島津の敵中突破!影武者・長寿院盛淳in関ヶ原
慶長五年(1600年)9月15日、この日行われた関ヶ原の合戦で、薩摩の戦国大名・島津義久・義弘兄弟の懐刀(ふところがたな)と呼ばれた長寿院盛淳が討死しました。
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本日の主役の盛敦さん・・・室町幕府で管領職を代々受け継いで、あの応仁の乱の発端ともなる家督争いを演じた畠山氏の分家にあたるという事で、本名は畠山盛敦(はたけやまもりあつ)と言います。
祖父の代から薩摩(鹿児島県)に移り住んだと言いますが、盛敦自身は3歳で高野山に、11歳から根来(ねごろ)寺で修業した僧侶で、その出家した後の名乗りが長寿院・・・なので、一般的には長寿院盛淳(ちょうじゅいんもりあつ)と呼ばれますが、息子の忠栄が出家して阿多吉房(あたよしふさ)と称して、その後の子孫が阿多氏を名乗る事から、彼もまた阿多盛淳、あるいは阿多長寿院盛淳と呼ばれる事もあります。
僧侶としての知識をふんだんに使った外交交渉がお得意だったようで、その才能を評価した島津義久(よしひさ)・義弘(よしひろ)兄弟に大抜擢され、いきなり軍団の要職についたと言います。
実は、あの天正十五年(1587年)・・・九州征伐にやって来た豊臣秀吉との戦いに敗れた島津が(4月17日参照>>)、本来なら、すべてがなくなってもおかしくない所を、薩摩と大隅(鹿児島県東部)の所領を安堵されたのも、盛敦の外交交渉の成せるワザという話もあります。
その後は、豊臣政権下に入った島津の家臣として、太閤検地の奉行などもこなし、義久が隠居した後は、義弘の家老として活躍する盛淳でしたが、ちょいと、ここらあたりで島津家に内紛が・・・
・・・というのも、確かに秀吉は、負けた島津に対し、もともと所領を安堵しましたが、一方では、「これ以上、島津が力をつけないように」という策略も張り巡らせていました。
それが、島津屈指の勇将・伊集院忠棟(いじゅういんただむね)・・・
主君である義久や義弘より、彼を厚遇する事で、島津家の軟弱化を謀っていたのだとか・・・まぁ、もともと勇将の誉れ高い人ですから、策略による厚遇なのか、実力に伴う重用だったのかは微妙なところではありますが・・・
案の定、秀吉の数々の優遇措置に、増長していく忠棟・・・
これにブチ切れたのが、義弘の息子・島津忠恒(ただつね・家久)・・・慶長二年(1597年)、この忠棟を伏見の島津屋敷にて殺害してしまいます。
これには、「増長して野心を抱いた忠棟には、主君に取って代わる謀反の兆しがあった」とも言われますが、それこそ死人に口なし・・・謀反は島津側の言い分で、本当のところはわかりません。
とにかく、これで黙っていられないのは、忠棟の息子・伊集院忠真(ただざね)・・・日向(ひゅうが)都城(みやこのじょう)に籠城し、徹底抗戦の構えを見せます。
庄内の乱と呼ばれるこの反乱は、結局は慶長五年(1600年)の3月に鎮圧されるのですが、この都城が12もの支城を持つ堅固な城だった事で、容易に攻め落とす事ができず、島津としては、コチラにかなりの人員を差し向ける事になったわけです。
そうです慶長五年と言えば、あの関ヶ原・・・
この内乱のために、義弘は関ヶ原に多くの兵を連れていく事ができなかったわけです。
しかも、義弘一行は、もともと徳川家康の東軍として参戦するために、はるばるやって来たにも関わらず、最初に向かった伏見城で、家康の留守を預かる鳥居元忠に入城を断られてしまい、なりゆき上、西軍として関ヶ原に参戦する事になってしまったのです。
この一報を、薩摩で聞いた盛淳・・・「主君の危急!」とばかりに、70名の兵を引き連れて、昼夜かまわず馬を飛ばし、一路、関ヶ原へと駆けつけます。
ぎりぎりセーフ!!!
なんとか関ヶ原の開戦前に間に合った盛敦・・・出迎えた義弘は、喜びのあまりその手をしっかりと握りしめ、自らの陣羽織(じんばおり)を彼に与えたと言います。
かくして慶長五年(1600年)9月15日早朝・・・関ヶ原の戦いの幕が切って落とされます。(関ヶ原のあれこれは【関ヶ原の合戦の年表】でどうぞ>>)
先にも書かせていただいたように、もともと西軍として参戦するはずではなかった義弘は、戦いが始まっても、すぐに兵を動かす事はありませんでした。
石田三成(みつなり)の再三の要請も退け、動かぬ島津隊でしたが、ご存じのように、またたく間に西軍の大敗が決定的となってしまいます。
しかし、なりゆきとは言え、西軍として参加した合戦で、敵の東軍に降伏するなど薩摩男児のプライドが許しません。
かと言って、負けは濃厚・・・一時は自刃を覚悟する義弘に、「猛反対!」と食い下がったのが甥の島津豊久でした。
しかし、どうすれば???
そこで、戦線離脱を進言したのが、誰あろう盛淳です。
しかも、わざと徳川方の前を横切る敵中突破!!・・・ご存じ、島津の背進です(少々内容かぶってますが、くわしくは2008年9月16日のページで>>)。
この時、盛淳は、「薩摩までの五百里、主君を守って見事討死し、その名を残すべきである」と、諸兵に力説して回ったとか・・・
かくして始まった敵中突破は、その予想通り、大変なものでした。
味方は次々と討死し、残った兵も疲労困ぱい・・・そんな中、義弘を守って豊久が討死すると、盛淳も、そのあとに続きます。
そう、合戦前に主君から賜った、あの陣羽織・・・
義弘の陣羽織を身につけ、颯爽と敵前に進み出た盛淳は、「我こそは、島津義弘である!」と名乗りをあげて敵の注意をひきつけます。
名将の首を挙げようと群がる敵兵・・・その中の一人、山本義純(よしずみ)の手によって捕捉され、盛淳は壮絶な討死を遂げたのです。
その甲斐あって、主君・義弘は、見事、戦線離脱に成功・・・
以前も、書かせていただきましたが、この戦線離脱作戦は、勝つの負けるのという戦いではなく、最後が何人になろうが、主君の義弘さえ生きて薩摩に戻れたなら、それが作戦成功・・・
おそらくは、この時、50歳前後であっただろうと思われる盛淳さん・・・直前に発した言葉通り、その命賭けて歴史に残る敵中突破の案内人を、見事勤め上げたと言えるでしょう。
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コメント
お久しぶりです維新です。昔、『島津奔る』←漢字はうろ覚え(笑)という小説を読んだ時の記憶が蘇ってきました。毎日大変でしょうが、これからもブログを書き続けて下さいませ。
投稿: 維新入道 | 2010年9月17日 (金) 09時37分
維新入道さん、こんばんは~
応援のお言葉ありがとうございます。
元気が出ます!
投稿: 茶々 | 2010年9月17日 (金) 21時48分