忠臣・渡辺豹吉の大芝居~会津・飯寺の戦い
慶応四年(明治元年・1868年)9月8日、会津飯寺の戦いにて奮戦していた山本義路ら主従が、新政府軍に投降しました。
・・・・・・・・・
山本義路(よしみち・帯刀)は、代々長岡藩の上席家老を務める山本家に、8歳の時に養子に入り、その後、家督を継いで、戊辰戦争当時は、彼自身も家老職にありました。
あの河井継之助(かわいつぎのすけ)(8月16日参照>>)が指揮した北越戊辰戦争では、その右腕となって活躍し、わずか24歳ながら大隊長を務めておりました。
長岡城が2度目の落城(7月29日参照>>)とあいなった時には、継之助ともども会津へと亡命する八十里越えで、その殿(しんがり・撤退の最後尾)を見事に勤め上げ、継之助が亡くなった後も、その遺志を継いで会津にて転戦していたのです。
すでに風前の灯となっている会津若松城(8月29日参照>>)とは、もはや連絡もとれなくなっていた慶応四年(明治元年・1868年)9月8日・・・元号が明治へと変わった(2006年9月8日参照>>)まさにその日、義路らは、同じく城外で転戦していた会津藩兵と連絡をとり、城下の南西2kmほどに位置する飯寺(にいでら)村に駐屯する宇都宮藩兵を挟み撃ちすべく奮戦していたのです。
ところが、いつしか濃霧の中に迷い込み、会津藩兵は撤退・・・義路ら主従は取り残され、周囲を新政府軍に囲まれてしまいました。
彼らは、わずかに13名・・・もう、投降するしかありませんでした。
この13名の中には、山本家の家来で禄(ろく)100石を受けていた渡辺豹吉(ひょうきち)なる人物の姿も・・・彼は、義路より3歳年上の27歳で、二人の関係はすこぶる濃い物でありました。
幼い頃から、ともに藩校・崇徳館(そうとくかん)に通い、私塾にも一緒に入学し、ともに武芸に励んだ幼なじみ・・・主従よりもっと強い信頼関係で結ばれていたのです。
投降して間もなくの事・・・新政府軍・軍監の中村半次郎(後の桐野利秋)の命令により、彼ら2名以外は即刻斬首され、二人は飯寺村の共同墓地近くの本光寺境内の庭木に縛りつけられ、一夜を過ごす事となります。
この時、彼らを監視していた宇都宮藩兵の記録によれば・・・
「夜ともなれば急激な寒さとなる会津の旧9月にて、樹木にきびしく縛りつけられながらも、従兵(豹吉の事)は、自分の体にかけられていた蓆(むしろ)を足でひきずりおろして主にかけてやり、やがて来るであろう最期の時を思い、お互いに信頼と慰めの眼差しを交わしていた」
との事・・・
新政府軍が、義路ら二人だけを斬首しなかったのは、ひとえに義路の武勇伝を聞いての事・・・つまり、殺すに惜しい人物と判断して、新政府軍への加入を促するためだったのです。
夜が明けて、その事を知った義路・・・当然の事ながら、新政府軍に加わる気など、はなからありませんから、
「諸侯からは、戦えとは言われたが降伏せよとは言われていない」
と、その誘いを断ります。
そうなると、待っているのは斬首のみ・・・
露払いの意味を込めて、まずは家来の豹吉が斬首される事になりますが、ここで、彼の態度が一変します。
「ちょっと、待っておくなはれ~
ワテは、実は武士ではおませんのや・・・たまたま、今回、配下についた下男奉公の者で、取るに足らん人間です。
命だけはお助けを~~。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。」
それこそ、女々しさいっぱいに涙を流して、いかにも弱々しく情けない姿に、思わず苦笑いの処刑人・・・「こんなだらしない男は、どーでもいいや」とばかりに、豹吉より先に義路を斬首したのです。
遺体を前に合掌した豹吉は、その後始末を願い出ます。
ところが、すべての後始末を終えた豹吉・・・再び態度が豹変します。
「先ほどは失礼つかまつった」
その言葉も、立派な武士の口調に変貌し、
「故郷を出る時、主君の最期をしっかりと見届けると誓い申したゆえ、先に逝っては、その約束が果たせませぬ・・・しかし、今やすべてが終わりました。
こうなれば、一刻も早く主人の元に馳せ参じたいので、すみやかに斬ってもらいたい」
実は、この戊辰戦争で朝敵となった彼ら・・・賊徒となった彼らの遺体を手厚く葬る事は、反政府行為とされ、戦死者の遺体は野ざらしにされたままだったのです。
長岡から会津へ転戦を続けていた豹吉は、それらの悲しい現実を目の当たりにし、せめて主君の最期を見届け、後始末をしてから供に逝きたいと、一世一代の大芝居による命乞いだったのです。
