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2010年9月 9日 (木)

朝倉孝景を影で支えた軍師・谷野一栢

 

天文五年(1536年)9月9日、越前朝倉孝景に招かれ、一乗谷の城下・高尾に滞在していた僧・谷野一栢が、明の医学書『八十一難経』を校正して出版しました。

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谷野一栢(たんのいっぱく)・・・もともとは奈良の僧で足利学校の出身・・・(みん・中国)への留学経験があり、帰国後は、関東から畿内に本拠を戻して医学の講義などを行い、名声を博したと言います。

「谷野=たにの」と、普通に読む場合もあり、史料によっては「一栢老人(いっぱくろうじん)という名前になってる場合もあります。

いずれにしても、戦国を扱うドラマではお目にかからないお名前・・・まして、「僧だ」「医術だ」とくれば、「ややこしいなぁ」と、ついつい敬遠しがちですが、この人が、越前(福井県)の戦国大名・朝倉孝景(あさくらたかかげ・10代宗淳)の軍師だ!と聞くと、がぜん、興味が湧いてきませんか?

ただし、かなり謎の多い人物です。

・・・というより、史料的な物がほとんどなく、彼の足跡と言えば、本人が執筆したと見られる医学書などの著書や、後継者に伝えた知識などで、どこで何をしたという話をあまり聞く事もなく、はっきり言って生年&没年もわかりません。

ただ、永正年間(1504年~20年)に京都へ移転した際には、「易の大家がやってくる!」都でも大評判になったという事なので、この頃には、すでにかなりの有名人になっていたのでしょう。

そんな一栢さんを、「ぜひ!わが国へ・・・」と招いたのが越前の朝倉氏・・・

その求めに応じて、享禄二年(1529年)には、確実に越前に移住していたとみられ、そこで、日食や月食の日時を算出してみせたと言います。

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越前一乗谷朝倉氏遺跡
史跡については【戦国のポンペイ…一乗谷朝倉氏遺跡】のページで>>

また、当時、この越前に身を寄せていた足利義昭(よしあき)と、全国ネットを狙う織田信長会見の日取りを決めたのも一栢さんだとされています。

おそらくは、合戦の吉凶や、攻める方角の決定なども彼の役割だったでしょうから、やはり軍師という事になるのでしょう。

このように・・・
陰陽師か??と思うほどの易学・天文学の知識を持ちながらも、大陸で医学の知識を身につけていた一栢さん・・・

京都にいる頃にすでに『俗解難経抄(ぞくなんかいげしょう)なる医学書を書写して校正を加えた物を世に送り出していますが、越前に滞在中の天文五年(1536年)9月9日に完成したのが、明の医学書『八十一難経』です。

この「難」というのは、ご存じの通り「困難=難しい」の難ですが、この場合は、「理解が困難な事=むずかしい内容」という意味の難で、つまりは「奥義(おうぎ)という意味で使われています。

そんな奥義が81個も・・・( ̄○ ̄;)!
とにかく、その意味や内容についての解説書が現在でも出版されているシロモノなので、そう簡単には読み解ける物ではありませんが、耳や鼻の役割といった基礎的な物から、脈をとっての診断や各病気の対処法など、様々な奥義が記載されているようです。

この『八十一難経』の出版は、日本で刊行された医学書としては2冊目・・・戦国大名が関わった物としては初めてでした。

さらに一栢は、『韻鏡聞書(いんきょうききがき)なる図解つきの医学書も執筆していますが、一方では、その知識や技術を後世に伝えるという事にも重きを置いていました。

養子の玉雲軒(ぎょくうんけん)には、直接その奥義を伝授し、先の『八十一難経』などは、多くの人に惜しみなく頒布しています。

それもこれも、彼の理念=「国を医(いや)し、民を救う」・・・ただ一つに徹した姿でした。

・・・と、ここまで書けば
吉凶を占い健康管理する「陰陽師+医者」といった感じ???
と、思えますが、孝景が彼を重用したのには、もう一つ、ワケがあります。

それは、一栢の交友関係・・・

最初のほうに、「京都に移転して時は都でも大評判」と書かせていただきましたが、都で大評判という事は、すでに、いっぱしの文化人として認められ、一目おかれていたわけですから、当然、彼のもとを訪ねてくる公家や有名人も多くいたわけです。

それは、越前という場所に引っ越しても変わりなく・・・清原宣堅(のぶかた)三条西実隆(さんじょうにしさねたか)をはじめ、他にも多くの公家や文化人が、彼に会うために越前を訪れています。

「越前にいながらにして京都の様子がわかる」・・・ひょっとしたら、孝景にとっては、これが最も重要だったかも知れません。

おそらく、そこのところは一栢もお見通しで、彼ら公家を通じて得た情報は、しっかりと主君に報告していた事でしょう。

そして、その情報は、孝景の軍事面・外交面で大いに活用されたに違いありません。

情報収集しながら吉凶を占う軍医・・・

おそらくは一度の合戦経験もない一栢さんですが、軍事の作戦を練るだけが軍師ではありません。

こうして、主君を影で支えるも軍師・・・なんでもできないと軍師にはなれません。
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コメント

 本日(2月20日)近くて遠かった足利学校と記念講座『上杉憲実と足利学校』を聞いてきます。足利学校出身の僧・軍師、どのくらいいるのでしょうか?
 以前購入していた小和田哲男著の『呪術と占星の戦国史』、これから読みます。

投稿: 銀次 | 2011年2月20日 (日) 05時42分

銀次さん、こんにちは~

新しい講座、新しい本…
なにやら、新しい発見がありそうでワクワクしますね。

何か新情報がありましたら、また、教えてください。

投稿: 茶々 | 2011年2月20日 (日) 13時41分

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