戦い終わって日が暮れて~薩英戦争・その後
文久三年(1863年)9月28日、第1回めの薩英和平会談が、横浜の英国公使館で開かれました。
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そもそもは前年の文久二年に起こった生麦事件(8月21日参照>>)・・・
薩摩藩の国父(藩主の父)・島津久光の行列の前を馬に乗ったまま横切ったとして、お供の武士たちが、そのイギリス人4名に斬りつけ、1人を死亡させた事件です。
翌・文久三年6月には、その生麦事件の犯人の引き渡しと賠償金の支払いを求めて、旗艦・ユ-リアラス号以下7隻のイギリス艦隊が鹿児島へとやってきます。
しかし、当の久光も、息子で藩主の島津忠義(ただよし)も、犯人を引き渡すつもりも、賠償金も渡すつもりもまったくなく、逆に、7月1日には、西瓜(すいか)売り決死隊を派遣して、戦闘態勢に入ります(7月1日参照>>)。
この決死隊は未遂に終わるものの、その翌日から戦闘開始・・・これが、あの薩英戦争です(7月2日参照>>)。
実質1日半ほど・・・トータルで3日間に渡って行われた戦闘の勝敗は、双方ともに被害を出した事で、今もって意見の分かれるところではありますが、薩摩の被害は死者5名、負傷者10名と人的被害は少ないものの、砲撃によって城下の1割を消失してしまった現実は、この先の薩摩藩の進む方向を急展開させるのです。
それは、なんと言っても武器や戦闘技術の差です。
昨年の大みそかのページ【歴史からみる平時の武装放棄は是か非か?】(12月31日参照>>)に書かせていただいたように、徳川・約300年間の平和を謳歌していた日本では、その間、兵器が発達する事はほとんどありませんでした。
イギリスの最新兵器を目の当たりにした薩摩・・・支藩の佐土原藩主・島津忠寛(ただひろ)の勧めもあって、このまま攘夷にこだわり続けて、さらに被害を拡大するよりは、イギリスと和平を結ぶ方向へと進み、あわよくば、その最新技術を教えてもらい、軍事力を身につけるほうが得策だと考えたのです。
かくして文久三年(1863年)9月28日、久光の命を受けて横浜へと派遣された側用人(そばようにん)の岩下方平(みちひら)と御庭方(おにわかた)の重野安繹(しげのかすつぐ)らを代表とする交渉チームが、第1回めの薩英和平会談にのぞみます。
都合3回にわたって行われたこの会談で、薩摩側は「イギリスに日本を占領する気がない事」を知り、一方のイギリス側は「今後の薩摩は、むしろ交易を望んでいる」事を知るのです。
こうして、お互いを理解し合った薩摩とイギリス・・・11月1日には、薩摩藩が生麦事件の犯人を処刑する事と、10万ドルの賠償金を支払う事を条件に和平が成立します。
同時に、薩摩藩は、「イギリスから軍鑑を購入したい」と申し入れ、この商談にも成功します。
ただ、実際にイギリスとの戦争を経験していない江戸藩邸の藩士たちは、素直に、これまでの攘夷の気持ちを切り替える事ができずに、この和解に猛反対しますが、彼らの説得に当たったのが、かの大久保利通(としみち・当時は一蔵)・・・。
賠償金は支払うものの、そのお金は幕府から借りるという案を出して、何とか反対派を抑え込みました。
まぁ結局、この時、幕府から借りた10万ドルは、幕末の動乱でウヤムヤのまま鳥羽伏見の戦いに突入し、やがては、長州と組んで幕府を倒してしまうので、結局は踏み倒しって事になるんですけどねww。
そして、もう一つ・・・犯人を薩摩藩が処刑するって条件も、なんだかんなでやらずじまい・・・
イギリスのほうも、せっかく良いカモ・・・もとい、良い交易相手となった薩摩と、うまくやっていくためにも、あえて、突っ込むような事はしなかったので、そのまま、ウヤムヤになってしまいました。
なんだか、計画的な気がしないでもない( ̄○ ̄;)!
ところで、この薩英戦争は、イギリス本国では、どんな風なとらえ方をしていたんでしょうか?
