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2010年9月14日 (火)

いよいよ大詰め…会津若松城への総攻撃開始

 

明治元年(慶応四年・1868年)9月14日、幕末・会津戦争にて、会津若松城への総攻撃が開始されました。

・・・・・・・・・・・

何度も恐縮ですが、まずは、これまでの経緯と位置関係をわかりやすくするための地図を・・・

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 ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

・‥…━━━☆

鳥羽伏見の戦いの後、江戸城無血開城を経てもなおも抵抗する会津・・・本拠地・会津若松・鶴ヶ城を新政府軍が囲んでから、半月以上・・・

すでに城下は新政府軍のほぼ制圧され、お互いの連絡すら取れないものの、籠城する者は城内で踏ん張り、城外で転戦する者は各地で奮戦し・・・と、その士気は衰えないままの会津軍でした。

しかし、戦況がますます悪化する中の9月4日、ともに踏ん張っていた米沢藩が降伏した事で、会津の北隣も新政府軍の手に落ちました。

これによって、越後(新潟県)との国境に陣取っていた新政府軍の一部が南下し、会津若松城への包囲は、ますます強大な物になり、ここで新政府軍は、城への総攻撃開始を決定したのです。

明治元年(慶応四年・1868年)9月14日早朝・・・小山田ほか、城の南西にあたる花畑口に設置されていた50門の大砲が一斉に火を吹きました。

命中した本丸は大きな被害を被り、火薬庫のあった西出丸ももはや収拾がつかない状態・・・この時、なんとか城まで3kmの位置までやって来て奮戦していた佐川官兵衛(かんべえ)の一隊も、やむなく城外へと退きます。

しかし、ここに来てもなお、士気の高まりが衰えないのは、先日も書かせていただいた藩祖・保科正之(ほしなまさゆき)の家訓・・・
「他の藩はどうであっても、この会津藩は、徳川将軍に忠誠をつくせ・・・もし、将軍家を裏切ったら、それはもはや私の子孫ではない。」
にある通り、会津は最後の1藩となっても、抵抗を続ける覚悟だったのです。

この士気の高まりは、翌日の15日、仙台藩が降伏しても、まだ衰える気配を見せません。

そこで、新政府軍参謀板垣退助(いたがきたいすけ)伊地知正治(いちじまさはる)は、先日降伏した米沢藩を通じて、城の北西7kmの位置に退いていた会津藩家老萱野権兵衛(かやのごんべえ)のもとに、降伏を勧告する書状を送ります。

なんせ、もう、9月も半ば(旧暦ですし)・・・もはや東北には冬の気配さえ感じられ、このまま包囲を続けていれば、こちらの新政府軍にも多大な被害が出かねません。

なんだかんだで、新政府軍も攻めあぐねていたのです。

考えてもみてください。

籠城する5000に対して包囲する新政府軍は30000・・・すでに、周囲の藩を降伏させた事で、その包囲の数は、もっと増えているはずです。

なのに、包囲から、あと数日で1ヶ月も経とうというのに・・・戦国時代の合戦なら、もう、城内に突入して当然の状況です。

それでも、新政府軍が城を落とせないでいたのは、会津軍の士気の高さとともにある会津若松城の鉄壁な守り・・・。

先日も、書かせていただいたように、十六橋戸ノ口原を破って城下に押し寄せ、その日のうちに北面の甲賀町口郭門(こうかまちぐちかくもん)六日町口郭門を破って城郭内へと侵入し、各所に大砲を据えて、城の北出丸を射程距離に収めた新政府軍でしたが、その時も、そのまま突き進む事をあきらめ、包囲しての長期戦に変更した経緯がありました。

つまり、それだけ会津若松城が堅固だったわけです。

水堀と高い石垣を誇る巨大な城郭を持ち、本丸を囲むように設置された二の丸・三の丸・北出丸・西出丸には、まったく死角がないように設計され、要所に切られた狭間(はざま)から撃たれる銃弾で、間近へは近づけない状況・・・しかも、さすがのアームストロング砲でも、天守閣に多少の痛手を与える事はできても、決定的な打撃を与えるほどの効果は、まだ、なかったのです。

Wakamatuzyouaidusensou

現存する会津若松城の古写真(会津若松市蔵・・・痛々しい姿ではありますが、天守閣そのもは、しっかりと建っていて、崩れる気配を感じさせませんよね。

昨年の暮れの記事で、大いなる平和をもたらした江戸時代の約300年間は、ほとんど武器が発達する事がなかった事を書かせていただきましたが(12月31日参照>>)、考えてみれば、その300年の時を経て、突然現れた外国製の最新兵器に耐えられるほどの城郭を、先人は築いていた事になり、まさに蒲生氏郷(がもううじさと)バンザイ!加藤嘉明(よしあき)えぇ仕事してまっせ!の拍手喝さいですが・・・
(スミマセン(*_ _)人 話が戦国に行ってしまいました)

