのは、正装に身を包んだ家老・梶原平馬(へいま)内藤右衛門(うえもん)大目付清水作右衛門(さくえもん)目付野矢良助(のやりょうすけ)・・・そして、先の降伏勧告伝達の大役を務めた悌次郎の5人

刀を持たぬ丸腰のまま、甲賀町(こうかまち)通りに設置された降伏の式場へと向かいました。

正午頃には、新政府軍・軍監中村半次郎(後の桐野利秋)軍曹山県小太郎(やまがたこたろう)らが式場に到着・・・そこへ、やはり正装に身を包み、太刀を納めた袋を小姓に持たせた松平容保(かたもり)と養子の喜徳(のぶのり)が揃って入場します。

半次郎らに一礼した容保は、自ら、降伏謝罪書を彼らに手渡しました

ここに、堅固を誇った会津若松鶴ヶ城は陥落・・・会津戦争が終結したのでした。

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会津藩降伏を伝える瓦版(東京都江戸東京博物館蔵)

その後、一旦城に戻った容保が、すでに亡くなった者たちを埋葬した二の丸の伏兵郭(ふくへいくるわ)空井戸におもむいて献花と祈りを捧げると、集まった重臣・城兵たちからのすすり泣きの声・・・夕方になって容保父子は、滝沢村にある妙国寺へと護送されました。

徹底抗戦を訴え、城外にて未だ交戦中だった佐川官兵衛(かんべえ)も、容保父子・謹慎のニュースを聞いて、ようやく降伏しました。

籠城者=約5000人・・・
うち、婦女子や老人が500余り・・・
これら、城に残っていた諸兵たちも、明日・23日には、城を出て、謹慎先の猪苗代(いなわしろ)へと向かわねばなりません。

これまでの喧騒がウソのような静かな夜を迎えた会津若松城・・・煌々と輝く月明かりに照らされた三の丸の白壁に、彼女はかんざしで歌を書きとめます。

♪あすよりは 何国(いづこ)の誰が ながむらん
   なれし御城に 残す月影 ♪

その人の名は山本八重(八重子)・・・父・山本権八は会津藩の砲術指南役、兄・山本覚馬(かくま)軍学者という環境の中、自らも砲術に通じていた八重は、この戦争が始まった時には、すでに川崎尚之助なる人物と結婚していましたが、若松城が籠城すると決まった時、戦に不向きな学者である夫と離婚して、7連銃を肩にかつぎ、男装をして入城しのでした(2012年8月23日参照>>)

その知識は、敵から撃ちこまれた不発弾を分解して容保に説明した事もあったほど・・・当然の事ながら、城内の兵には砲術を指導し、婦女子には弾薬の製造を教えるほか、自ら銃を背負い夜襲をかけるという、それはもう縦横無尽の活躍ぶりをした人です。

維新後には、そんな男まさりなハンサムさに惚れた新島襄(じょう)と結婚し、同志社大学の創立に奔走するという波乱万丈な人生を送る彼女ですが、そのお話は、彼女のご命日の日ページ(6月14日参照>>)で見ていただくとして・・・この日ばかりは、彼女の歌に代表されるような思いを、一人々々の会津藩士が胸に抱いていた事でしょう。

会津の落城後、まもなく庄内藩も降伏し、ここに東北での戊辰戦争が完全に終結するわけですが、朝敵(国家の敵)の烙印を押された会津藩のその後は、「全藩流刑」(藩のすべてが流刑となった)と称されるほど過酷な物となり、その土地は「白河以北一山百文」=(白河の関より北は一山で百文の値打ちもない)と揶揄(やゆ)されるという屈辱を味わう事になるのです。

しかし、当然の事ながら、会津戦争の影響を受けたのは武士だけではありません

それでなくても、前藩主・容保が京都守護職に就任した事で出費がかさみ、財政難となってしまった藩が、厳しい税の徴収を行っていたうえに、春から夏えへと突入した戦争で農民の多くが徴兵されて田畑の耕作すら満足にできず・・・

貧困のどん底となった農民たちの不満は、会津落城直後に爆発します。

世直しと称した打ちこわし・一揆が会津全域で勃発し、その数は数万にものぼったのだとか・・・

確かに、藩祖・保科正之(ほしなまさゆき)(12月18日参照>>)の家訓に従い、最後まで幕府への忠誠を貫いた会津藩士でしたが、巻き込まれた農民にとっては、自分たちには関係のない武士の意地で、無用な戦争となった事も事実・・・

