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2010年10月30日 (土)

「びた一文」が多すぎの貨幣のお話

 

明応五年(1500年)10月30日、室町幕府が、初の撰銭令を出しました。

・・・・・・・・・・

・・・という事で、撰銭令(えりぜにれい)については、後ほど、順を追ってご紹介させていただく事として、本日は、それに関連したお金=貨幣のお話をさせていただきます。

・‥…━━━☆

Fuhonsen11 現在、日本最古の貨幣とされるのは、平成三年(1991年)に発掘された「飛鳥池工房遺跡」から出土した富本銭(ふほんせん)です。

この遺跡は、その名の通り、飛鳥時代の工房の跡で、金、銀、銅、漆、ガラスなど、様々な材料で様々な製品が作られていて、富本銭以外にも多くの発見がありました。

現在、そこには、現場を見学できる形で遺跡を保護しつつ、万葉文化館なる博物館が建っています(くわしくは、本家ホームページ=歴史散歩:明日香村のページで>>

・・・とは言え、中国開元通宝を模したと言われる富本銭ではありますが、出土数もさほど多くなく、鋳造の跡はあっても、実際にそれが流通していたかどかは不明な点が多く、やはり、実際に使用された事がほぼ確実となると、あの和同開珎(わどうかいちん)という事になります。

これは、慶雲五年(708年)に、秩父盆地とおぼしき場所から献上された自然銅に、時の天皇=第43代元明天皇が、元号を和同に変更してまで大喜びして、早速、鋳造の詔(みことのり・天皇の公式の言葉)を発して造らせた貨幣(5月24日参照>>)・・・

ただ、以前の平城京遷都のページ(3月10日参照>>)でも、少し触れましたように、元明天皇が平城京遷都を布告するのが708年なら、自然銅が発見されて和同開珎の鋳造を開始するのも708年・・・

2年後の遷都に向けて、急ピッチで進められる都の建設にかり出され、朝から晩まで働かされた地方の一般人に支払われたのは和同開珎での賃金・・・未だ、朝廷の役人さえ現物支給の時代に、果たして、地方の農民が和同開珎を貰っても、使い道があったのか?がはなはだ疑問で、「なんとなく怪しい」ってな事もコメントさせていただきましたが・・・それは、あくまで、私的な疑問です。

・・・で、結局、中央政府としては、この和同開珎以来、天徳二年(985年)の乾元大宝(かんげんたいほう)まで、約180年間に12の貨幣を造ります。

これを皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)と呼びますが、この間は慢性化する材料不足から質が落ちる一方で、最終的に貨幣が流通に堪えなくなって10世紀後半には、鋳造そのものをやめてしまいます。

その後は、徳川家康が江戸にて幕府を開く時代まで、なんと!この日本では、政権を握った中央政府が貨幣を製造する事は、一度も無かったのです。

この間には、貿易を通じて入って来た中国の貨幣(主に宋銭)が流通する事になるのですが、室町時代頃になると、(みん・中国)との交易でもたらされる明で造られた貨幣の中に私鋳銭(しちゅうせん・政府の許可を得ずに偽造した物)が目立つようになって来ます。

そうなると、当然の事ながら、日本でも中国銭に似せて私鋳銭が造られるようになるわけですが、常識的に考えて、安価でより多くのニセ貨幣に造ろうと試みるわけですので、一つ一つの貨幣は、かなり質が悪くなるわけです。

文字は読めないわ、一部が欠けとるわ、穴があいてないわ・・・

こういう質の悪い銭は「鐚銭(びたせん)」「悪銭(あくせん)などと呼ばれて、当たり前ですが商売の際には受け取りを拒否されたり、鐚銭4枚で、良質の物1枚に相当させるなんて事もありました。

・・・で、この、悪質な銭を、良質な物と区別したり嫌ったりする行為を撰銭(えりぜに・えりせん)と言いました。

ちなみに、お気づきだと思いますが、
「びた一文も払うもんか!」
などの、捨てゼリフに使う「びた」とは、この質の悪い鐚銭の事・・・正統な貨幣より価値の低い鐚銭一枚だって払いたくないという意味ですね。

しかし、こうして人々が撰銭をして、悪銭の受け取りを拒否してばかりになると、商売が成り立たなくなり、物資の流通にも支障をきたしてしまうという事態に陥ってしまうため、幕府は、撰銭を禁止する法令撰銭令なる物を、度々、発布する事になるわけです。

その初となったのが明応五年(1500年)10月30日というワケですが、もはや大量に出回りすぎている悪銭は、幕府自体が大量に所有しており、撰銭令は、幕府自身が、それを使いたいがために、ニセ硬貨を公式に認めちゃう事でもあるわけで、もう、これで貨幣経済の信用度は地に落ちたって感じですね。

結局、大した効果も得られませんでしたし・・・そりゃ、年貢を米で納めるわけですな。

一説には、ある祝い事で、織田信長正親町(おおぎまち)天皇献上した金銭のほとんどが悪銭だった事に、天皇が怒ったなんて逸話も残りますが、これは、信長が天皇を軽視して悪銭を献上したわけではなく、天下目前という地位にある信長でさえ、悪銭しか用意できないほど、悪銭が巷にあふれかえっていたからだとも言われています。

戦国も終焉を迎える頃には、良質な金の産地であった甲斐(山梨県)甲州金を発行したりもしますが、これはあくまで領内のみで流通する物・・・

また、天下統一を果たした豊臣秀吉も、あの大きな天正大判をはじめとする金貨や銀貨を発行していますが、これも贈答用で、一般に流通する物ではありませんでした。

結局、政府が発行する貨幣が、ちゃんと流通するようになるのは江戸時代になってから・・・

慶長六年(1601年)、徳川家康は、金座銀座を設置して貨幣の鋳造権を独占し、慶長大判・小判一分銀丁銀豆判銀などを発行し、貨幣の統一に着手します。

それでも、度々粗悪な改鋳(貨幣を溶かして鋳造しなおす事)があったりもしましたが、一応の貨幣の全国統一が、やっとこさ、ここで成される事になります。

寛永十三年(1636年)には、銭形平次・投げまくりでおなじみの寛永通宝が発行され、これで、金銀銅貨のすべてが揃い、とりあえずはめでたしめでたし・・・

この後は、財政難に陥った藩が、領内でのみ通用する藩札(はんさつ)などを発行し、今度は、その藩札と幕府発行の貨幣の交換比率が・・・なんて新たな問題も出始めるのですが、そのお話は、また、いずれかの機会に・・・
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2010年10月29日 (金)

現在まで続く茶の心…武野紹鴎の侘び

 

弘治元年(1555年)閏10月29日、戦国時代に活躍した茶人で、千利休の師でもある武野紹鴎が、54歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

海の向こうの遠い国から、日本にお茶を伝えたのは、遣唐使として派遣された僧でした。

まずは延暦二十四年(803年)、(とう・中国)から帰国した永忠という僧が中国から団子茶なる物を持ち帰り、さらに建久二年(1191年)に臨済宗の開祖・栄西が、(そう・中国)からのお土産に持ち帰って京都で栽培したのが、現在のお茶のルーツと言われています(2006年10月31日参照>>)

こうして、しばらくの間は、天皇や公家の間で気分がよくなる薬のような形で用いられたり、禅僧の間で眠気覚ましとして使われていたお茶に、娯楽の要素が加わるのが室町時代・・・

闘茶(とうちゃ)という賭け事に使用され、ハヤリ物好きの武士の間で大ヒットとなるわけですが、一夜にしてあまりの高額が動いたため、幕府からの規制も出たりなんかもしながらも、ここまでは、あくまで「一部のお金持ち人の贅沢な楽しみ」といった感じでした(2008年10月31日参照>>)

そんなお茶が転機を迎えるのは、室町時代も後半となった戦国の頃・・・

村田珠光(むらたじゅこう)が、それまで広い部屋にて贅沢な雰囲気で行われていた茶会を、簡素で落ち着いた感じの草庵(そうあん)で開き、四畳半のような狭い部屋での茶会が主流となっていったのです。

その頃には、一般にもお茶が広まり、いわゆる茶店の前身のような場所で、一服いくらでお茶の接待をするといった簡単なお茶の飲み方も登場してきます。

そんな珠光に、お茶の手ほどきを受けたのが武野紹鴎(たけのじょうおう・紹鷗)です。

文亀二年(1502年)に大和(奈良県)にて、武田信久という武士の息子として生まれた紹鴎ですが、父がその後にへと移り住み、皮屋という屋号にて商売を始めたという事なので、おそらくは、武具や甲冑などの皮製品を扱う商家であったのであろうと言われています。

商いで成功した父・信久は、その名も武田から武野に変更しますが、とにかく、紹鴎が、まだ若き頃に、すでに武野家は、堺でもトップクラスの豪商だったようで、金持ちのぼんぼんとなった彼は、京に上って連歌に没頭するという日々を送っています。

当時の歌学の権威であった三条西実隆(さねたか)について古典を学び、その影響を多分に受けた青年時代を送りながら、もちろん珠光から、その理想である草庵のお茶も、この頃に学びます。

その後、堺に戻った紹鴎は、南宗寺に身を寄せ、禅僧・大林宗套(だいりんそうとう)に教えを請いました。

Dscn0962a800 南宗寺の石庭(堺市)

やがて紹鴎は、このようにして吸収した歌・禅・茶を見事に融合した新たな茶の道に開眼する事になるのです。

その理想とするのは、歌の道で学んだ藤原定家『詠歌大概(えいがたいがい)(=定家の和歌に対する考え方や心得を示した書)でした。

♪見渡せば 花も紅葉(もみじ)もなかりけり
  浦のとやまの 秋の夕暮れ  ♪

これは、その定家の和歌ですが、
もはや、花は散り、紅葉も色あせてしまって、この後は枯れた世界があるのみ・・・

そう、紹鴎が目指したのは、珠光が目指した簡素なお茶の世界を、さらに簡素にして、むしろ、その枯れた世界を楽しむ事・・・

わずか二畳か三畳の農家風の建物にいろりを切って・・・

Dscn0990a600 ちょっと枯れ過ぎな紹鴎の屋敷跡→

紹鴎自身は、名物茶器を60種以上も所蔵する富豪でありながら、自ら竹を削って茶箋(ちゃせん)を造り、青竹を切って蓋置きを造り、何事もない白木の釣瓶に、ただ一輪の花をさして花瓶にする・・・などなど、質素で何もない場所なれど、おもてなしの心だけは、精一杯持って、精神誠意を込めたお茶をお出しする(わ)び茶の精神です。

そして、その精神は、娘婿である今井宗久(そうきゅう)をはじめ、津田宗及(そうきゅう)松永久秀(12月26日参照>>)など、多くの弟子たちに受け継がれます。

Dscn0977a800 武野紹鴎の墓:耳を当てるとシュンシュンと湯を沸かす音がするとか…(南宗寺)

その弟子の中の一人が千利休(2月28日参照>>)・・・

ご存じのように、この利休によって、茶の湯は大成される事になるのです。
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2010年10月28日 (木)

上杉景勝の宿敵~独立を夢見た新発田重家

 

天正十五年(1587年)10月28日、上杉景勝の総攻撃を受けていた新発田城が落城し、新発田重家が自刃しました。

・・・・・・・・・

昨年の大河ドラマ「天地人」では、いなかった事にされてしまった新発田重家(しばたしげいえ)・・・

昨年のブログでは、そのあまりのシカトぶりに、番組へのツッコミ的な形で、ページの後半部分に書かせていただきました(5月25日参照>>)、今回は、その重家さん中心にお話を進めさせていただきます。

・‥…━━━☆

Sibatasigeie 重家の新発田氏は、鎌倉時代から室町時代にかけて越後(新潟県)北部に勢力を誇った揚北衆(あがきた衆)佐々木氏から枝分かれしたいくつかの分家の一つですが、そもそもは、その鎌倉時代に、幕府から荘園の地頭を仰せつかって入国し、ずっとこの地を守って来たというプライドもあり、南北朝以降に守護となった上杉・・・まして、その下の守護代長尾氏などとは相まみえぬ気質を持っていた一族でした。

しかし、同族同士の争いや分裂を繰り返すうちに徐々に力が衰え、やがて長尾氏が上杉に取って代わる頃には、その傘下に組み込まれていく事になります

ちなみに上杉謙信は、北条氏に追われて越後に逃げ込んできた山内(やまのうち)上杉憲政(のりまさ)から関東管領を受け継ぎ、上杉謙信となりますが、それまでの名前は長尾景虎(かげとら・輝虎)・・・つまり、長尾氏の血筋です(4月20日参照>>)

その後、謙信の時代になっても、関東への出兵や川中島の合戦で、新発田勢は大いに活躍しました。

当初は、次男という事で、やはり佐々木氏から枝分かれした五十公野(いじみの)を継いでいた重家でしたが、天正七年(1579年)に実兄・長敦(ながあつ)の死を受けて、現在の新潟市から三条市一帯を支配する新発田家の家督を相続したのです。

謙信の死後に起こった上杉の後継者争い・御館(おたて)の乱(3月17日参照>>)では、景勝(かげかつ)側に立ち、景虎(かげとら)側についた同族の加地秀綱(かじひでつな)を降伏させるという功名も挙げました。

さらに、天地人ツッコミのページで書かせていただいたように、ドラマでは主役の特権で直江兼続(なおえかねつぐ)がやった事になっていた甲斐(山梨県)武田勝頼(かつより)への寝返り交渉・・・あの黄金を持って敵陣に向かったのは、実際には重家であったとされています。

ドラマでもおわかりの通り、アレは御館の乱でも1・2を争う重要な出来事です。

当然の事ながら、合戦後の重家は、それなりの恩賞に期待する事になりますが・・・・
あぁ、それなのに、それなのに・・・

御館の乱の勝利の後、多大な恩賞にありつけたのは、景勝の直属の上田衆ばかり・・・重家には何の恩賞もなかったのです。

そりゃ、不満ムンムンなります。

そんなこんなの天正九年(1581年)・・・先の御館の乱で上杉同志が争ってる間に、どんどんと北陸へ進攻(9月24日参照>>)して来ていた織田信長からのお誘いが・・・

そこで重家は、越後からの独立を決意・・・一門はもちろんの事、「昨日の敵は今日の友」とばかりに先ほどの秀綱ら旧景虎派をも抱き込んで、翌・天正十年から本格的に反旗をひるがえし、新潟や新発田周辺で景勝勢と戦闘を繰返します。