これが、けっこう厳しいです。
・・・というのも、先ほど書かせいただいたように、イギリス艦隊の砲撃によって、城下の1割が焼失してしまった事が、非戦闘員の一般市民を無差別に攻撃した非人道的な行為として、本国の議会で問題となったのです。
実際に攻撃命令を下したクーパー提督や、駐日代理公使のニールの責任を問う場面もありましたが、おそらくは、その後の薩摩との良好な関係が、本国に伝わったのか、そんな議論もまもなく沈静化されます。
なんせ、交渉成立後の薩摩は、藩を挙げてのイギリスブームとなるのですから・・・
イギリスへの留学生は送るわ、近代的な工場の設計を依頼するわ、その工場を運営する技術者の派遣まで依頼するわ・・・こうして、イギリスとの密接な協力関係ができあがっていった薩摩・・・。
積極的に西洋の技術を取り入れ、富国強兵・殖産興業政策を推し進めた前藩主・島津斉彬(なりあきら)が亡くなってから5年・・・高い授業料と数年の足踏みを経て、ようやく、再びの歩みをはじめた薩摩は、やがて維新の原動力となって、新しい時代へと日本を引っ張っていく事になるのです。
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コメント
こんばんは。いつも楽しく読ませて頂いてます。
戦国大好き男の私ですが、最近はドップリと幕末にのめり込んでいます。龍馬伝の影響が強いのですが…。
幕末の人達に思うこと。それは、彼らがいなかったら、今の日本の立場は無かった事。なんやかんやで自由が効いているこの世の中。もし、彼らがいなかったら…と考えたら、日本が世界に誇るTOYOTAもSONYも無かったかも知れませんし、日露戦争の英雄、平八郎さんも、東郷ターンも無かったかも知れません。
本当に偉人の皆々様に感謝です。
投稿: 佐賀の田舎者 | 2010年9月28日 (火) 23時12分
茶々さん、こんばんは!
イギリスはなにげに日本のこときにかけてくれてたんですね!!当時最強だったわりに優しい…意外でした。
イギリスときたら日英同盟!
日英同盟ときたら陸奥宗光!!
強引に陸奥に繋げてスミマセン…最近私の中では彼がブームです(笑)
廃藩置県前に紀州藩で最初に徴収令だしてて最強の軍隊つくってたのに解散され、土佐藩と長州藩のパイプ役になったり、西南戦争時に大久保ら薩摩閥を追い出そうとした…のに木戸死に大久保隙みせず失敗したり、総理になりたいなぁと動き出したら自分が死んでしまうし。意外にけっこうから廻ってますよねw
そこがいいですが!
英語はもちろん、フランス語、オランダ語も話せたんでしょうか?英語が苦手な私から見て、超かっこいいですw写真もけっこう男前ですよね?
陸奥は原敬に慕われてたみたいですね~
今日授業で原敬でてきたんですが、彼もまたなかなかに興味深い人ですね^^
今度彼に関係する記事も書いてくださいww
長々とすみませんでした!
投稿: 暗離音渡 | 2010年9月28日 (火) 23時18分
佐賀の田舎者さん、こんばんは~
ホントにそうですね。
彼らのガンバリがあったからこそ、現在の私たちがある…
だから、自分の国の歴史を知る必要があるんですよね。
実際、生きていく上で、歴史は必要ないし、歴史を知らなくても、なんら生活に支障はありませんが、自分自身の存在が、過去の歴史あっての存在ですもんね~
投稿: 茶々 | 2010年9月29日 (水) 01時19分
暗離音渡さん、こんんばんは~
>イギリスはなにげに日本のこときにかけてくれてたんですね!!
まぁ、本文にも書いたように「良いカモだ」とか、「あわよくば属国に」と思ってた可能性大ですが…
陸奥さんは、維新後の活躍がスゴイですからね。
けっこうイケメンやし…
奥さんも美人です(* ̄ー ̄*)
投稿: 茶々 | 2010年9月29日 (水) 01時23分
暗離音渡さんが陸奥宗光のことに触れていますが、「龍馬伝」での陸奥役の平岡君は今年の配役では、当たりくじを引いた数少ない俳優だと思います。龍馬伝でなんだかんだ言ってもグラバーは、この時代のキャスティングボーターの1人だったんでしょうね。
9月19日ので山登りの場面。確かに少し長かったですね。昨日の放送で「政権交代」と言うフレーズが出たのでびっくりしました。言葉としてあの時代にあった可能性は低いのでは?あと序盤の方の土佐勤皇党のメンバーのセリフで、「皇居」が出ましたがやはり言葉が存在した可能性は低いですね。
大政奉還の説明は「幕府が担ったまつりごと(政治)を朝廷に返上する」の言い方の方が正しいのでは?
投稿: えびすこ | 2010年10月 4日 (月) 20時11分
えびすこさん、こんばんは~
言葉はもうしかたないですね~
たぶん、本当の当時の言葉を再現すると、字幕スーパーなしでは、現代人には理解できないのではないかと思いますし…
若者向けのわかりやすさを重視しているのでしょうかね?
投稿: 茶々 | 2010年10月 5日 (火) 00時51分