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2010年9月29日 (水)

スーパーヒーロー信長の登場で崩壊する三好三人衆

 

永禄十一年(1568年)9月29日、足利義昭を奉じて上洛してきた織田信長が、石成友通の籠もる山城勝竜寺城と、三好長逸・政康らが籠もる摂津芥川城を攻め落としました。

・・・・・・・・・・

三好長逸(みよしながやす)三好政康(まさやす)石成友通(いわなりともみち)・・・この3人を三好三人衆と呼びます。

いずれも、畿内一帯に勢力を誇り、小規模ながらも一時は天下を掌握した三好長慶(ながよし)に仕えた重臣でしたが、その長慶が、相次ぐ身内の死に打ちひしがれながら亡くなり(5月9日参照>>)、後を継ぐべき甥の三好義継(よしつぐ)が幼かったために、彼ら3名が、その後見人として君臨するようになったのです。

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堺・南宗寺にある三好一族の墓

しかし、この三好三人衆・・・あまり良い評判は聞きません。

やはり長慶の家臣だった松永久秀(10月10日参照>>)敵対したりつるんだり・・・果ては、第13代室町幕府将軍・足利義輝(よしてる)暗殺した事で、その悪名も頂点に達します(5月19日参照>>)

・・・とは言え、その久秀同様、群雄割拠の戦国にあっては、一連の悪名も、ある意味、勲章と言えなくもありません。

なんせ、油断をしてたら寝首を掻かれ、殺らなきゃ殺られるのが戦国の世ですから・・・

その将軍・義輝の暗殺にしても、もともと京の都を掌握していた長慶が亡くなったのを好機と見た義輝が、何やら不穏な動きをしはじめたが故の行動だったわけですし、その後に久秀とモメで、奈良の大仏を焼いちゃった(10月10日参照>>)事に関しても、あくまで、戦乱の最中の失火と記録されています。

しかも、その後、三好長逸は、山城阿弥陀寺の住職・清玉(せいぎょく)宛てに、
「東大寺の再建に関しては、全部、僕に言うてください。どんなけ多かったとしても再建する気持ち満々でいてますから・・・」
と、「反省してます」と言わんばかりの手紙を送っています。

また、織田信長に対して、あれだけの酷評を毒づく宣教師ルイス・フロイスが、
「政康さんは、キリシタンに殺された鹿たちのために涙を流すようなやさしい人」
「長逸さんは、生まれつきイイ人なのか、異教徒であるのに、教会に対して親切にしてくれる」

と、同じ著書『日本史』の中で、ベタ褒めの評価をしています。

まぁ、フロイスにとっては、キリスト教を支援してくれるんなら、誰だってイイ人だったのかも知れませんが・・・

それは、朝廷に対しても同じで、宮廷内の湯殿や殿上の修理、お米や食品の献上などを再三に渡って、しかも大量に行っていたとみえ、当時の公家の日記の中にも、その喜びを書き綴っている人もいます。

おかげで、永禄十年(1567年)の11月には「まだまだ献金が少ない!」として一度は断られた足利義栄(よしひで)の第14代・将軍就任も、翌年の2月には、見事、朝廷からの宣下を獲得しています。

この義栄という人は、第11代将軍・足利義澄(よしずみ)の次男で、第10代将軍・足利義稙(よしたね)の養子だった足利義維(よしつな・よしこれ)の息子・・・つまり、三好三人衆に暗殺された前将軍・義輝の従兄弟に当たる人物です。

もちろん、その義輝を倒した後に、「自分たちの意のままになる将軍を・・・」ともくろんだ三好三人衆らに擁立された傀儡(かいらい・あやつり人形)の将軍です。

しかし、哀れ、将軍に就任した、わずか7ヶ月後の永禄十一年(1568年)9月29日・・・亡き義輝の弟・足利義昭(よしあき)を奉じて上洛して来た織田信長(6月26日参照>>)、三好三人衆の一人=石成友通は山城勝竜寺城を、残る二人=三好長逸・政康らは摂津芥川城を攻め落とされてしまいました。

信長軍の襲来で、故郷=阿波(徳島県)に逃れた義栄は、翌日の9月30日(諸説あり)、将軍として、ただの一度も京都に足を踏み入れる事なく、わずか27歳の生涯を閉じたのです。

一方、この日、城を落とされながらも、その後、大坂の野田福島などに籠り、信長に徹底抗戦をつづけていく三好三人衆でしたが(8月26日参照>>)友通と政康は、一連の戦いの中で戦死(政康は大坂夏の陣での死亡説もあり)・・・長逸に至っては、混乱の中で行方不明となり、その生死さえわからず、といった、なんとも微妙な結末となってしまいます(松永久秀は、ちゃっかりと信長の傘下に入ります)

「将軍を暗殺して大仏を焼く」という神仏をも恐れぬ大胆な事をしておきながら、歴史上屈指のヒーロー=織田信長に倒されるところから、小説やドラマでは、ほとんど彼らにスポットが当たる事はなく、当たったとしても、ヒーロー信長を引き立てるだけの損な役回りばかりの三好三人衆・・・

しかし、その範囲こそ全国には及ばなかったものの、朝廷と将軍を味方につけ、都を含む畿内を制した者が天下人とするならば、彼ら三人衆は、確実に、信長が上洛する前に天下を取っていた天下人なのです。

いつか彼らにスポットを当てたドラマができる事を望んで・・・
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コメント

「三人寄れば文殊の知恵」と言いますね。「美濃三人衆」も有名ですね。親族を入れると織田信長はなぜか「三人衆」に縁がありますね。自分も「戦国三英傑」の1人なので。

「戦国鍋TV」と言う番組を知っていますか?戦国時代の戦いや人物を、現代風に当てはめたバラエティー番組です。パロディーなのであまり教養的ではないんですが。ローカル局限定の番組で、関西のサンテレビでも放送されています。局によって放送時間が違います。

投稿: えびすこ | 2010年10月 1日 (金) 08時31分

えびすこさん、こんにちは~

三大○○、御三家、三人娘…日本人は3という数字が好きなんでしょうね。

>「戦国鍋TV」

パロディは侮れませんよ~
意外と、ドラマより的を射ている場合多々アリです。

チェックしときます。

投稿: 茶々 | 2010年10月 1日 (金) 13時14分

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