約2ヶ月に渡って猛威を奮った一揆の嵐・・・容保父子が江戸から名を改めた東京へ護送される時には、旧藩主を見送る領民はほとんどいなかったと言います。

後世の私たちが滅びの美学と感じる出来事も、巻き込まれた領民にとっては怨みでしかない・・・歴史を楽しむうえで、しみじみと考えさせられる部分です。
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幕末・維新」カテゴリの記事

コメント

そうですね、歴史はついつい英雄ばかりに目を止めてしまいがちですが、なもなき領民に目を向けてみる視点は、とても大事であると思います。

幕府方や新政府に敵対した諸藩の武士にしても、事実そうなったように維新がなってしまえば彼らは失業者になってしまうわけですから、歴史悲話で語られるような美学だけではなく、実はけっこう現実的な理由で戦っていたのではないかと思うのですよね。

わたしの地元は天領ですからお武家さんそのものがいなくて、幕末には横浜開港でそれチャンスであると生糸などの地元物産を売り込んで、明治になると鉄道や公共事業を手がけ、しまいには政界にも進出した新興財閥がいます。

彼らは百姓階層なわけで、維新というのはそれまで支配層であった武士が一部を残して失業・没落し、代わって民百姓の中から飛躍して政財界に進出した新興階層がいる、まさに革命であったのだろうなぁと思います。

投稿: 黒駒 | 2010年9月23日 (木) 02時18分

黒駒さん、こんにちは~

確かに、新しい時代のために一番がんばった武士が、新しい時代では特権を失ってしまったわけですから…

多くに犠牲に感謝しつつも、日本はよくこの荒波を乗り越えたものだと感動します。

投稿: 茶々 | 2010年9月23日 (木) 11時02分

ヽ(´▽`)/おはようございます。いきなりですが、朝刊(朝日新聞)を見て目が覚めたニュースです!
新島八重さんが2013年の大河ドラマの主人公になるようです。明治中期~昭和初期の時期を大河ドラマで取り扱うのは異例ですね。w(゚o゚)w
かなり意表を突いた選考ですね。
これを機に大河ドラマは路線を変えるのかな?大地震を受けて当初の方針を変えたようです。
満年齢86歳まで生きたので、「大河ドラマ史上最年長(1番長生きした)」の主人公になるのではないでしょうか?
86歳と言う長寿の主人公なので、1人の女優がフル出演するのは難しいと思うので、前半と後半では演じる人が違うかもしれないですね。久々に文字通りの「大河」ドラマになりそうですね。
おてんばな若い時代に興味があります。「はいからさんが通る」みたいになりそうですね。(*^-^)

スポーツ新聞ではまだ記事になっていないです。

投稿: えびすこ | 2011年6月12日 (日) 08時00分

えびすこさん、こんにちは~

そうですか…
新島八重さんですか~

良いですね。

投稿: 茶々 | 2011年6月12日 (日) 16時22分

記事を見て本当に目が覚めましたよ(驚)。
21世紀の大河では5回目の女性主人公です。調べてみると八重さんはかなり現代的な感覚の持ち主です。おてんばな気質は中年になっても残っていたみたいです。「行政に直接関与しない人」が主人公、と言うのは本当に珍しいですね。
「そのうち明治・大正期が、時代劇の時期と認知されるかも」と少し前に書きましたが、そうなった感があります。ちなみに若年で死んだ徳川家茂、和宮、沖田総司らと同世代。
そうなると「大坂の陣」から400年の2014年か2015年には、いよいよ真田幸村が主人公になるかも。
八重さんは全国的な知名度はない人ですが、NHKは「視聴率云々と言う事は置いとく」方針に転換したのかな?

近いうちにスポーツ新聞にも載ると思います。果たして演じる女優さんが誰になるか?