同時に、西側から越後を目指すのは信長の命を受けた配下の柴田勝家・・・上杉方の要所・魚津城を落とし、いよいよ本拠地の春日山城にあと一歩のところまで迫ります(6月3日参照>>)

北東に新発田、南西に柴田・・・まさに絶体絶命のピンチとなった景勝ですが、ところがドッコイ、ここで一大事件が・・・

そうです・・・魚津城陥落の前日に起きた本能寺の変!(6月2日参照>>)

命拾いの上杉・・・

一方、信長の死を受けて、次々と撤退する織田軍でしたが、重家は、信長の要請に答えて挙兵したものの配下ではなく、その最終目標は、あくまで独立ですから、なおも戦い続けます。

その間に、信長の後継者となった羽柴(豊臣)秀吉とよしみを通じた景勝は、ターゲットを重家に絞り、兼続を大将に度々に渡って新発田を攻めてきますが、その都度、重家は守りぬき、上杉方を敗走させています。

しかし、天正十三年(1585年)には、同じ景勝を敵とした事で一時は協力体制にあった越中(富山県)佐々成政(さっさなりまさ)秀吉に降伏(8月29日参照>>)、さらに翌・天正十四年(1586年)の6月には、景勝も上洛して秀吉の臣従となった事で(6月15日参照>>)重家は孤立してしまいます。

逆に、秀吉という後ろ盾を得た景勝は意気揚々・・・

かくして天正十五年(1587年)、景勝は兼続の指揮下、1万の大軍を率いて重家討伐に乗り出すのです。

5月13日には、重家の本拠地・新発田城(新潟県新発田市)の北東に位置する出城・水原城(北蒲原群)を攻略・・・9月7日には、あの秀綱を討って加地城(新発田市)を落とし、さらに、9月14日には、赤谷城(新発田市)を攻撃し、城主の小田切三河守を討ち取りました。

ちなみに、この赤谷城は、重家と同盟関係にあった会津・芦名氏配下の城で、新発田と会津を結ぶ交通の要所でもあった事から、ここで新発田城は、会津との連絡も断たれました。

さらにさらに上杉軍は、10月23日には、新発田城とは目と鼻の先にある五十公野信宗(いじみののぶむね・重家の義兄弟)が守る五十公野城(新発田市)を落城させ、もはや、新発田氏の城は新発田城のみとなってしまいます。

その頃には、かの秀吉から重家へ、降伏勧告状が届いていましたが、重家はかたくなに拒否・・・翌・10月24日、上杉軍は、いよいよ新発田城に総攻撃を開始したのです。

城下の各所に火をかけ、焼き打ちにする上杉軍・・・やがて、覚悟を決めた重家は、自ら700余騎の兵を率いて城を打って出て、上杉軍へと突撃します。

・・・と、その上杉軍の中に、かつて、かの佐々木氏から枝分かれした同族の色部(いろべ)色部長実(ながざね)を見つけた重家・・・

その色部隊の真っただ中に突入するや
「親戚のよしみや!この首、お前らに取らしたる!勇気あるヤツ…出てこいや!」
と叫び、やにわに鎧を脱ぎすてて、自らの刀で腹をかき切ったのだとか・・・

天正十五年(1587年)10月28日、享年・42歳・・・独立を夢見た勇猛な武者とともに、新発田城は陥落しました。
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2010年10月27日 (水)

アンケート企画「歴史上最大の政権交代とは?」

 

ちょっと気分を変えて、本日はアンケート企画といきましょう!

お題は・・・

「あなたが思う 歴史上最大の政権交代とは?」

「時代が変わった」
「国が変わった」

という感じも含めての政権交代・・・もちろん、正解となる答えはありません。

人それぞれ、好きな歴史人物や重きを置く出来事によって、様々な解釈ができるものですので、むしろ、イロイロな意見が聞けるのではないかと期待しております。

いつもの通り、個人的に「これでは?」と思う選択技を14個呈示させていただきますので、「そう思う」という物に清き1票をどうぞ。

なければその他にご投票ください。

  1. 神武東征
    小さな集合体だったムラを統轄し、とりあえず国らしき物を造った?(参照ページ:2月10日>>)
  2. 継体天皇の即位
    万世一系とされた天皇家に一石を投じた?(参照ページ:12月8日>>)
  3. 中大兄皇子の大化の改新
    蘇我の王国を倒して政権樹立?(参照ページ:6月12日>>)
  4. 壬申の乱からの天武天皇
    天皇家内の後継者争いに見えて、実は時代がガラッと変わった?(参照ページ:2月25日>>)
  5. 桓武天皇の平安京遷都
    政権交代とは言えないものの、奈良時代という時代を一新した遷都?(参照ページ:10月1日>>)
  6. 平清盛の太政大臣就任
    前政権をぶっ潰す!という政権交代ではなく、初の武士政権として有力?(参照ページ:2月11日>>)
  7. 平家を倒した源頼朝の鎌倉幕府
    清盛なんて目じゃない!こっちこそ純粋の武士政権?(参照ページ:7月12日参照>>)
  8. 後醍醐天皇の建武の新政
    武士から政権奪回???でも、それって武士の助けがあったんじゃ?(参照ページ:5月22日>>)
  9. 尊氏から義満=足利3代による室町幕府
    南北朝のゴタゴタも解決すれば、真の政権交代?(参照ページ:12月30日>>)
  10. 織田信長の足利義昭追放
    群雄割拠の戦国に終止符を打って政権交代?(参照ページ:7月18日>>)
  11. 豊臣秀吉の太政大臣・関白就任
    信長の後を引き継いで政権確立…紛う事なき天下人?(参照ページ:12月19日>>)
  12. 徳川家康の江戸開幕
    豊臣を倒して政権掌握…300年続く江戸時代への転換期?(参照ページ:2月12日>>)
  13. 明治維新
    もはや、言う事なし…近代への歩みはまさに歴史上最大?(参照ページ:12月9日>>)
  14. 民主党政権・誕生
    とりあえず入れときました…自分の目で見た政権交代はコレしかないですから
  15. その他
    「こんなのあるヨ!」「こんな大事なの忘れてるヨ!」っていうのがあったらお知らせください

追記:
勝手ながら今回の投票は、11月10日に締め切らせていただきました。

集計させていただき、コメントとともに結果発表させていただいておりますので投票結果はコチラからどうぞ>>
ご協力ありがとうございましたm(_ _)m

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2010年10月26日 (火)

江戸幕府の農民支配~五人組制度

 

寛永十四年(1637年)10月26日、江戸幕府が五人組制度を強化しました。

・・・・・・・・・

江戸時代の身分制度「士農工商」というのが有名ですが、実際には、その農民の中にも身分制度がありました。

検地帳に記載された田畑を持つ本百姓(ほんびゃくしょう)
田畑を持たず、日雇いでの小作をする水呑百姓(みずのみびゃくしょう)
本百姓の下で働く名子(なご)などの隷属農民です。

村は、本百姓を中心とする五人組で形成され、その運営は、この五人組の代表である名主(なぬし・庄屋または肝煎とも)、名主を補佐する組頭(くみがしら)、名主と組頭を監視する百姓代(ひゃくしょうだい)、の村方三役がこなしました。

これらの役職は、ほとんど世襲ですが、時には協議や入札される事もあったのだとか・・・。

Goningumiseido

そんな村内では、年貢の納入や村の共同経費の負担、犯罪防止などのいわゆる自治的活動は五人組単位で行われ、五人組は互いの五人組を双方で監視するシステムとなっていて、隠れキリシタンなどが発覚した場合は連帯責任を負わされました。

もちろん、農民のトップである名主の上には、領主である大名に代わって彼らを統轄する代官と呼ばれる幕府役人がいたわけですから、この五人組制度の確立は、まさに、江戸幕府の支配体制が、庶民の末端にまで浸透した事を意味します。

五人組制度自体は、14年前の徳川家光が第3代将軍に就任した元和九年(1623年)に始まってはいましたが、ここに来ての更なる強化というのは、2年前の寛永十二年(1635年)に参勤交代制度を確立させて、武士への支配体制を完成させた幕府ではあったものの、あまりの重税に、ポツリポツリと出始めた農民たちの不満を押さえつけるがための政策だったようにも思えます。

現に、この同じ年の、まさに同じ頃、九州では天草四郎率いる島原の乱が勃発しています(10月25日参照>>)

島原の乱は、宗教の名を借りつつ小西行長の元家臣が指揮した反乱ですが、実際の参加者のほとんどは、重税に苦しむ農民でしたから・・・。

その負担はとにかくスゴイ!!!

田畑や屋敷にかかる本年貢は40%~50%くらいで、当時は収穫高に応じて決められる検見(けみ)と、一定期間同じ比率で計算する定免法(じょうめんほう)があり、米か貨幣で納めねばなりませんでした。

これ以外にも、田畑以外での副業的収入があった時は、当然のごとく、その分の税金=小物成(こものなり)が加算されます。

また、このような、直接支払う税以外にも、幕府が行う土木工事に駆り出さる国役(くにやく)や、街道交通に人馬を出す伝馬役(でんまやく)、宿駅に応援に出る助郷役(すけごうやく)などの労働の納税がありました。

もちろん、これらの事を徹底管理するのは、管理する側も大変・・・

なので、幕府は、長年に渡って管理しやすいように、田畑の永代売買を禁止して本百姓は本百姓のまま、土地を失って水呑百姓にならないようにしたり、兄弟が分割相続して、その管理がややこしくならないように分地制限令を出したりしました。

その田畑の使い道も、勝手にタバコや綿花・菜種などを作らせないために田畑勝手作りの禁止令を出し、作れる物は米・麦・黍(きび)・粟(あわ)・豆だけに制限していたのです。

・・・で、さきほど書いたように、これらの事をちゃんと守っているかどうかを、お互いの五人組同志で監視させるというわけです。

まさに、五人組制度の強化は、末端の農民の生活までをも幕府が支配するシステムの象徴だったという事になります。
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2010年10月25日 (月)

鳥取の干殺し~吉川経家の決断

 

天正九年(1581年)10月25日、羽柴秀吉に兵糧攻めにより、前日の24日に開城した鳥取城の城将・吉川経家が城兵の命と引き替えに自刃しました。

・・・・・・・・・

世に言う「鳥取の干殺し」です。

2007年には、織田信長から中国地方の平定を任された羽柴(豊臣)秀吉が、鳥取城の包囲を完了した7月12日の日づけで、その戦いの経緯をご紹介させていただきましたが(7月21日参照>>)、本日は、籠城する吉川経家(きっかわつねいえ)側からの鳥取の攻防戦を見てみたいと思います。

・‥…━━━☆

それまでは、西国の雄毛利の傘下についていた宇喜多直家(うきたなおいえ)などの中国地方の諸将も、予想を上回る強さで進軍する羽柴秀吉の勢いに、戦わずして織田方に寝返る者が相次ぎます。

もちろん、それは、一か八か的な戦い方より、安全かつ確実性を重んじる秀吉による、実際の合戦に持ち込む前からの、切り崩し作戦や交渉によるところも大きいわけですが、鳥取城主だった山名豊国(とよくに)もその一人・・・

しかし、説得に応じて開城しようとする豊国は、家臣たちの猛反対に遭い、結局、彼は単身で城外へと出ます(反対した家臣に追放されたとも)

・・・で、城主不在となった鳥取城に残った家臣たちが頼ったのは、もちろん毛利・・・

かくして天正九年(1581年)2月・・・今は亡き毛利元就(もとなり)の次男・吉川元春(きっかわもとはる)の要請により吉川一門吉川経家が城将として派遣されました。

かねてより名将の誉れ高い経家・・・女子供・老人を含むわずか4000の城兵で、2万の大軍の秀吉勢とまともに戦っては勝ち目がない事は重々承知です。

すでに、秀吉の到着が7月頃との見事な予想を立てていた経家・・・しかも幸いな事に、鳥取城は「天より釣りたる」と称された山陰屈指の山城ですから、「ここは一つ、籠城して長期戦に持ち込んだなら、4ヶ月もすれば冬となる(旧暦ですから…)山陰なら、兵糧不足に陥った秀吉軍は撤退するだろう」との計画を立てます。

ところが、です。

鳥取城に入って各所を検分した経家は唖然・・・Σ(゚д゚;)!

兵糧が極端に少ないのです。

そうです・・・すでに、経家の作戦を予想していた秀吉の配下によって、鳥取中の米が買い占められていたのです。

ある者は自らが商人になりすまし・・・
ある者は、商人を金で雇い・・・相場以上の高値を提示して米の買い占めを行ったので、高値につられて城内の米まで、すでに売られてしまっていたのです。

経家は慌てて兵糧の準備を命じますが、結局、確保できたのは、必要量をはるかに下回る2~3か月分でした。

果たして予想通りの7月・・・前月に大軍を率いて現地到着した秀吉が、まさに7月12日、鳥取城を囲みます。

しかも、秀吉は上記の通りの作戦ですから、それこそ、ネズミ1匹這い出る隙間のないほどの完璧な包囲陣を構築します。

Tottorizyoukoubousencc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

西は袋川の手前に堀を造り、その後方に柵を張り巡らし、東側は連なる峰に沿って柵・・・要所には櫓も建て、さらに、毛利の援軍が来た時のため、陣の外にも堀を造る徹底ぶりで、もちろん、夜にはかがり火を煌々と焚き、兵は交代で寝ずの見張りを続けました。

さらに、毛利水軍に備えて千代川には警固の船を配置し、8月25日には、兵糧を積んでやってきた敵船を、細川藤孝(後の幽斎)配下の荒木勘十郎松井猿之助らが撃退しています。

こうして、孤立状態となった鳥取城・・・やがて9月になると食糧が底をつき、兵たちは草木を食べてしのぎますが、やがて、それも無くなれば、牛馬を殺して食するようになります。

城兵に限らず、籠城する女子供も皆やせ細り、敵陣前の柵に駆け寄って助けを乞う者も続出・・・やがて、10月も終わろうとする頃、すでに限界を越えている城内で、経家は衝撃的光景を目の当たりにします。

鉄砲で撃たれて虫の息となっている兵を、刀を持った者が取り囲み、その肉を奪い合うようにむさぼる、悪夢のような光景です。

人が人でなくなった姿を見た経家は開城を決意・・・秀吉に使者を送ります。

はじめ秀吉は、経家を、毛利との交渉カードとして使うため、重臣の森下道誉(どうよ)中村春続(はるつぐ)のみの切腹を要求しましたが、経家はこれを拒否・・自分自身の切腹と引き換えに、城兵たちの命を助けるという約束を取りつけて、10月24日、開城に踏み切りました。