しかも、最終的には3万以上で包囲しながらも、この時点でも、まだ南側の天神口を新政府軍は占拠する事ができてはいなかったのです。

これは、いわゆる「窮鼠(きゅうそ)猫を噛む」の意味での孫子(そんし)の時代からの包囲戦の鉄則孫子の兵法・軍争篇を参照>>)で、新政府軍は、あえて占拠しなかったとの話もありますが、結果的に、ここが、最後まで会津の物であったおかげで、ある程度の城外の兵が城へと戻る事もでき、城内の兵糧も尽きなかったわけで、そのぶん、力づくでは落とせないという事になったわけです。

とは言え、18日には高田も占拠され、もはや完全に孤立してしまった状況を見て、松平容保(かたもり)は、いよいよ開城を決意するのですが、そのお話は、9月22日のページでどうぞ>>
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コメント

白虎隊を連想しますね。会津では白虎隊が今でも語り継がれていて生活科(道徳)の授業でも触れるらしいです。

以前も少し触れていますが、「龍馬伝」は「倒幕側の人物が主人公」のはずですが、話が全体的に暗いですね┐(´-`)┌「新しい時代を開拓する」や、「世の中を変える明るい展望」(「明治」は「明るい時代を作る」との意味があるらしいです)と言う前向きな発想が伝わりません。
龍馬伝を見ていると42年前の「竜馬が行く」の視聴率が、極めて低かった理由がわかる今日この頃です。

投稿: えびすこ | 2010年9月14日 (火) 11時14分

えびすこさん、こんにちは~

確かに、龍馬伝、暗いですね。

しかも、また言ってましたね。
「俺には時間がない」
「気がせく」
「今離れたら、2度と会えない」
みたいな、あたかも死を知ってるような発言…

番組の中では、今回襲われた事で、「いつ命がなくなってもおかしくない事に気付いた」的な事になってましたが、それは、あまりに遅すぎです(笑)

脱藩した時点でおたずね者なのに…

投稿: 茶々 | 2010年9月14日 (火) 11時27分

第一部は、竜馬が日本を救う方法を見つけられなくて懊悩しているとこから脱藩して勝海舟に出会い開眼するところでカタルシスがありましたね。第二部は武市半平太が投獄され切腹を待つ身という、嫌なカタルシスでした。第三部は薩長同盟までが確かにあっさりで、目の前が拓けるようなカタルシスは無かったですね。最終回で主人公が死んじゃうわけですけど、どうやって明るくまとめるのでしょうか。

しかし、会津戦争については松平容保公を好意的に見られませんね。子どもたちだけを死なせておいて、主君がのうのうと明治後に余生を生きているというのが、どうも。

投稿: 黒駒 | 2010年9月14日 (火) 13時52分

白虎隊の自決は勘違いで起きたものなんですよね。山の上から民家から出る煙を見て、城が燃えるように見えたらしいです。そんな中で1人自決をせずに20世紀まで生き延びた隊士がいます。自刃しなかった彼の決断はえらいです。

龍馬伝の第4部はどうなんでしょうかね?
「ミステリー」がキーワードなので、個人的には大変気が重いです。先行きはますます暗いです。以前も書きましたが中岡慎太郎の扱いも良くないですね。上川さんの事情もあるので仕方ないんですが。ただ新聞等で誰も指摘しないんですが、NHK大河ドラマは普通は年配の人が見て、気が重くなるような物語ではいけないんです。最近では良いも悪いも、新聞への投稿(世間の関心)がなくなりました。

余談ですが、龍馬伝は関東では12日の放送時点で12週続けて視聴率が18%未満です。

投稿: えびすこ | 2010年9月14日 (火) 16時26分

黒駒さん、こんばんは~

確かに、最後に死ぬシーンは、龍馬に限らず涙を誘うものですが、実際の龍馬さんが性格の明るそうな人なので、せめて、直前までは楽しい感じが個人的にはウレシイです。
直前まで、本人は死ぬとは思ってないわけですし、暗~い感じで、慎太郎と二人、鶏鍋をつつくのも、なんだか寂しい…

容保さんに関しては…
ひょっとしたら、生きていくのもツライかも知れませんよ。
まして、武士にとっての死が、ある意味、名誉な時代でしたから、死んだ方がよほど楽だったかも…です。

投稿: 茶々 | 2010年9月14日 (火) 19時04分

えびすこさん、こんばんは~

白虎隊の勘違いや生き残った方については、白虎隊の悲劇の日づけの記事で書いているので、また読んでいただけるとありがたいです。

「ミステリー」って事は、もしや、犯人を断定しないまま終わるのかも知れませんね。

歴史モノは、実際には謎になってる部分を、作家さんの創作で、見事に解決していただけるところが腕の見せどころのような気がしないでもないですが…

投稿: 茶々 | 2010年9月14日 (火) 19時14分

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