もちろん、その最期は自ら首をさしのべ、一点の曇りもない見事な姿だったとか・・・
「渡辺の勇ましさは武士の標本と見るべきである」
新政府軍からも、このような言葉が投げかけられたと言います。
女々しく泣き崩れる姿が最も勇ましい・・・これも、戊辰戦争の一つのドラマです。
・‥…━━━☆
ところで、ここからは余談になりますが・・・
この豹吉さんには、廉吉(れんきち)という弟がいました。
ご存じのように、維新を迎えた旧長岡藩は、斗南(となみ)藩と名を変えた会津同様、朝敵となった者の生き残りとして、その生活は困窮を極める物でありましたが、あの米百俵の精神(8月24日参照>>)で知られる藩の方針にも助けられ、もちろん本人の努力もあり、やがて廉吉は、開成学校(東大の前身)を経て文部省に入省します。
その優秀さから、伊藤博文の秘書官になり、貴族議員もこなし、法学博士となり、最終的には行政裁判所の部長にまで上りつめた廉吉さん・・・
しかし、ただ一つの心残りは、かの戊辰戦争で敵対した罪により、お家断絶となっていた山本家の事・・・
そう、兄・豹吉が忠誠を尽くした主君の事を、廉吉も忘れてはいなかったのです。
そこで、衰退の一途をたどる山本家に優秀な人材を養子に迎え、何とかお家再興を図ろうとします。
そして、廉吉が目をつけた優秀な人材は・・・
旧長岡藩士・高野貞吉(さだよし)が56歳にしてもうけた六男坊でした。
その六男坊は、すでに海軍少佐となっていて将来を有望されていた青年・・・
かくして山本家の養子となった彼は、後の連合艦隊長官・山本五十六、その人であります。
・‥…━━━☆
会津戦争における続いてのお話は、若松城への総攻撃が開始される9月14日のページへどうぞ>>
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コメント
こんにちわ~、茶々様。
豹吉さんの武士道・・・泣かせてくれますね(ノ_-。)
しかし『いやぁ~、今日も良い記事だな~』なんて見てると余談で更にビックリです。
朝から元気をもらいました。
投稿: DAI | 2010年9月 9日 (木) 10時08分
いや~はや~ いいお話ですね~
次々と話が、繋がっていく様は、読むにつれ、心地よいものでした。
壬生義士伝で、主人公の二男(渡辺謙2役)が、最後に列車に乗って、父親の故郷へ向かうシーンが思い浮かびました。
拍手2票ほしいです
投稿: 山は緑 | 2010年9月 9日 (木) 12時26分
DAIさん、こんにちは~
ホント豹吉さんには感動します~
余談は、本当に余談ですが、外してはいけない余談のような気がして、このお話に続けて書かせていただきました。
投稿: 茶々 | 2010年9月 9日 (木) 12時52分
山は緑さん、こんにちは~
「壬生義士伝」…
残念ながら見逃してますね~
>拍手2票
根が単純なので、素直に受け取って喜びに浸らせていただきますv(^o^)v
投稿: 茶々 | 2010年9月 9日 (木) 12時55分
本籍地がそちらなので、身近に感じます。幕府の次はお国の為に身をつくすんですね。
投稿: やぶひび | 2012年4月28日 (土) 12時11分
やぶひびさん、こんにちは~
このお話…いい話ですよねぇ~
投稿: 茶々 | 2012年4月28日 (土) 14時46分
豹吉のこの話、中村 彰彦の小説等からのものでしょうか?
私はこの手の話は「主人の死を見届け、遺骸を埋めてから死を賜りたい」と懇願したことへの脚色に"嘘"という演出を加えたのだと思っていました。
史実としてこの"豹吉の嘘"が書かれているものがありましたら、教えていただけたら幸いです
投稿: | 2017年1月18日 (水) 14時05分
7年前のページなので、よく覚えていないのですが、脚色されたお話を、何かの本で読んで書いたのかも知れません。
もともとの出典は『北越名流遺芳』だと思いますが、私は小説をまったく読まないので、『北越名流遺芳』の中のお話と、その小説の中のお話のどこが同じでどこが違うののかがちょっとわからないのです。
確かに『北越名流遺芳』では豹吉さんが嘘をついて…というよりは、豹吉の願いを聞き入れた官軍側の方が
「(彼は)一介の従者であり、山本と同罪では無い」
とした感じが強いかも知れませんね。
まだまだ未熟なので、他にも史料が無いか調べてみます。
ありがとうございました。
投稿: 茶々 | 2017年1月18日 (水) 17時47分