翌日の天正九年(1581年)10月25日・・・その決意のほどを遺書にしたためた経家は、秀吉の検使を受けた後、身を清め、見事、自刃を果たしました。

「去る七月二十一日、羽筑(はちく・羽柴筑前=秀吉の事)取り詰め候(そうろう)
以来二百日余り 堅固に相抱(あいかか)へ 今に於いては兵糧相縮まり候条
一人悴腹
(かせばら)に及び 諸人恙(つつが)なく相助け候
其の仕合はせ 御一門の名誉たるべく候
恐惶謹言
(きょうきょうきんげん)ー経家の遺書ー

享年・35歳・・・

思えば、それまで、個人的には縁もゆかりもない城に招き入れられてわずか8ヶ月・・・「自らの命と引き換えに、城の皆を助けたい」と・・・
それが幸せであると・・・

戦国武将とは、それほどの責任感を持ちながら決戦に挑んでいるのだという事を痛感させられます。

経家の見事な姿に感動した秀吉は、約束通りに城兵を助けるため、城門を出たすぐの山麓に大釜をしつらえて粥をごちそうしましたが、深刻すぎる飢餓状態だったため、一度に多く食べた者のほとんどが死んでしまったと言われています。
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2010年10月24日 (日)

男・佐々木高綱~意地とプライドのパフォーマンス

 

文治元年(1185年)10月24日、鎌倉の勝長寿院にて落慶法要が行われ、佐々木高綱の甲冑姿が話題となりました。

・・・・・・・・・

佐々木高綱(たかつな)は、近江(滋賀県)佐々木庄を地盤とする佐々木氏の棟梁の家に生まれ、『平家物語』『源平盛衰記』などで大活躍する人物・・・。

有名なところでは、源義経とともに、京に陣取る木曽(源)義仲を攻めるべく向かった時の、梶原景季(かげすえ)との宇治川の先陣争い(1月17日参照>>)の逸話がありますね。

そこでも垣間見えるように、とにかく目立ち、とにかく武功を挙げようとガンバル人・・・まぁ、合戦での功績によって、その恩賞が決まる武士の世界ですから、それも当然と言えば当然ですが・・・

Dscn8602a800 近江・佐々木城跡の石組み

さてさて、そんなこんなで、壇ノ浦の合戦(3月24日参照>>)も終わり、もはや源氏の世も確定となった文治元年(1185年)10月24日源頼朝の本拠地である鎌倉勝長寿院にて落慶法要が行われた時の事でした。

この式典にて、高綱は「主君・頼朝の甲冑を預かる」という大役を任されます。

やがて時間も近づいて、続々と式典に出席する人々・・・その人々のド肝を抜いたのが、かの高綱の姿でした。

なんと高綱は、その預かった頼朝の甲冑を反対向きにして着用し、式典に出席していたのです。

反対・・・って前後じゃありません、表裏です。

本来は甲冑の内側になる部分を表に向けて、ムリヤリ着ているため、何やら、胸の部分がせりあがって異様な形状に・・・

間違って、鎧を裏表に着ちゃった・・・て事も、無いではないですが、さすがに、形が異様すぎますし、着るのにも余計に体力がいりそうですし、だいたい、そんな面倒な着方・・・「着てる途中で気付くだろ!」てなモンです。

当然の事ながら、周囲からは白い目で見られるだけでなく、直接、注意する人まで・・・

「ふざけてるのか!」
「まじめにやれぃ!」
非難囂々です。

すると高綱・・・キッっと目を見開いて

「主君の御鎧を着するのは、もし事あるのとき、ただちに脱ぎ捨て主君にお着せするものなり!」
と、ピシャリ!

つまり、「今ここで、急に合戦となった時、1秒でも早く頼朝が甲冑を着られるように、鎧を逆に着こんでいる」というのです。

もちろん、本人は純粋な忠誠心・・・のつもり?

未だ平家と交戦中ならともかく、もはや、大勢は決まってますから・・・この時期の、露骨な忠誠心のアピールはどうなんでしょう?

・・・とは言え、まだまだ、曽我兄弟の仇討(5月28日参照>>)や、平景清(かげきよ)(3月7日参照>>)の例もあり・・・ひょっとしたら、まだまだ油断大敵な頃だったのかも知れません。

はたして、この高綱の行動が、頼朝さんには、まさしく忠誠心の現われとして好意的に受けとめられたのか?
それとも、行き過ぎたパフォーマンスと、苦笑いで一蹴されたのか?

そこンところは、頼朝さんのみが知る・・・ってところでしょうが、後に、「自らの活躍ぶりのワリには恩賞が少ない」との不満の末、建久六年(1195年)には、息子に家督を譲って、さっさと出家してしまっていますから、やはり、武士としてのプライドの高い人だったのでしょうね。

なんか、裏向け甲冑の姿を想像するとこっけいですが・・・
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2010年10月22日 (金)

平安京の移り変わり~朱雀大路と千本通

 

延暦十三年(7948年)10月22日、第50代桓武天皇が、都を平安京に遷都しました。

・・・・・・・・・

これまでも何度か、平安京の誕生にまつわるお話をさせていただいておりますが・・・

本日は、この日誕生した平安京の移り変わりのお話をさせていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

♪大路に沿いてのぼれる
  青柳が花や 青柳が花や
 青柳が撓(しな)いをみれば
  今さかりなりや 今さかりなりや♪

                      ~『催馬楽(さいばら)』より~

平安京遷都の直後の、その華やかなりし様子が思い浮かぶ歌ですね。

おそらくは、船岡山北の守り神=玄武(げんぶ)とし、そこを基点に南北を貫く朱雀大路(すざくおおじ)を、まっすぐに南へと伸ばした線を中心線として左右対象に配置された平安京・・・。

道幅が84mもあったという、まさに、大路と呼ぶにふさわしい朱雀大路は、現在の千本通です。

Heiankyoutizu2 クリックして大きくしてね↑

平安京の図に、位置関係がわかりやすように、現在の鉄道路線と駅をつけ足してみましたが、こうしてみると、現在の京都の中心が、昔より、ずいぶん右(東)に移動している事がわかります。

それにしても、華やかな都の象徴だった朱雀大路は、いつから千本通となったのでしょうか?

これが、意外にも早く・・・遷都間もなく、その兆しが見え始めるのです。

その原因は、なんと言っても水はけの悪さ・・・

以前、【平安時代は今より温暖化だった?】(7月3日参照>>)で書かせていただいたように、そもそも、平安時代は、今より平均気温が高く、おそらく、ゲリラ豪雨も多かったものと思われますが、当時の都の西半分は、大変、水はけが悪く、一度、大雨が降ると、なかなか水が退かなかったのです。

水はけが悪いと、当然、不衛生になり、疫病が流行って人口は減りますし、木造建築である建物の朽ちる度も高くなります。

官庁の建物は財政難で再建されないし、一般市民も建て替えるほどのお金もありませんから、より良い場所へ引っ越す事になり、これまた人口が減少するのです。

さらに、治承元年(1177年)には太郎焼亡次郎焼亡という2度の大火に襲われたうえに、源平の合戦の舞台ともなり、もはや西半分のほとんどが、造営当時の姿ではなかったようです。

焼けた内裏も再建されず、その跡地は、すでに野原の状態で、人々は「内野」と呼んでいたのだとか・・・

西の端っこである西京極大路は、もはや、どこが道かすらわからなくなり、すでにこの頃には、本来なら中央部であった朱雀大路が、都の西の端になってしまっていたのです。

そうなると、そこにできるのが「あの世とこの世の境界線」です。

以前、建仁寺六波羅密寺をご紹介したページに、かつては、加茂川が「あの世とこの世の境界線」であった事を書かせていただきました(3月23日参照>>)

都で人が亡くなると、その遺体を入れた棺桶を担ぎ、加茂川を渡った六道の辻あたりで、最後のお別れをし、そこからは僧侶の手によって風葬地である鳥辺野(東山)に運ばれました。

電車も車もない時代ですので、そんなに遠くの場所に埋葬する事はできませんから、都の端から少し行った所が埋葬地となるのは必然的な事でしょう。

それは、西側も同じ・・・
都の端となった朱雀大路を越えた所に埋葬の場所が生まれます。

現在はそんな面影もありませんが、船岡山の北西あたりに蓮台野(れんだいの)という「あの世」意味する地名が残り、ここが、その地であったと言われます。

・・・で、その千本通の名前の由来ですが・・・
今から900年ほど前に書かれた日蔵(にちぞう)上人『冥土記』によれば・・・

日蔵は天慶四年(941年)、突然死んで、いきなり冥土へ行きます。

そこで、すでに延長八年(930年)に亡くなっていた延喜帝(醍醐天皇)が地獄で苦しんでいるところに出会います。

天皇が言うには
「僕が、今、こうして苦しんでいるのは、生前に罪なき者(菅原道真?)を左遷した罰やねん・・・せやから、お前はすぐに現世の戻って、この状況を現天皇に報告してくれ。
ほんで、尊いお経をいっぱい唱えて、千本の塔婆
(とうば・冥福の意味を込めて立てる細長い板)を立てて供養してくれ~」

生き返った日蔵は、醍醐天皇との約束通り、連台野に千本の塔婆を立てて、天皇の供養をしたのです。

以来、朱雀大路は千本通と呼ばれるようになったのだとか・・・

とは言え、厳密には朱雀大路は、内裏の南端である朱雀門にぶつかり、そこで終了・・・その内裏が野原となった後に、普通に人が往来するようになり、さらに蓮台野あたりまで延長された分を含めてが千本通ですから、厳密には、その長さは違う事になりますが・・・
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2010年10月21日 (木)

フォローの側近・遠藤基信…殉死

 

天正十三年(1585年)10月21日、伊達氏に仕えた遠藤基信が、亡き主君・伊達輝宗の後を追い、その墓前で自刃しました。

・・・・・・・・・

最終的に伊達家の宿老(家老)にまで上り詰める遠藤基信(もとのぶ)ですが、譜代の家臣というわけではありません。

基信の父は、出羽米沢(山形県米沢市)の修験者・金伝坊(こんでんぼう)で、若い頃は諸国を巡りもしましたが、まずは、その連歌の才能をかわれて、伊達氏の家臣・中野宗時(むねとき)の庇護を受けました。

Dateterumune500a その後、その宗時の主君である伊達輝宗(だててるむね)に気に入られ、その側近に大抜擢されたのです。

しかし、そんなこんなの元亀元年(1570年)、事件は起こります。

基信の旧主であった宗時が、息子とともに輝宗に反旗をひるがえしたのです。

実は、もともと、この輝宗さんは、隠居した父・晴宗(はるむね)とは仲が悪い・・・その晴宗も、その父(つまり輝宗のジイチャン)稙宗(たねむね)仲が悪く、以前はお互いの配下を巻き込んでの内乱にまで発展してしまった事もあり、その時に、乱の勝利者となった晴宗側についた事で、家中の最高実力者となったのが宗時だったのです。

・・・で、またまた同じような親子喧嘩で乱に発展する事を恐れた晴宗は、成長した輝宗に、早いうちから家督を譲りはしましたが、結局は、その後も、家中の実権を握っていたのは晴宗と宗時だったわけです。

しかし、当然の事ながら、当主になった以上、輝宗だって、その実力で家中の統制をはかりたいわけで・・・

はたして、
輝宗が実権を握ろうとしているから宗時が謀反を起こしたのか?
宗時が謀反を起こしたから輝宗が攻めたのか?

どちらが先かは微妙な所ですが・・・
ともかく、輝宗は、宗時の居城・小松城を攻め落とし芦名氏を頼って逃亡した宗時は、会津に向かう途中で餓死したと言われています。

この時、宗時が逃亡した事を知った輝宗は怒り爆発し、彼の妻子や縁者をことごとく抹殺しようとしました。

それを、身を呈して止めに入ったのが基信・・・もちろん、最初に可愛がってくれたのが宗時であったというう恩も感じていたでしょうが、何より、これは内乱ですから、妻子や縁者をことごとく抹殺すれば、未だ、すべての家臣団を掌握しきれていない状態の家中では、火に油をそそぐような結果になりかねないと考えたのでしょう。

結果、なんとか輝宗の説得に成功・・・宗時の妻子は殺されずにすみました。

後に、この反乱で逃亡した宗時の配下の者の多くが帰参し、その後の伊達家に忠誠を誓ったとも言います。

このように、未だ家臣を掌握しきれていない輝宗は、それを力でねじ伏せようと、時々、強行手段に走り出すようなところがあったのですが、それを「ちょっと待ってください!」と制しておいて、その間に水面下で根回したり、関係者を説得したり・・・

輝宗の性格を見抜いていた基信は、常にその先を見つめながらフォローに回り、主君の暴走を防いでいたと言われます。

そんな基信・・・やがて奉行から宿老へと上りつめ、天正年間(1573年~91年)には、伊達家の外交を一手に引き受けるようになります。

織田信長北条氏照(うじてる)徳川家康などとも堂々を渡り合う一方で、礼も尽くし、ここでも見事なフォローをしてくれます。

そんな基信さんのスルドさを垣間見せてくれるエピソードを一つ・・・
(伝説の域を超えない物ではありますが・・・)

・‥…━━━☆

ある時、勢力を拡大しつつあった信長に、輝宗が名馬を献上する事を決めますが、
「ワシの分の贈り物とは別に、お前の名前でも何か贈ったらどうだ?」
と基信にも声をかけます。

すると、基信・・・
「うちの使用人の源五郎という者が、最近、鋳物に凝ってまして・・・これが、また、ええ感じの茶釜を造りよるんですわ~
女中らも、皆、使いやすいわぁ~言うてね~
一つ、信長さんに献上するヤツ造らせますワ」
と・・・

「おいおい、あの茶道具の名器集めにウルサイ信長に、お前の使用人の茶釜やと???」
と驚く輝宗・・・
「ハイ、そんな信長さんやからです・・・せやかて、俺らみたいな田舎もんが、金や銀やのチャラチャラしたもんをエエカッコして贈っても、信長さんなら、もっとえぇもん、ワンサカ持ってはりますがな~
そこで・・・信長さんが絶対手に入れられへん物=源五郎の茶釜でんがな」

果たして、京の信長のもとに贈られた献上品・・・もちろん、名馬にも大いに喜ぶ信長ですが、問題は、あの源五郎の茶釜・・・

キレられるんじゃないかと、使者はハラハラしながら汗だくで、その茶釜の説明をします。

すると、信長は、茶の湯の師匠である宗易(そうえき・千利休)を呼んで・・・
「宗易、お前、源五郎の茶釜を見た事あるか?」
「いえ、知りません・・・初めて見る品でございます」
「そやろそやろ・・・ほな、これで一発、茶を点ててくれるか!」
と、なにやらご機嫌です。

そう、なんでも一番が大好きな信長さん・・・しかし、事、茶の湯に関しては、宗易のほうがスゴイ・・・どんな名品を信長が手に入れても、
「あぁ、それは○○ですな」
と、なんだかいつも、高みからの言い回しで、信長より先に、その名器の事を知り尽くしている・・・

そんな宗易が、まだ見た事も無い茶釜を信長は手に入れたわけです。

信長にしてみれば「してやったり・・・」

信長は、その茶釜に「遠山」という名をつけてコレクションの一つに加えたのだとか・・・

・‥…━━━☆

まさに、相手の性格を見抜いた基信さんならではの贈り物だったわけです。

「相手の性格を見抜く・・・」

・・・と、毎日、このブログを見ていただいてる皆さま・・・
思いだしていただけましたか?