投稿: えびすこ | 2011年6月12日 (日) 16時49分

えびすこさん、こんばんは~

ヒストリアで八重さんを取りあげた回が、けっこう反響があったようで(再放送してましたから…)「これは、いける!」って感じになったのかも…ですね。

私の印象としては、「おてんば」というより「男前」ですww

投稿: 茶々 | 2011年6月13日 (月) 01時47分

前に書いた「大河ドラマは参院選年の作品は視聴率が低い」ジンクスを破ってほしいです。次々作「八重の桜」が放送される2013年は参議院選挙の年です。
再来年は「はるかさんが通る」日曜夜になりそうですね。
「ハンサムウーマン」が流行語になるかも?

投稿: えびすこ | 2011年6月25日 (土) 16時42分

えびすこさん、こんばんは~

流行語になるくらい、おもしろい作品にしていただきたいですね。

投稿: 茶々 | 2011年6月26日 (日) 01時31分

茶々さん、お久しぶりです。
ちょっと知人の看病をしていますので、こちらに来るのが減りました。
会津藩が自ら斗南に移ったと最近のウィキで書いています。どうも今の大河の影響でしょう。それでも今の大河の幼稚さで会津が正しいのは知られています。
領民が一揆を起こしたことでも元は薩長が京都で暴れて京都が無法地帯になったので会津が出ていったのと重い年貢をかけないほど苦しかったことを物語っています。実際その後の一揆は江戸時代以上です。
どうも最近Facebookを中心に宮部、松陰を神化しているので嫌だなと思いました。四国は土佐だけが勝ち組です。徳島は甲午事変で名東県と言う名前になり、明治の一時には徳島県が無くなりました。負け組と言う感じです。
今でも薩長は攘夷と言うのは表面で江戸時代までのシステムの破壊やそれまでの北朝を正統とした歴史を壊したのかなと思いました。会津に下された御宸翰は本物だと思います。
靖国神社に対する違和感は先の大戦よりも会津、桑名等の旧幕府側への滅茶苦茶な仕打ちが大きいのではないかと思います。

投稿: non | 2015年9月 1日 (火) 14時03分

nonさん、こんばんは~

wikiは、好きな人なら誰でも書き込めますから、その時々によって内容が変化しますね。。
逆に、ブログやHPのように個人の運営する物では無いので、あまりにも個人的な見解を展開すると、「待った」がかかりますけどね。

Facebookはブログと同様で、個人の意見を発信する場なので、自分のページでなら自由な見解を述べて良いと思いますが…

投稿: 茶々 | 2015年9月 2日 (水) 02時56分

茶々さん、こんにちは。
体調が悪く寝てばかりです。
wikiは内容が変化しますが、最近会津バッシングをしています。何でもプロイセンに租借を約束したという記事などを見ますと意図的な感じがします。二本松の悲劇も悪いのは会津になっています。これでは井上馨の尾去沢の問題は問題でないみたいな感じがするくらいです。嫌だなと思いました。
Googleを探すと会津叩きを長州賛美派が書いています。ますます私みたいな会津贔屓も勿論の事会津の人は固くなる感じがします。
TVなどを見ましても決して会津等の東北の人は器量が狭くないので何故怒っているのかを理解してほしいと思います。藤沢周平の小説を見ましても庄内藩は名君が多く、民百姓の事を考えていました。そう言うのにも目を向けてほしいと思いました。そういう風情を東北に行く時に感じたいと思います。私は時間が掛りますが、東武を使って浅草から会津若松に行きたいと思います。

投稿: non | 2015年9月 2日 (水) 11時15分

nonさん、こんばんは~

体調がおよろしく無いのですか?
季節の変わり目ですから、充分にご自愛くださいませ。

投稿: 茶々 | 2015年9月 3日 (木) 01時19分

茶々さん、こんばんは。
疲れています。今日はゆっくり過ごしまあす。季節の変わり目もありますが、入院している知人の様子を見ています。
ところで会津の一揆ですが、松平容保に対するものではないと思います。実際に容保の子孫が会津を訪れたら殿様と慕っています。確か東北は幕末の殿様だけでなく最上にも丁寧でした。何故その事を知っているかと言いますと最上の一族の一つが最上騒動後に阿波へ移りました。その家と我が家は親戚です。そこは山形へ行きますと今はそうでも無いのですが、県知事が迎えに来たそうです。東北は義理堅いと思います。だから会津の一揆は殿に対してではないと思います。

投稿: non | 2015年9月 4日 (金) 18時10分

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