そうです!
ちょうど1週間前に書かせていただいたページ・・・神社にいた、あの片倉小十郎景綱を見い出し、輝宗の息子・伊達政宗小姓に抜擢したのが、この基信さんでしたよね(10月14日参照>>)

その景綱は、まさに側近中の側近として、生涯、政宗を補佐しました。

やっぱり、性格を見抜く能力に長けた人なんだなぁ・・・とつくづく

しかし、そんな基信さんに、最後の時がやってきます。

それは天正十三年(1585年)10月8日の事・・・

和睦成立のお礼に来たはずの畠山義継(よしつぐ)が、輝宗を拉致して逃走をはかります。

なんとか追いつき、鉄砲隊を指揮する息子・政宗に
「かまうな!ワシもろとも撃て!」
と叫ぶ父・・・

政宗は心を鬼にして、父を討った・・・あの事件です(10月8日参照>>)

主君とともに生き、主君とともに成長した武将としての日々・・・基信にとって、もはや輝宗のいない人生は考えられなかったのでしょうか?

輝宗の死から半月たった天正十三年(1585年)10月21日・・・基信は、政宗の制止を振り切って、亡き輝宗の墓前にて自刃を遂げたのです。

時に、暴走する主君をフォローし続けた基信・・・最後のフォローはともに死出の旅路につく事だったのかもしれません。
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2010年10月20日 (水)

東か西か?生き残りをかけた鍋島直茂の関ヶ原

 

慶長五年(1600年)10月20日、鍋島直茂らが筑後久留米城を攻め、立花宗茂の将・小野鎮幸と戦いました。

・・・・・・・・・・

鍋島直茂(なべしまなおしげ)・・・まさに、佐賀鍋島藩の祖となる人物です。

もともとは、鎌倉時代に大宰府少弐(しょうに)を命じられた事で、その名も少弐と名乗った少弐氏の末裔とも言われ、肥前鍋島(佐賀市)に住んだ事から、その地名を屋号とした鍋島氏・・・

直茂の祖父・鍋島清久の時代の田手畷(たてなわて)の戦い(8月15日参照>>)で、奇抜な作戦を用いて龍造寺家兼(りゅうぞうじいえかね)の窮地を救った事から、以後、龍造寺氏の配下となり、その頭角を現してきます。

鍋島氏を重用した家兼は、自らの孫娘(桃源院)を清久の息子・清房(きよふさ)に嫁がせたり、また、その孫娘も、嫡孫の周家(ちかいえ)も亡くなると、周家の正室だった女性(慶誾尼・けいぎんに)を清房の後妻に迎えさせるなどして、両氏の親密度を保ちます。

やがて、家兼の孫・龍造寺隆信(たかのぶ)が、肥前の熊という異名で呼ばれ、薩摩(さつま・鹿児島県)島津義久豊後(ぶんご・大分県)大友宗麟(そうりん)と並び称される「九州三強」の一人となる頃には、もはや龍造寺と鍋島は切っても切れない仲に・・

なんせ、家兼の曾孫である隆信から見て、清久の孫の直茂は、従兄弟(叔母さんの子)であり義兄弟(隆信の生母が直茂の父の後妻)でもあるわけですから・・・

Nabesimanaosige600ats そんな直茂は、元亀元年(1570年)には、祖父を彷彿とさせる見事な作戦で今山の戦いを勝利に導き、またもや龍造寺の窮地を救っています(8月20日参照>>)

しかし、やがて訪れたのが、龍造寺を背負って立っていた隆信の死11月26日参照>>)・・・晩年には酒に溺れて、その智将ぶりも鈍っていたと言いますが、やはり、なんだかんだでシンボル的な人物。

しかも、隆信から家督を譲られた嫡男・政家(まさいえ)は病弱・・・

そのために、家督を継いだ当主がなすべき事は、ほとんど直茂の仕事となりますが、直茂は、自らの息子・勝茂(かつしげ)とともに、その後も龍造寺氏を支えます。

天正十五年(1587年)の羽柴(豊臣)秀吉九州征伐では直茂が、文禄元年(1592年)の朝鮮出兵では息子・勝茂が、龍造寺の家臣団を率いて参戦しました。

ここらあたりから、何もできない龍造寺に見切りをつけて、直茂・勝茂父子に忠誠を誓うようになってくる龍造寺の家臣団・・・まぁ、上記のように、苗字は鍋島でも龍造寺の一族ですから、その実績や手腕において尊敬できる主君の下で働きたいという龍造寺家臣の気持ちもわからないではありません。

・・・と、ここで勃発するのが、あの関ヶ原の合戦です。

中央で起きた豊臣家内の文治派=石田三成らと武闘派=加藤清正らの対立に、野心アリアリの徳川家康が絡んで、豊臣家を東西真っ二つに分けた戦い・・・

この時、北陸では、西の丹羽長重(にわながしげ)と東の前田利長がぶつかり(8月8日参照>>)、東北では西の上杉景勝(かげかつ)が東の最上義光(よしあき)を攻め(9月16日参照>>)・・・と、全国をも二分しての戦いとなったわけですが、

九州で東軍として戦ったのが、すでに息子長政が家康べったりの、あの黒田如水(じょすい・官兵衛孝高)・・・相手は、再起をかけて挙兵した大友義統(よしむね)でした(9月13日参照>>)

さて、龍造寺&鍋島はどうしたものか・・・東か?、西か?

・・・と、鍋島父子が下した決断は・・・

父・直茂が東軍で、息子・勝茂が西軍・・・あの前田家、真田家(7月21日参照>>)と同じ、どっちが勝ってもどっちか生き残り作戦です。

・・・とは言え、息子・勝茂は、最初の段階の伏見城攻防戦(7月19日参照>>)から積極的に参加して、その立場を見せつけていますが、父・直茂は関ヶ原へは向かわず、家康に兵糧を献上してご機嫌をとるという形での東軍表明をしています。

しかも、戦況が西軍不利と見るや、すかさず息子に連絡・・・
「お父ちゃんが何とかしたるさかに、すぐ、こっち(東軍)へ来い!」
とばかりに、息子を西軍から撤退させ、東軍へと寝返らせます。

もちろん、ご存じのように関ヶ原の本戦は、わずか半日で東軍の勝利となってしまいます。

そして、今度は、その身の証を立てるため、自ら、九州の戦場に積極的に参加するのです。

これが、慶長五年(1600年)10月20日立花宗茂(たちばなむねしげ)配下の筑後久留米城への攻撃・・・

この宗茂は、西軍の一人として大津城を攻め(9月7日参照>>)、開城に追い込んだ後に関ヶ原へ向かおうとしますが、上記の通り、本戦が思いのほか早く決着してしまったために間に合わず、本拠の柳川城に戻っていたのです。

久留米の次に直茂が攻めるのは、もちろん、その本拠の柳川ですが(11月3日参照>>)、ここでも自ら先頭に立ち、東軍である事をアピールする直茂・・・おかげで、勝茂が当初西軍に加担した罪は問われる事なく、戦後は、すべてが丸く収まる事に・・・

しかも、龍造寺を見限った家臣に推され、鍋島家は龍造寺に代わって石高35万石の佐賀藩主に(9月6日参照>>)・・・こうして初代藩主となった勝茂以降、佐賀鍋島藩は、あの明治維新まで続く事になります。

・‥…━━━☆

最初は、どっちが勝っても良いように両方に籍を置いて様子を見ぃ、形勢不利となると寝返って・・・と何やら姑息でズルイ気もしますが、これが生き残りの戦略というものです。

戦いに命をかけて華々しく散るだけが戦国武将のカッコ良さではありません。

生き残りに命をかけて策略を張り巡らすのも戦国武将のカッコイイところなのです。
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2010年10月19日 (火)

「荒城の月」のモデルの城は?~土井晩翠の告白

 

昭和二十七年(1952年)10月19日、明治の中頃から昭和にかけて、イギリス文学者詩人として活躍した土井晩翠が、80歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・

土井晩翠(どいばんすい・つちいばんすい)さん
・・・と言っても、それこそ、その道の専門的なお勉強をなさっている方以外は、
「誰っ?」「何した人?」
という感じでしょうね。

格言う私も、その一人ですが・・・

しかし、
滝廉太郎(たきれんたろう)「荒城の月」と言えば、それこそ、音楽の授業で、日本の近代音楽の代表的な歌として、大多数の方がご存じのはず・・・

そう、
この荒城の月の作詞者が土井晩翠さんです。

♪春高楼(こうろう)の花の宴(えん) 巡る盃(さかづき)影さして
  千代の松が枝
(え)分け出(い)でし 昔の光今いづこ ♪

高楼とは高い建物・・・ここでは、天守閣のような・・・

そこでは、春になると花見の宴が開かれ、主君・家臣が入り乱れて「ご返杯」とばかりに回し飲み・・・その盃には、美しい月が映り込む。 

しかし、今は永年の松が枝を張るのみ・・・その枝を分けて昔の面影を探すけれど、かつての栄華は今どこに・・・

物悲しくも美しいメロディと、見事にマッチした哀愁そそる歌詞は、今聞いても心に響く名曲ですが、やはり、歴史好きとして知りたいのは、この「荒城」とは、いったいどこなのか?という事・・・

現在、歌のモデルとなった城とされる場所は全国に5ヶ所あります。

まずは、大分県竹田市の岡城址・・・

こちらは、敷地にある歌碑以外にも、近くの豊後竹田駅にて、列車の到着を知らせるメロディに「荒城の月」を使用するほか、車が走るとメロディが流れる道路があったり、その名も「荒城の月」というお土産の和菓子があったりと、かなりの盛り上がりっぷりですが、実は、ここは、作曲者=滝廉太郎の出身地。

廉太郎は、地方官だった父親が非職となり、故郷の大分に戻った事で、小学校の途中からこの大分は竹田の地にやってきて、ここで高等小学校を卒業し、15歳で東京の音楽学校に入学します。

しかし、21歳で肺結核となり、再び大分にて療養生活を送り、明治三十六年(1903年)の6月29日わずか23歳で亡くなるまで、この大分で過ごしたのです。

少年期に荒廃した城跡で遊んだ思い出が、この曲のイメージを構成しているとも考えられますね。

そして、もう一つの滝廉太郎ゆかりが、富山県富山市の富山城址・・・

廉太郎のお父さんの仕事の関係で、上記の竹田の前にいたのが富山・・・廉太郎が小学校1年から3年までの多感な時期を過ごした場所で、ここには城の西側に歌碑があります。

しかも、彼の通っていた小学校が富山城の敷地内にあった事や、ここで父親の非職による転校という、子供心にはつらい出来事もあり、それが荒廃した城のイメージと重なるのでは?という事だそうです。

・・・と、確かに、歌である以上、曲のイメージのモデルも、モデルなわけですが、やっぱり気になるのは、歌詞を書いた土井晩翠さんのイメージの出どころ・・・

そこで、晩翠がモデルにしたであろう場所の一番に挙げられるのは、やはり、彼の故郷である宮城県仙台市の青葉城・・・

仙台の北鍛冶町の質屋の息子として生まれた晩翠は、若き日に文学少女だった祖母の影響を受けて、小学生の頃から文学に興味を持ち、その後、第二高等中学校を出てから東京の帝国大学に入学・・・やがて、発表した詩集が評判を呼び、島崎藤村と並び称される詩人となります。

その後、英文学者として翻訳などを手掛けたりしながらも、母校の木町通小学校をはじめ、全国各地のたくさんの学校の校歌を作詞した事でも有名です。

そんな仙台では、かつては駅前の百貨店から、毎日「荒城の月」が鳴り響いていたのだとか・・・

また、かの伊達政宗(だてまさむね)が、もともと「千代」と書いて「せんだい」と呼んでいたこの地を、「仙台」に書き改めたものだという事で、歌詞に出てくる「千代」は、仙台を暗に示しているとも言われ、歌詞のモデルの第1候補と考えられて歌碑が建立されているのです。

また、仙台在住当時の晩翠が、よく立ち寄ったとされる岩手県二戸市の九戸(くのへ)城址もモデル候補の一つで、ここにも歌碑があります。

もともと、
♪秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁(かり)の数見せて
  植うる剣
(つるぎ)に照り沿ひし 昔の光今いづこ♪
という2番の歌詞・・・

ここに登場する雁が、東北から北陸にかけての地方で越冬する渡り鳥である事や、この部分が、上杉謙信が七尾城攻略の時に詠んだ「九月十三夜」
霜は軍営(ぐんえい)に満ちて
  
秋気(しゅうき)清し
 
数行(すうこう)の過雁(かがん)
月三更(さんこう)(9月13日参照>>)
の複数のキーワードを踏まえている事から、なんとなく、東北か北陸の城のイメージが強い歌詞なのですが・・・

そんな中、5ヶ所めの候補地が、あの会津若松鶴ヶ城です。

Wakamatuzyouaidusensou 落城後に撮影された会津若松城の古写真(会津若松市蔵)

・・・とは言え、若松城も東北の城ではあるものの、上記の4ヶ所の城のように、作者ゆかりの・・・という物はなかったのですが、これが、ある出来事で一変します。

ご存じのように会津には、あの戊辰戦争(9月22日参照>>)で壊滅状態となった中でも、有名な白虎隊の悲話があります。

今も、彼らが自害を遂げた飯盛山には、白虎隊記念館という歴史館が建っているのですが、その創立者である早川喜代次さんという方が、かねてからの知人であった土井晩翠夫妻を会津に招待した事があったのです。

それは昭和二十一年(1946年)の事・・・

戦後の荒廃した雰囲気の残る中、何か明るい話題で暗いムードを一新しようと考えた早川さんが、この年が、晩翠が「荒城の月」を作詞してから48年目の年に当たる事から、晩翠夫妻を迎えての「荒城の月作詞48周年記念音楽祭」なる物を企画し、開催したのです。

11月3日・・・当日の参加者・数千名による「荒城の月」大合唱のあと、挨拶を求められた晩翠が、おもむろにスピーチしはじめたのですが・・・

「今、皆さんがたが歌ってくださった私の荒城の月の基は、皆さま方のあの鶴ヶ城です
と・・・

「えぇーっΣ(゚д゚;)━━!!」
まさに、寝耳に水!びっくり仰天!

もちろん、音楽祭を開催しようと提案した早川さん自身も、まったく、その事は知らなかったのです。

晩翠が、東京音楽学校からの依頼を受けて、この「荒城の月」を作詞したのは明治三十一年(1898年)=28歳の時・・・その時、真っ先に思い浮かべたのが、数年前に、二高の修学旅行で会津を訪れた際に間近に目にした鶴ヶ城の美しくも悲しい荒城の姿だったのだと・・

もちろん、故郷の青葉城をはじめ、今まで訪れた事のある城も思い浮かべはしましたが、彼の心を最も動かしたのは、たった一度っきりの鶴ヶ城の鮮烈な印象だったのです。

このスピーチに感激した早川さんら有志によって、現在の鶴ヶ城内にも歌碑が建立されています。

しかし、だからと言って、鶴ヶ城以外の城を「モデルではない」と一蹴してしまう事はいただけないでしょう。

晩翠が言うように、鶴ヶ城を思い浮かべながらも、他の城の事も考えつつの作詞です。

おそらく彼は、この国を、そして、この国の歴史を愛する者の一人として、日本の各地に残る古城すべてに当てはまるように、その歌詞を造ったに違いありません。

だからこそ、歌詞だけでは、どの城かが特定できない仕上がりになっているのでしょう。

それは、曲を作った廉太郎も同じ・・・

全盛期も、荒廃した姿も、ともに美しい日本の城・・・人が、その姿に感動するのは、命を賭けてこの国の歴史を造り上げて来た先人たちの勇姿を、そこに見る事ができるから・・・

自分が感動したように、日本のすべての人が、日本の各地の古城を見て感動してほしい・・・晩翠と廉太郎のそんな思いが伝わってくるような気がします。

しかし、ここのところ、こんな美しい歌が音楽の教科書から消え、若者に親しみやすいJ-POPに変わりつつあるのだとか・・・

確かに、J-POPも歌って楽しいでしょうが、こちらは、楽しいだけではない「日本の心」が刻み込まれています。

どうか、その「心」を大切に、いつまでも歌い継がれて欲しいものです。
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2010年10月18日 (月)

家康とともに半世紀…四天王・本多忠勝

 

慶長十五年(1610年)10月18日、徳川四天王の一人としてその名を残す本多忠勝が63歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

♪家康に 過ぎたるものが 二つあり
  唐
(から)の頭(かしら・兜)に 本多平八♪

Tokugawaieyasu600 と敵将からも絶賛された徳川家康の家臣の中の家臣・・・本多平八郎忠勝(ほんだへいはちろうただかつ)は、もはや、ほとんどの方がご存じの人物だとは思いますが・・・

三河(愛知県東部)に生まれた忠勝は、当時、今川家の人質(11月6日参照>>)となっていた6歳年上の家康に、10歳の時に小姓として仕えはじめました

12歳の時に、家康の烏帽子親で元服し、忠勝と名乗ります。

その翌年起こったのがあの桶狭間の戦い・・・(2007年5月19日参照>>)

この時、まもなく今川義元の本隊が到着するであろう大高城への兵糧の運び込みを任された家康とともに(2008年5月19日参照>>)・・・いや、その家康の前に陣取り、馬印を掲げて先頭を進軍したのが忠勝でした。

これが、忠勝の初陣・・・まさに、家康の新たな人生のスタートとともに、忠勝も、武将としての人生をスタートさせたのです。

その後、彼が16歳の時に勃発したのが、徳川家臣団を真っ二つに分けた、あの三河一向一揆です(9月5日参照>>)

この時、多くの本多一族が敵に回る中、忠勝は、一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗してまで、家康の味方となって奮戦しました。

その事が功を奏したのか・・・その3年後には、騎士・50余名を付けられて、旗本部隊の先陣の一翼を担う武将となります。

元亀元年(1570年)の姉川の合戦でも、大勢が入り乱れる中で織田信長の目に留まるほどの活躍をする忠勝でしたが、なんと言っても、その名声を高めたのは、元亀三年(1572年)・・・あの武田信玄が遠江(とおとうみ・静岡県西部)へ進攻してきた時です。

有名な三方ヶ原の戦いの前哨戦とも言える一言坂の戦いで、敵将をも魅了する見事な戦いぶり・・・冒頭の有名なフレーズは、この時、忠勝の勇姿を目にした信玄の家臣・小杉左近が残した言葉です(10月13日参照>>)

他にも、小牧長久手の戦い(4月9日参照>>)の時、家康軍が池田恒興(つねおき)森長可(ながよし)を相手にしている間、挟み撃ちに遭わないよう羽柴(豊臣)秀吉の本隊=8万の軍勢に、わずか500人を率いて牽制をかけた勇姿を見た秀吉が、後の小田原征伐で一緒になった際、佐藤忠信(源義経の忠臣)(12月20日参照>>)兜を与えたという逸話も残ります(4月9日参照>>)

もちろん、ここまで敵を魅了する忠勝の活躍はまだまだ・・・あの本能寺の変の直後、一番近くにいた家康に、「すぐにでも明智を討つべき!」「このまま明智勢に見つかって討たれるくらいなら死を選ぶべき」と、動揺した近臣が右往左往の進言をする中、冷静に伊賀越え(6月4日参照>>)を提言したのが忠勝だったとも言われます。

また、軍神に見守られているがごとき強運も、忠勝の魅力・・・

最前線で奮戦するタイプの武将である忠勝は、本来なら、具足の下に鎖入りの下着を着込むなどして安全を確保する物ですが、彼は、戦場での動きを重視して、そのような下着はつけず、具足もできるだけ軽い物にしていたのだとか・・・なのに、なぜか無傷で生還する・・・

先の一言坂の戦いもそうでした。

また、あの関ヶ原でも、島津の敵中突破を追撃した際、ともに行動した井伊直政(いいなおまさ)は銃弾を浴び、その傷がもとで命を落としますが、彼は無傷でした(9月16日参照>>)

やがて、世の中が徳川に向いて来た頃には、合戦で武功を挙げる武将よりも、政治に長けた武将が重用されるようになりますが、それでも、武勇の強の者という姿勢を崩さなかった忠勝・・・

彼が常々、家臣に言って聞かせたのは・・・
「わが本多の家臣は見た目の形から武士の正道に入るべし」
要は・・・
「家紋をつけなくても、身なりで本多の家臣とわかるようにしておけ」
って事らしいですけど、これって、いわゆる、形から入るタイプだったって事でしょうか?

いえいえ・・・彼は、こう続けます。

「烏帽子や狩衣(かりぎぬ)を着てる時と、具足や兜をつけた時とでは、その気持ちが違うやん。
着物の着方や、道具の持ち方もそれに合わせなあかん。
道具は新しくするんやなくて、ある物を使て・・・
烏帽子の時は、重々しくなりすぎんように、
けど、戦う時は、火のごとき闘志をあらわすように・・・」

そう、彼は、その人の見た目には、その人の心が現われるという事を言いたいのです。

その人の趣味嗜好、考え方が、服装に自然を溢れてくるものなのだから、「それを踏まえて着こなしなさい」と・・・

たぶん忠勝には、その人の服装を見ただけで、相手の器を見極める事ができたのでしょうね・・・それも、ピッタシ言い当てれるくらい。

戦場の最前線にて身軽な具足で奮戦しても無傷で生還・・・これは、彼が軍神に見守られている運なんかではなく、彼が、一目で相手を見極める軍神のごとき目を以って、冷静に観察していたという事なのかも知れません。

慶長十五年(1610年)10月18日、家康とともに生き、配下一番の勇将とたたえられた忠勝は、主君の天下を見届けるかのように、その生涯を閉じました。
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2010年10月17日 (日)

住吉大社の燈籠巡り

 

一昨日は住吉大社へ行っておりました~

大阪では「すみよっさん」と呼ばれて親しまれている神社で、初詣の参拝者の多さでも知られる有名な、あの住吉大社です。

Dscn2546a800 反橋から本宮側を見る

海の神である住吉三神底筒男命(そこつつのおのみこと・海底の部分)中筒男命(なかつつのおのみこと・海の中間部分)表筒男命(うわつつのおのみこと・波の立つ海の表面部分)と、その住吉の神のご加護で三韓征伐(9月5日参照>>)を成功させた息長足姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)をお祀りしています。

その独特な宮の配置やお参りの仕方、神社の由緒や歴史など・・・いろいろとご紹介したいところなのですが、実は、案内をしてくださった神職の方から、住吉大社のオモシロイ巡り方を教えていただきまして・・・。

今回、それにけっこうハマってしまいまして・・・まずは、その「燈籠巡り」をご紹介させていただきたいと思います。

住吉大社には、大小取り混ぜて620余りの燈籠がありますが、それらの中には特徴のある燈籠・・・あるいは、有名な方の筆跡による燈籠が沢山あり、それらを巡りながらの参拝という事です。

どこに何があるか・・・地図で場所を示しながらご紹介します。

Sumiyosikeidaizu 画像をクリックすると大きくなります(地図は東向き)
①②③…は特徴のある燈籠、ABC…は名家筆跡の燈籠

Dscn2617a600

①うつぼ干鰯(ほしか)仲間の石燈籠
正面参道の入口部分…向かって左側にある巨大さで第1位を誇る石燈籠、高さ=約11.5m笠=2.5mすべて四角形の住吉型石燈籠…柴秋村・筆
Dscn2571a600 ②翫物(がんぶつ)商石燈籠
ひと際高くそびえたつ2基1対の石燈籠で、石垣造りの舞台の上に御影石の燈籠…五井蘭州・筆
Dscn2605a600 ③卯之日燈籠
角鳥居手前を横切る石畳の参道を「卯之日参道」と言い、両側に高さ3mの石燈籠が47基並んでいます。
Dscn2568a600 ④誕生石の石燈籠
御池のほとりにある島津氏初代・島津忠久が誕生した場所とされる誕生石の右側には「宝歴十二年(1762年)」と刻まれた古さ第2位の石燈籠があります。
Dscn2578a600 ⑤蝋石の和砂糖問屋石燈籠
最古の図書館とも言われる住吉御文庫の横に立つ2基1対の燈籠は、砂糖をイメージした白い燈籠…その素材は蝋石(ろうせき)という珍品です。
Dscn2519a600 ⑥最古の石燈籠
高倉の横にそびえる大楠の根元に立つ燈籠は寛永二十一年(1644年)に奉納された物で、現存する中では最も古い石燈籠です。
Dscn2601a600 ⑦有田焼磁器燈籠
屋形格子戸の中に奉納されているので、写真では少し見難いですが、この2基1対の燈籠は大阪陶磁器仲間組合が明治十四年(1881年)に奉納した有田焼
Dscn2587a600 ⑧鷺燈籠
(さぎ)は神功皇后が住吉の神をこの場所に祀る事を決定する目印となった聖なる鳥で、笠の部分や火袋ををはじめ、燈籠全体に43羽の鷺が浮き彫りにされている2基1対…佐々木志津麿・筆
Dscn2597a600 ⑨和州吉野郡材木商人中の石燈籠
絵馬殿の横に立つ高さ12mという最も高い2基1対の石灯篭…呉策・筆

Dscn2565a600上記以外の
名家筆跡燈籠

A頼山陽(←写真)
篠崎小竹
五井蘭州
趙陶斎
市河米庵
冨岡鉄斎
羽倉可亭
貫名海屋
呉策
池大雅

 

以上、あまりにも写真が多くなるため、有名人の筆跡の燈籠の写真は頼山陽(らいさんよう)(9月23日参照>>)さんだけにしましたので、ぜひ、現地でお確かめください…(燈籠の横に名前の書かれた石碑が立っていますので前まで行けばわかります)

こうして、珍しい燈籠や歴史人物の筆跡など楽しみながらの参拝も一興・・・今度、訪れられた時の参考にしていただければ幸いです。
~すべての写真はクリックしていただくと大きくなります~
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2010年10月15日 (金)

坂本龍馬の婚約者~鬼小町・千葉佐那

 

明治二十九年(1896年)10月15日、北辰一刀流剣術千葉定吉の次女で、自らも北辰一刀流の小太刀免許皆伝長刀師範でもある千葉佐那がこの世を去りました。

・・・・・・・・

坂本龍馬が、土佐(高知県)で通っていた日根野(ひねの)道場からの紹介状を貰って江戸に出て、名門の誉れ高い千葉道場にやって来たのは、彼が18歳の時でした。

道場主は千葉定吉(さだきち)と言い、あの北辰一刀流剣術の開祖・千葉周作の弟です。

龍馬は、いつも道場の片隅に座る美少年が、何やら気になります。

・・・というのも、「どうも他の門弟とは雰囲気が違う・・・」

龍馬は、その美少年こそ、定吉の息子に違いないと思い、丁寧に自己紹介するとともに、自分に稽古をつけてくれるよう願い出ます。

手合わせしてみると・・・これが、かなり強い!!

子供を相手にするようにあしらわれてしまい、まるで勝負になりません。

しかし、何度も挑戦しているうちに、いつしか組打ちに持ち込みます。

その美少年が、いくら剣が強くても、体の大きさは龍馬の方が数段デカイ・・・「組打ちになれば、こっちのもの」とばかりに馬乗りになり、強引に面を剥がすと、なんと、その美少年は女性・・・

・・・と、なんだかドラマのような始まりになりましたが、この彼女が、北辰一刀流の「中目録」まで進み、その強さから「千葉の鬼小町」と呼ばれていた定吉の次女・千葉佐那(さな・佐奈・さな子)・・・龍馬の婚約者とされる人です。

とは言いつつも、実際には、龍馬と佐那がどのような関係にあったのか?というのは、はっきりとはわかっていないようです。

現在、山梨県甲府市清運寺の佐那の墓碑に「坂本龍馬室」と刻まれている以上、奥さん、もしくはそれに近い関係だったのかも?

ご本人の回想では安政五年(1858年)頃に婚約したと言ってますし、明治の始め頃に勤めていた学習院・寄宿舎でも、卒業生の一人に形見の片袖を見せながら「私、龍馬さんの許婚(いいなずけ)だったの」と漏らした事があるのだから、やはり婚約者だったのかも?

この片袖というのは、龍馬が2度目の剣術修行で江戸にやって来た時に、佐那との婚約が整ったとして龍馬に贈るために、父の定吉が染めた紋付で、龍馬の死後に佐那が、その片袖を切り取り、形見として持っていた物とも言われています。

龍馬は龍馬で、土佐にいる姉・乙女への手紙にて
「はじめ名を乙女といい、馬によく乗り、剣も手強く、長刀(なぎなた)も出来、力は並々の男より強く、顔形は平井加尾(かお・土佐のおさななじみ・4月12日参照>>より少しよく、十三絃の琴をよく弾き、絵も描き、心ばえ大丈夫にて男子など及ばず、至って静かな人」
と、メチャメチャ褒めちぎって紹介しているところをみると、まんざらでも・・・いや、かなり好きだったと思われます。

しかし、その婚約後まもなく帰国した龍馬は、文久二年(1862年)に脱藩をします。

その年の8月には江戸にやって来て、しばらくは千葉道場に身を隠していたと言いますが、その頃に勝海舟に出会った龍馬は、以来、勝先生一筋となり、ほとんど千葉道場には寄りつかなくなってしまったのです。

結局、このウヤムヤな別れが、龍馬と佐那の生涯の別れとなってしまいました。

その後、龍馬は、まるで佐那との事がなかったかのように、京都でお龍さんと結婚しちゃいますが・・・

明治四年(1871年)、佐那は戸籍を抜いて家族と、そして剣術とも決別します。

明治十五年(1882年)9月には、知人の紹介で学習院女子部の寄宿舎の管理人を務めて、その後、東京の千住にて、家伝の灸を用いた「千葉灸治院」を開業しています。

この治療院に度々訪れていたのが、板垣退助から紹介された山梨県の自由民権運動家小田切謙明豊次(とよじ)夫妻・・・先ほどご紹介した「坂本龍馬室」と刻まれた佐那の墓碑は、佐那が明治二十九年(1896年)10月15日59歳で亡くなった後、一旦、東京に埋葬されたのを、「このままでは無援仏になるかも・・・」と心配した夫妻が、甲府の小田切家の墓地に分骨して埋葬したものだそうです。

これらの逸話から、これまでは、佐那は、中途半端な別れとなってしまった婚約者・龍馬の事を、ひたすら思い続けて独身を貫いたと言われてきましたが、今年2010年7月、龍馬の死後、佐那さんが別の人と結婚していた事が書かれている明治三十六年(1903年)の新聞記事が発見されたのです。

それは、その年の8月~11月に毎日新聞(現在の毎日新聞とは別)に連載された記事で「千葉の名灸」と題し、先の針灸院のお話を中心に、佐那の親族への取材をもとにして書かれたもので、専門家の間でも、かなり信憑性が高いとの評価を受けています。

その記事によれば、明治六年(1873年)に横浜に移り住んだ佐那に、父・定吉が剣術師範役を務めていた鳥取藩の元藩士・山口菊次郎なる人物が求婚し、「龍馬さんの7回忌も終わったし・・・ま、いいか」と、佐那はOKしたのだとか・・・

結局、その菊次郎が浮気性だったため、10年ほどで破局を迎え、その後、千住に移り住み針灸院を営んだという事のようです。

どうなんでしょう?

ドラマのような純愛を想像していた方にとっては、龍馬を思いながら独身を貫いた佐那さんの美しく可憐な姿が、結婚していた事によって、少し崩れるのでしょうか?

なんせ、幼馴染の加尾さんも、寺田屋のお龍さんも、その後、結婚してますからねぇ。

でも、私的には、佐那さんが結婚していてくれて、少し、ホッとした気分です。

なんせ、龍馬は、佐那さんとの関係を宙ぶらりんにしたまま、お龍さんとよろしくやってたイメージがあって(私の勝手なイメージです)、逆に、佐那さんは、グッと堪え忍んで・・・などと想像していたので、たとえ最終的に離婚という結果になったとしても、一時は「結婚してみよう」という前向きになった時期があった・・・しかも、その新聞記事によれば、父の反対を押し切って結婚したようですので、何やら活き活きとした元気ハツラツの若い頃の佐那さんを取り戻してくれていたようで、安心した次第です。
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2010年10月14日 (木)

独眼竜の在るところ片倉小十郎あり~片倉景綱の死

 

元和元年(1615年)10月14日、伊達家の忠臣・片倉景綱が白石城にてこの世を去りました。

・・・・・・・・

独眼竜(どくがんりゅう)の在るところ小十郎の姿あり
と称された伊達政宗(だてまさむね)側近中の側近片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)・・・

とは言え、彼は伊達家譜代の家臣ではないどころか、もともと武人でもありませんでした。

Katakurakagetuna300astk 彼の父親は、出羽国(山形県)米沢成島(なるしま)八幡宮神官片倉式部景重(かげしげ)・・・ただ、遠いご先祖は、あの源頼朝(みなもとのよりとも)伊豆での挙兵(8月17日参照>>)に従った武将で、敵の代官を討ちとる功名を挙げ「猪武者」なるニックネームのあった人だそうですから、その大いなる血脈が、体の片隅に眠っていたのかも知れません。

そんな眠れる猪の隠れた才能を見出したのが、政宗の父・伊達輝宗(てるむね)の側近だった遠藤基信(もとのぶ)(10月21日参照>>)・・・実は、彼もまた、伊達家譜代の家臣ではなく、その才能を見込まれて登用され、その都度功績を上げながら、ついに、伊達家の宿老にまで上り詰めた叩き上げでした。

おそらくは、神社で見かけた神官姿の少年に、自らの少年時代と同じ匂いを感じたのかも知れません。

ここで大抜擢された景綱少年は、輝宗の小姓となり、やがて誕生した輝宗の嫡男=梵天丸(ぼんてんまる・後の政宗)(もり)となります。

この時から、政宗より10歳年上の景綱は、まさに兄貴分として、お互いの善きところも悪しきところもを知り尽くすまでの関係になっていった事でしょう。

ところが政宗5歳の時、天然痘にかかってしまい、命こそ取り留めたものの、右眼は失明し、病毒によって晴れあがった顔面は眼球が飛び出んばかりの形相となってしまいます。

以来、政宗は人前に出る事を嫌がるようになり、その性格も、引き籠りのネガティブな少年に・・・しかも、そんな見た目を嫌った母・(よし)は、長男の政宗を避け、次男の竺丸(じくまる・小次郎政道)ばかりを可愛がる始末・・・

自暴自棄に陥った政宗は、
「いっその事、この眼球を潰せ!」
と、側近たちに命じますが、もちろん、誰もが尻込み・・・そこで景綱
「ほな、俺が!」
と、小刀で・・・
「時ニ片倉小十郎景綱小刀ヲモッテ衝(つ)キ潰シ奉(たてまつ)ル」(性山公治家記録)

これ以降、政宗は、その暗い性格から脱し、前向きになっと言われていますが・・・
もちろん、名僧・虎哉宗乙(こさいそういつ)という超一流の家庭教師の導きもあったのでしょうが、この小刀の一件も本当ならば、その後の二人の信頼関係たるや、もはや計り知れない強さとなった事でしょう。

やがて天正十二年(1548年)、当主・輝宗は、義姫をはじめとする「後継者に竺丸推し」の面々を押さえ込んで、政宗に家督を譲ります。

そして、この時、輝宗は景綱に「政宗を頼む」と一言・・・
以来、景綱は、その生涯を賭けて、先代・輝宗の期待に違わぬ働きをする事になるのです。

不慮の出来事で、父・輝宗を死に追いやってしまった拉致事件(10月8日参照>>)・・・その弔い合戦となった人取橋(ひととりばし)の戦い(11月17日参照>>)では、未だ若さ丸出しのイケイケ作戦を展開し、一時は、政宗自身が鎧に矢を受け、銃弾5発を浴びせられるという窮地に立たされますが、この時、景綱は「我こそは政宗である!」と大将を装い、その盾となって政宗を守ったのだとか・・・

続く、摺上原(すりあげはら)の戦い(6月5日参照>>)でも、宿敵・芦名を相手に、景綱は第二陣の大将を務め、主君・政宗とともに激闘の戦場を駆け抜けています。

こうして、政宗は奥州66郡のうち、30余りを手中に収め、まさに奥州の覇王に手が届くか・・・という状況になりますが、ここで、政宗最大のピンチが訪れます。

そう、豊臣秀吉からの呼び出しです。

もともと、秀吉とよしみを通じていた芦名氏を滅ぼした事で、秀吉から「釈明に来てチョー」と呼びつけられていたのを引き延ばしていたうえに、ここに来て、秀吉が、北条小田原城を攻めるため、政宗を含む各地の武将に参陣を呼び掛けたのです。

小田原攻めを手伝うべきか否か・・・なんせ、その芦名の一件がありますから、ここで、のこのこ出かけていけば、その命無いかも知れません。

会議では、側近の一人・伊達成実(なりざね)が、
「小田原へ赴いて断罪されるくらいなら、ここで徹底抗戦といきましょう」
と主張・・・多くの家臣が、その意見に賛成しますが、政宗が最も信頼する景綱は、会議では黙ったまま・・・

その日の夜、政宗は、密かに景綱の屋敷を訪ね、その意見を聞こうとします。

すると景綱・・・なにやら、右手で追い払うようなしぐさ・・・
「ホンマ、夏のハエは困りますなぁ~
追い払ろでも、追い払ろても、また、群がって来ますわ~」

つまり、秀吉の大軍は、他とは別格・・・徹底抗戦で蹴散らしたところで、また、きりがないくらいにやって来て、最後までは防ぎきれないだろうと・・・

この一言が、政宗に小田原参陣を決意させます。

そして、決死の覚悟で小田原に入った政宗・・・しかし、倉に閉じこめたまま、いっこうに政宗に会おうとしない秀吉の心を動かしたのは、従軍していた千利休(せんのりきゅう)「茶道の手ほどきをお願いしたい」と、政宗が申し込んだ事・・・

「これから殺されるかも知れないのにお茶の手ほどきなどと・・・オモシロイ事を言う」
と、秀吉の心は一気に和らぎ、政宗は秀吉への謁見を許されます。

さらに、この謁見の時に、オカッパ頭の死に装束という秀吉のド肝を抜く作戦に出て、なんと、殺されるかも知れない覚悟で出向いたにも関わらず、芦名から奪った黒川城を没収されただけで許されたのです(6月5日参照>>)

もちろん、この時も景綱は、政宗と行動をともにしていて、一説には、あの千利休のくだりは、景綱のアドバイスによる物だったとか・・・。

この後、政宗は葛西大崎一揆の件でもハラハラドキドキの危機一髪を経験しますが、それも見事にスルー・・・(11月24日参照>>)

この頃の秀吉は、武将の重臣で有能な者がいれば大名に取り立てて、自らの陣営に引きこむという作戦を何度か試していますが、この景綱にも、5万石を呈示して引き抜きをかけていますから、若さゆえ無謀な行動に出てしまう政宗が、度々のピンチを切り抜けた影には、この景綱の適格なアドバイスがある事を、秀吉も、うすうすと感じていたのかも知れませんね。

もちろん、このヘッドハンティングの話は、秀吉を怒らせる事無く、それでいて、主君への忠誠をアピールしながら、ご丁寧にお断わりしています。

関ヶ原の後の慶長七年(1602年)・・・政宗は陸奥仙台藩主となりますが、この頃は、すでに一国一城令が出されていたにも関わらず、景綱は特例として白石城1万3000石を許され、白石城の城主となっています。

ひょっとして徳川家康さんも、その有能さに気付いてた???

そんな景綱も、大坂の陣の頃には、中風を患い、やむなく、息子の重綱(しげつな)を、自らの代わりとして参陣させています。

果たして、その重綱は、あの夏の陣にて後藤又兵衛基次を討ち取るという、父の若き日を彷彿させる手柄を立てますが、そんな息子を、景綱が直接手をとって褒めてやる事は叶ったのでしょうか?

その夏の陣から5カ月後の元和元年(1615年)10月14日景綱は59歳の生涯を閉じました。
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2010年10月13日 (水)

幕府・朝廷~ともに歴史が動いた10月13日「討幕の密勅」

 

慶応三年(1867年)10月13日、薩摩藩主の島津父子に「討幕の密勅」がくだされました。

・・・・・・・・・

慶応三年(1867年)10月13日・・・まさに歴史が動いた日です。

土佐藩の参政・後藤象二郎が、坂本龍馬とともに原案を考えた船中八策(せんちゅうはっさく)をもとにした建白書は、すでに老中を通じて、第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)の手に渡っているはずでした。

ただし、その建白書に書かれた内容を採用するか否かは慶喜次第・・・

この日の朝、二条城へと向かう象二郎のもとに
「建白が採用されへんかった時には、そのまま城中で死ぬ覚悟でいてはりますやろ?
もしも、先生
(象二郎の事)が、お城から帰って来はれへんかった時には、海援隊が、将軍の参内するタイミングを狙ろて、一発ブチかましたりますさかいに・・・その後は冥土で会いましょうや!」
という龍馬の手紙が送られて来た事は、去る6月22日のページでご紹介させていただきました(6月22日参照>>)

果たして慶喜は二条城の大広間にて、在京藩の重臣を前に、その胸の内を語ります。

これが、教科書にも登場するあの有名なシーン・・・慶喜の決意は、翌日の14日に大政奉還として正式発表され、歴史に残る事となるのです。

Taiseihoukan2zyouzyou2600 お馴染のシーン

一方、同じ13日の夜、薩摩藩の大久保利通は、岩倉具視(ともみ)の屋敷を訪れ、そこで、島津藩主・島津忠義(ただよし・茂久)とその父の久光(ひさみつ)宛ての書状を受けとります。

それが「討幕の密勅(みっちょく)と呼ばれる物です。

密勅とは、秘密の天皇の命令書の事・・・

さらに、あの禁門の変(7月19日参照>>)四境戦争(7月27日参照>>)のゴタゴタで、朝敵(国家の敵)となっていた長州藩主・毛利敬親(たかちか)元徳(もとのり・定広)父子は、この13日を以って官位復旧となり、翌日の14日に、薩摩と同じ内容の密勅が渡されます。

そこには、准大臣中山忠能(ただやす)正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)中御門経之(なかのみかどつねゆき)3名の公家の署名と、「詔」の文字で始まる文章・・・

「詔す。
源慶喜、累世の威を籍り、闔族
(こうぞく)の強を恃(たの)み、みだりに忠良を賊害し、しばしば王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯(た)めて懼(おそ)れず、万民を溝壑(こうがく・溝や谷)に擠(おとしい)れて顧(かえり)みず、罪悪の至る所、神州まさに傾覆せんとす。
(ちん、今、民の父母として、この賊にして討たずんば、何を以て、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讐(しんしゅう)に報いんや。
これ、朕の憂憤
(ゆうふん)の在る所、諒闇(りょうあん・天皇が喪に服す期間)を顧みざるは、万止むべからざる也。
汝、よろしく朕の心を体し、賊臣慶喜を殄戮
(てんりく)し、以て速やかに回天の偉勲を奏して、生霊を山獄の安きに措くべし。
此れ朕の願、敢
(あ)へて懈(おこた)ることなかれ。」

とにかく・・・
「極悪人の慶喜のせいで、民衆は苦しんで、この国が傾きかけてるんやから、国を治める者として、コイツをやっつけへんかったら、ご先祖様や国民に顔向けできひん」
のだそうです。

もちろん討つ対象は慶喜一人ではありません。

「賊臣慶喜を殄戮し…」
殄戮とは、「殺し尽くす」という事・・・仲間もろとも全滅させる事を意味しますから、上記の密勅の文章も、現代の話し言葉に約すと、今の私たちが思い描く天皇のお言葉とはほど遠い、恐ろしいほどの激しい内容だったわけです。

・・・とは言え、お察しの通り、これが本物かどうかは、あやしい部分もあります。

そもそも、密勅=秘密裏に発せられる物ではありますが、「詔す」で始まる、いわゆる(みことのり)形式の物は、天皇自身が発した言葉という事になりますので、本来は、正式な形式を踏まねばならないわけで・・・

まずは、原案の文章を見た天皇が内容を判断し、OKなら、自らの手でその日の日づけの1文字をサイン・・・さらに、この写しが摂政や関白に送られ、それを朝廷の会議に持って行って複数の役人で話し合った末、OKだったら再び天皇に奏上して、天皇自身が「可」という一文字を付け加えて、これで完成・・・

しかし、この密勅は、この正式な過程を経ていません。

先に書いた3名の公家の署名はあるものの、花押がありませんし、筆跡も本人の物ではありません。

まぁ、昔は、エライ人の書状は、秘書的な人が代筆する事がしばしばありましたから、筆跡はヨシとしても、花押がないのは納得がいきません。

花押とは、本人の名前の下に書く、独特のマークのような物で、いくら手紙を秘書に書いてもらったとしても、この花押だけは、本人が書くのが常識で、それこそが、本人の書状である証となる物でした。

しかも、先に書かせていただいたように、その渡され方もオカシイです。

いくら秘密の文書と言えど、個人の手紙ではない書状を一公家の私邸で渡すという事は、普通ではありえない事です。

しかも、この時の岩倉は、先の公武合体のゴタゴタで洛外追放の処分を受けたままの状態・・・彼が処分の解除を受けて朝廷に復帰するのは12月8日の事ですから・・・

これは・・・
慶喜の決意を受けて、急ぎましたね岩倉さん( ̄ー ̄)ニヤリ

この記事の表題として「幕府・朝廷~ともに歴史が動いた」とさせていただきましたが、これはともに動いたのではなく、幕府の動きを知った朝廷の討幕派が、その夜に動いたという事ですね。

朝廷も、未だ一枚岩ではありません。
親幕派もいれば討幕強行派もいたわけですが、このまま、幕府に大政を奉還されてしまっては、親幕派の公家が振り上げたこぶしを下ろしてしまい、強行派は討幕をする大義名分が無くなってしまう・・

なので、大政奉還を正式発表する前に、薩摩と長州に、「何が何でも幕府を倒せ!」という命令を下しておかねばならなかった・・・という事ですね。

・・・とは言え、この密勅・・・これらのおかしな部分は「密勅なのだから正式なルートをとらなかっただけ」という単純な物で、勅自体は本物の可能性もあるわけで、あくまで黒に近いグレーという事で、その真偽のほどはわかりません。

しかし、ご存じのように14日に正式発表された大政奉還は、翌・15日に勅許(ちょっきょ・天皇の許し)を得ます。

そりゃそうです。
すんなりと「政権をお返ししますけどいいですか?」
という許しを願い出ているのを
「ダメ!」
と天皇が言う事はありえませんから・・・

でも、そのまま許しちゃうと、朝廷の下で幕府はまだ存在する事になる・・・で、討幕派のとった行動が、先ほどの岩倉具視の処分解除・・・12月8日に朝廷に復帰した岩倉は、翌・12月9日、あの王政復古の大号令(12月9日参照>>)というクーデターを決行するのです。
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2010年10月10日 (日)

今川を支えた黒衣の宰相・太原雪斎

 

弘治元年(1555年)閏10月10日、今川家の軍師で臨済寺住持でもあった太原雪斎が60歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・

太原雪斎(たいげんせっさい・崇孚=そうふ)・・・言わずと知れた今川義元の参謀です。

臨済宗の僧侶からの転身という事で、異色の経歴とされますが、彼の父・庵原左衛門尉(いはらさえもんのじょう)は今川家の重臣だったので、もともと、今川家には縁のあった人です。

駿河(静岡県東部)善徳寺で修行し、その後、京都建仁寺でも修業を積んだ雪斎が、駿河の戦国大名・今川氏親(うじちか)から呼び出されたのは大永二年(1522年)の事でした。

それは、その氏親が正室との間にもうけた三男坊・芳菊丸の教育係として・・・未だ万全な教育機関がなかった当時は、武将の子弟の教育を寺院に任せる事も少なく、まして芳菊丸には同じ正室から生まれた兄が二人もいるのですから、武芸より勉学に重きを置く事も当然かも知れません。

こうして、訪れた二人の出会い・・・この時、雪斎は27歳、芳菊丸は8歳でした。

雪斎は芳菊丸を連れて、何度か京都を訪れ、妙心寺や建仁寺で、ともに修業に励みました。

やがて雪斎に導かれた芳菊丸は、梅岳承芳(ばいがくしょうほう)と称し、何事も無ければ、このまま立派な僧としての一生を歩んでいたのかも知れません。

しかし、天正五年(1536年)・・・人生の転機はいきなり訪れます。

10年前に亡くなった父・氏親の後を継いで、今川家の当主となっていた兄・氏輝(うじてる)急死・・・しかも、その弟の彦五郎も、同じ日に急死します。

兄弟二人が同じ日に・・・という不可解極まりない死であるがゆえに、昔から毒殺説や自殺説など、様々に推測されてはきましたが、未だに、記録として残るのは、「死んだ」という事実のみで、その死因についてはわかっていません。

とにかく、三男だった梅岳承芳にとって、二人の兄が同時に亡くなった事になります。

しかも、兄・氏輝の死の直後、当時、照光院(しょうこういん)の住職をしていた玄広恵探(げんこうえんたん)「我こそは今川の後継者!」と名乗りを挙げたのです。

彼は、梅岳承芳の父・氏親の側室の子・・・つまり異母兄という事になります。

この時、氏親の正室だった未亡人・寿桂尼(じゅけいに)は、未だ健在ですから、もちろん「我が子に後を継がせたい!」とばかり動きます(3月14日参照>>)

こうして勃発したのが花倉の乱(6月10日参照>>)と呼ばれる今川家の後継者争いですが、ここで、今川の家臣のほとんどを味方に引き入れて敵を孤立させ、見事な勝利に導いたのが、他ならぬ雪斎だったと言われていて、この時のあまりの手際の良さに、今川一門や家臣団は、皆、彼の事を尊敬するようになったのだとか・・・

Imagawyosimoto600a こうして、乱に勝利して今川の家督を継ぐ事になった梅岳承芳・18歳・・・この時から、今川義元(よしもと)と名乗ります。

早速、義元は居館である今川館の近くに臨済寺(りんざいじ)を創建し、雪斎を住職に据え、自らの補佐役として、日々、館へ通わせ、政治面、軍事面、外交面など・・・この先、あらゆる方面で雪斎のアドバイスを仰ぐ事になるのです。

そんな雪斎の強みは、なんと言っても僧という立場・・・普通、A国の要人が敵対するB国の赴けば、殺されてしまう事が多いですが、出家した人は俗世界から「無縁の人」とされ、命の安全が保障されていたのが当時の価値観・・・。

雪斎は、それをフルに利用して自由に敵国との間を行き来して外交交渉を行ったのです。

交戦状態にある甲斐(山梨県)に赴いて、武田信虎の息子(後の信玄)に京都の公家で清華七家の一つである三条家の姫をあっせんして接近し、逆に、信虎の娘(後の定恵院)を義元の正室に迎えて両家を結びつけたりしました。

後に「甲相駿(きうそうすん)三国同盟」(3月3日参照>>)と呼ばれる義元と武田信玄と北条氏康の3者の同盟が実現するのも、各領国を行き来して、宗教的人脈をフル活用した雪斎の尽力に寄るところが大きいと言われています。

しかし、一方では、法衣の上に鎧をまとい、自らが戦場に出て奮戦する人でもありました。

普通、僧が戦場に赴く時は、軍師としてブレーンとして従軍するというのが一般的でしたが、雪斎は、自らが実質的な司令官として参戦し、最前線で戦うのです。

織田信虎の息子・織田信広三河安祥城(愛知県安城市)を攻めた時にも、今川方の大将として奮戦して、見事、信広を生け捕りにしたかと思うと、今度は、逆に僧としての利点をフル活用して織田家との交渉を重ね、以前、織田方に拉致されていた松平家のお坊ちゃん=竹千代(後の徳川家康)(8月2日参照>>)との前代未聞の人質交換を成功させています(11月6日参照>>)

しかし、このあまりに優れた才能で「神のごとき智謀」と称された参謀の存在こそが、義元の不幸を招いてしまったという見方もあります。

たとえば、
『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)では、あの武田の軍師・山本勘助の言葉として・・・
「今川家の事…悉皆坊主(しつかいぼうず・雪斎の事)なくてはならぬ家」
と、書き残しています。

つまり、何もかもを雪斎の指示をあおぐ事で決断して来た義元や今川の家臣たちには、危機管理能力が育たなかったのではないのか?という事です。

ご存じのように、永禄三年(1560年)、義元は、あの織田信長の奇襲によって、桶狭間にて命を落とす(5月19日参照>>)事になりますが、それは、この弘治元年(1555年)閏10月10日雪斎が病死してから、わずか5年目の事でした。

やはり、雪斎の存在がなかった事で、義元は見誤った・・・という事なのでしょうか?

ちなみに、2007年の大河ドラマ「風林火山」では、伊武雅刀さん演じる雪斎の最期のシーンが、未だ人質時代の家康少年が怪しい雰囲気で運んで来たお酒を飲んだ後に、野卒中を連想させる高いびきをかいて亡くなるという、毒殺とも、お酒の飲みすぎによる病死ともとれるような描き方でしたが、雪斎は高僧でもありますので、たぶんお酒は飲んでいなかっただろうし、「飲んでいた」とする史料もなかったように思います。

また、家康が人質生活を送っていたのは、今のところ、三河吉田(愛知県豊橋市)とする説が有力で、そうなると、この当時、義元や雪斎のそばにはいなかった可能性か高いと思われているようです。
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2010年10月 8日 (金)

維新から44年…ようやく実現した対等の日本

 

明治四年(1871年)10月8日、明治政府が通商条約改正予備交渉の為に岩倉具視らを使節として欧米に派遣することを決定しました。

・・・・・・・・・

この日、派遣が決定し、実際には、約1カ月後の11月12日に横浜港を出港し、約2年間に渡ってアメリカやヨーロッパ諸国を巡る事になる岩倉使節団・・・

政界のトップや留学生を含む、総勢107名の大移動です。

彼らに課せられた使命は・・・

  1. 条約を結んでいる各国を訪問し、元首に国書を提出する事
  2. 欧米諸国の現状の調査
  3. 幕末に結ばれた不平等な条約を改正する準備

この中で、日本が本当にやりたいのは3番の条約改正ですが、そのためには、条約を結んでいる相手国との友好を深める必要があり、交渉相手の現状も知る必要があるわけで、3番を実現するためには、1番と2番を先にやっとかなきゃならないわけです。

結果的に3番に関してはまったく進展がなく、帰国後には「金を捨てた」との非難を浴びる使節団ですが、この時同行して西洋を学んだ留学生の多くが、帰国後には政治・経済・文化・教育などの分野に大いに貢献する事を考えれば、丸々捨てたとは言い難いですし、3番のような重要事項が一朝一夕にかたずくはずもないのです。

・・・で、結局、この条約改正については、今回の岩倉具視を発端に→寺島宗則→井上馨→大隈重信→青木周蔵と続き、陸奥宗光と小村寿太郎の二人によってやっと完成形となるのですが、その流れとは、いったいどんなものだったんでしょうか?

・‥…━━━☆・

そもそもは、幕末のペリー来航でアタフタする中、相手の言いなりに結んでしまった条約・・・これが、幕府が倒れた維新後にも引き継がれ、明治政府の悩みの種となります。

一刻も早く、条約を改正するためには、立憲君主制を確立する事・・・一人前の国家として認められ、国際社会で相手してもらえるような国にならねばなりません。

そのための憲法であり、国会開設だったのです。

少し前のマリア・ルーズ号事件(9月13日参照>>)でも、チョコッと出てきましたが、その改正したい点は次の2点・・・
1、関税自主権の取得
2、領事裁判権制度の撤廃

ちょっと難しい言い回しですが、要するに
「関税を自由に決められる権利をちょうだい」
て事と
「治外法権(外国人には日本の法律が適用されない)を廃止したいわ」
って事です。

そして、まずは、今回の岩倉全権大使の失敗を受けて、外務卿・寺島宗則(てらじまむねのり)税権回復に乗り出します。

明治十一年(1878年)には、アメリカの同意に成功して日米関税改定約書の調印にこぎつけますが、イギリスやドイツの反対によって無効に・・・そのまま、この話は頓挫します。

次に、外務卿・井上馨(かおる)が交渉を開始します。

彼の出した条件は・・・
「2年以内には、外国人に内地を解放して、自由に、営業活動や旅行、居住を認める(当時は外国人居住区という住む場所が決められていました)し、外国人の判事も任命するから、その代わりに領事裁判権制度を廃止して、輸入関税も引き上げてチョーダイ」
というものでした。

さらに、その条件を呑んでもらおうと、外国人へのご機嫌取りにも走ります。

文明開化の名のもとに、様々な物を欧米化するのです。

その象徴とも言えるのが、あの鹿鳴館(ろくめいかん)(11月28日参照>>)・・・「ここはヨーロッパか?」と見紛うような外観の洋館を建て、政府高官が外国人の紳士・淑女を招いて、毎夜々々大舞踏会を開催・・・

Rokumeikan1
鹿鳴館の舞踏会

しかし、「お金を湯水のごとく消費するワリには、低級な欧米主義」国内では不評・・・さらにフランス人法律顧問のアソナードにも、その出した条件そのものを反対され交渉は無期延期となり、井上も辞職に追い込まれます。

そのあとを受けたのが、次に外務大臣になった大隈重信(おおくましげのぶ)・・・

彼は、なんとかアメリカとドイツとロシアとの間で関税についての改正条約・調印に成功しますが、外国人判事の任用を認める条約をメキシコと交わしていた事が、ロンドンの新聞にスクープされ、国内で大騒動となり失脚します。

次に外務大臣になった青木周蔵(しゅうぞう)は、イギリスとの交渉を再開した矢先に、訪日中のロシア皇太子が襲撃される、あの大津事件(5月11日参照>>)が起きて辞任・・・交渉はそのままストップとなります。

ようやく明治三十五年(1902年)、外務大臣・陸奥宗光(むつむねみつ)によって、日英通商航海条約を締結する事ができ(8月24日参照>>)領事裁判権制度の撤廃に成功・・・

さらに、ここらあたりから、日清・日露戦争の勝利(9月6日参照>>)による日本の国際的評価の高まりを受け、明治四十四年(1911年)、外務大臣・小村寿太郎(こむらじゅたろう)によって関税自主権の獲得に成功するのです。

岩倉使節団の派遣から、ちょうど40年・・・長い長い道のりでした。
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2010年10月 7日 (木)

北条に仕えた謎の名軍師・中山修理介

 

天文七年(1538年)10月7日は、室町将軍の支族である小弓公方足利義明安房の戦国大名・里見義堯が、相模の戦国大名・北条氏綱と国府台で戦った『第一次・国府台合戦』があった日です。

・・・・・・・・・・

公方(くぼう)とは・・・
もともと関東の武士でありながら、京都で幕府を開いた足利尊氏が地元の関東を治めるべく派遣した尊氏の次男・足利基氏(もとうじ)に始まり(9月19日参照>>)、代々その子孫が受け継ぐもの・・・

Asikagakuboukeizu3 足利将軍家&公方の系図
(クリックで大きくなります)

尊氏の長男・足利義詮(よしあきら)の血筋が代々の将軍なので、その親戚という事になりますが、第4代公方の足利持氏(もちうじ)の時に、関東を独立国家のように支配した事から、第6代将軍・足利義教(よしのり)によって滅ぼされてしまいます。

しかし、その持氏の遺児・足利成氏(しげうじ)が、下総古河(こが・茨城県古河市)に拠点を置いて古河公方を名乗り、公方奪回を目指して各地で反乱を起こしました。

この古河公方3代目の後継者争いで、兄と対立して下総小弓(おゆみ・千葉県中央区)に拠点を置いた事から小弓公方を名乗ったのが足利義明(よしあき)で、当時、安房(あわ・千葉県南部)一帯に勢力を持つ里見義堯(さとみよしたか)の協力を得て、古河公方とも同盟を結んだ北条氏綱国府台(こうのだい・千葉県市川市)で戦う事になります。

これが第一次・国府台合戦なのですが、その戦いぶりはすでに2007年の10月7日に書かせていただいている【第一次・国府台合戦~小弓公方の最期】>>でご覧いただくとして・・・

本日は、結果的には、その得た敵首の数・3000余りという北条側の大勝利となったこの戦いで、首実検をしたという北条氏の軍師中山修理介(なかやましゅりのすけ)について・・・

・‥…━━━☆

・・・とは言え、この方、生年も没年もわからない謎の人です。

そりぁ、北条の名軍師と聞けば、ぜひともその活躍ぶりを知りたいと心躍るものの、巷にあまたある書籍にも、ほとんど登場しない・・・なんせ、歴史好きの間では人気の戦国時代ですが、それは武田信玄や上杉謙信、さらに、織田信長らの三英傑が活躍する後半部分で、このあたりの事が書かれている物には、なかなかお目にかかれません。

専門書などでは、くわしい物もあるのかも知れませんが、素人の私には、探すのさえひと苦労・・・現地におもむけば何かしらのヒントは得られるでしょうが、関西在住の私には、遠い国府台・・・

「最後の手段!」とネットをググれば、「中山修理介」で97万件ヒットするも、ほとんどが「中山道が古くなったので修理する」だとかの話で、修理介さんご本人の事が書かれているのは、わずかに1件で、しかも、たった1行・・・そう、この首実検をした事しか書かれていない始末です。

しかし『北条五代記』では、この修理介について
「数度の合戦に武略をもって敵を亡し軍法兵義を知る故実の者、兼ねて武士司(ぶしつかさ)にふらせる」
と紹介しています。

この「ふらせる」というのは「補らせる(おぎなわせる)という意味と思われ、つまりは、「軍法兵義を知る=軍配者」「武士司=旗本軍奉行」兼ねていたという事になります。

通常はありえません・・・合戦の場において、この二つは、それぞれ別の軍師が行う別の職務であるはずなのです。

・・・と、ここで、少し横道にそれますが、いわゆる「軍師」と呼ばれる人たちとは、どんな仕事をする人たちなのか???というお話を・・・

軍師と聞いてすぐに思い浮かぶのは、ドラマなどで描かれる、合戦の作戦などを練るカッコイイ人・・・もちろん、それも軍師ですが、それ以外にも、軍師を兼ねている武将もいれば、合戦の日どりを決める占い師的な仕事も軍師の仕事なのです。

  • 陰陽師(おんみょうじ)
    平安時代の安倍晴明(9月26日参照>>)が有名ですが、戦国時代の陰陽師も、いわゆる陰陽道に長けた占い師の事で、合戦に良い日を決めたり、必勝祈願の祈祷をやったりします。
  • 修験者(しゅげんじゃ)
    あの役小角(えんのおづね)(5月24日参照>>)を祖とする密教系の修業をする人で、陰陽師と同様に祈祷を行うほか、そのフットワークの軽さを生かして、敵方の情報収集をするスパイ的な役割もしていました。
  • 軍配者(ぐんばいしゃ・軍配師)
    陰陽師や修験者の観点から風水的に戦略を考える事もあれば、その日の天候や風向きによる気象予報士的な戦略も、さらに兵法を熟知した人物がその知識を駆使して戦略を練る事もあり「軍配兵法家」とも称されます・・・武田信玄に仕えた判兵庫(はんのひょうご)のように、陰陽師から軍配者的軍師となる人もいました。
  • 傅役(もりやく)
    いわゆる子供の養育係ですが、身の回りの世話をするのは女性ですから、男性の傅役の場合は、養育というよりは、目指す指針を示したり、マネージャーや秘書的な役回りが多く、その子供が成長してもそばにつき、補佐役をこなす事もあります。
  • 旗本軍奉行(はたもといくさぶぎょう)
    軍勢の召集が主な仕事ですが、時には大将に代わって旗本隊の指揮を行う事もありました。
  • 与力(よりき)
    有力な武士などに加勢・付属する武士の事で、中国地方を攻略中の羽柴(豊臣)秀吉についた竹中半兵衛(6月13日参照>>)黒田官兵衛(11月29日参照>>)がこれに当たります・・・現在の私たちが「軍師」と聞いて描くイメージに一番近いのかも知れません。
  • 小姓(こしょう)
    ご存じ、武将の近くに仕えて雑用などをこなす少年で、夜のお相手をしたなんて話もありますが、彼らは、言わば幹部候補生なわけで、織田信長に仕えた前田利家のように、その実力により、戦略的アドバイスも可能な役どころです。
  • 評定衆(ひょうじょうしゅう)
    戦国大名の持つ最高意思決定機関の事で、つまりは軍議に参加するメンバーの事です・・・ドラマなどでは、よく、部外者とおぼしき後ろの方から意見を言って採用されて大出世なんて事になりますが、そんな幸運は、たぶんないです(゚ー゚;北条氏には20人くらいいたと記録にありますが、越前の朝倉氏では6人だったと言いますから、下っ端はなかなか軍議には参加させてもらえなかったでしょうね。

・・・と、こうしてみると、軍配者と旗本軍奉行・・・兼ねそなえる事もできるにはできますが、本来は、別々の仕事である事がわかります。

『北条五代記』の修理に関する部分については、専門家でも「おそらく事実であろう」とおっしゃる箇所でもありますから、これが事実だとすれば、修理介という人は「数度の合戦に武略をもって敵を亡し」た事によって、両方を兼ねる役どころとなった・・・

つまり、ものすごく戦略に長けていて、すばらしい功績を残した事によって、他に例を見ない二つの役を同時にこなしたという事になります。

そんな話を聞くと、ますますどんな人で、どんな戦略をたてたのか知りたくなるんですけど・・・

小耳に挟んだ情報によれば、八王子城の攻防戦(6月23日参照>>)で討死した北条家の重臣・中山家範(いえのり)と、その息子で、徳川家康・秀忠親子に仕えて、関ヶ原では上田城攻防戦(9月2日参照>>)に参加し、大坂の陣にも参戦した中山照守(てるもり)なる父子が、ひょっとしたら、この修理介さんの子孫かも知れない・・・という事で、そのへんから探ってみれば、何かつかめるかも知れません。

いつの事になるやらわかりませんが、何とかつかんでみたいと思います・・・無期限の長~いスパンで、今後に期待してくださいませ~
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2010年10月 6日 (水)

天狗党最後の戦い~水戸藩騒乱・松山戦争

 

明治元年(1868年)10月6日、維新の嵐の中、水戸藩を追われた旧諸生党と、それを追い詰める旧天狗党の戦い=松山戦争がありました。

・・・・・・・・

尊王攘夷を掲げる水戸学の権威・藤田東湖(とうこ)の息子・藤田小四郎が、元治元年(1864年)3月に筑波で立ち上げた天狗党・・・

途中から武田耕雲斎(こううんさい)総大将に迎えながらも、わずか1年に満たないその活動で、維新のさきがけとなって流星のごとく散っていった彼らのお話は、下記リンクからご覧いただくとして、今回は、彼らが散って後…その後のお話です。

Tengutourootwcc
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

・‥…━━━☆

未だ早すぎた尊王攘夷に、ただ騒動を治めるだけの幕府と水戸藩を前に、天狗党:818名のうち死罪=352名を含めた、合計817名が刑に服す(無罪となった1名は女性)という悲惨な結末で、この天狗党の騒乱は幕を閉じた形になりましたが・・・当然、話はここで終わりません。

上記の彼らの処刑のページの末尾にも書かせていただきましたが、この天狗党の処刑から約1年後、あの薩長同盟が交わされ(1月21日参照>>)その半年後には、天狗党の彼らと同じ尊王派の長州(山口県)第2次長州征伐に勝利し(7月27日参照>>)さらに、その翌年の10月には、第15代将軍となった徳川慶喜(よしのぶ)大政奉還する(10月14日参照>>)と、世の中がめまぐるしく変わっていきます。

その間の水戸藩と言えば、天狗党が処刑された事で、藩内の尊王攘夷派は壊滅状態となり、彼らに勝利した諸生党(しょせいとう)市川三左衛門(いちかわさんざえもん)らをはじめとする佐幕派(幕府重視)がはばをきかす事になります。

彼ら佐幕派が前代未聞の大幅加増で、軒並み家禄をupされる中、敗戦の首謀者となった武田耕雲斎の家では、3歳の幼児まで虐殺されるという悲惨さでした。

しかし、上記の通り、世の中が変わります。

動きがあるのは慶応四年(明治元年・1868年)が明けて間もなく・・・そう、あの鳥羽伏見の戦いです(1月3日参照>>)

ここで、幕府軍の敗北を知り、わずかの側近だけを連れて江戸城へと帰ってしまった将軍・慶喜(1月6日参照>>)・・・今を以て賛否両論渦巻く敵前逃亡ですが、この、主君の逃亡でおいてけぼりとなってしまったのが、慶喜に従って京都の本國寺(ほんこくじ)に駐屯していた水戸藩の守衛隊:223名・・・

実は、彼らは、天狗党に属してこそいなかったものの、皆、心に尊王の気持ちを持っていて、そのために少なからずの処罰を受けて家禄も大幅カットされ、佐幕派が好き勝手に仕切る水戸藩の現況に不満を持っていた集団・・・だからこそ、遠く離れた最前線に配置されていたのかも知れませんが・・・

そんな彼ら、困窮を極める実家のためにも、ただでは帰れません。

その場所が京都だった事が幸いしました・・・朝廷から「除奸掃除 反正実行」勅書(ちょくしょ・天皇の書状)を賜り、「藩政をただす!」という大義名分を背負っての帰国となったのです。

ご存じのように、この間に官軍となった薩長軍も東へと進軍していますから、もう、彼ら本國寺隊の勢いは最高潮となり、江戸城無血開城より1ヶ月早い3月には水戸城を奪還します。

旧諸生党&佐幕派の市川ら500余名は、そのまま北へと逃亡し、長岡新潟で展開されていた北越戊辰戦争(5月13日参照>>)へと参加しますが、やがて、その長岡藩も倒れ(7月29日参照>>)残った会津へと向かい、ここでの籠城戦に参加・・・しかし、彼ら=旧諸生党の生き残りが会津の籠城戦に加わったという話はあるものの、いざ、開城(9月22日参照>>)された時には、市川らの姿はそこにはなかったようです。

一方、この間、市川らが去った水戸には、5月になって、耕雲斎の孫・武田金次郎をはじめとする遠島刑を受けた人々が続々と帰還してきます。

金次郎は、先の天狗党当時、騒乱に参加していたものの、当時は17歳・・・未だ幼かったために死罪をまぬがれ、遠島の処分を受けた137名の中の一人だったわけですが、彼をはじめとする生き残り組が、この時代の変化によって、次々と罪を許されで戻って来たのです。

金次郎の帰還などは、馬上姿も凛凛しく華やかに、まるで、勝利の凱旋帰国のようだっと言いますが、そんな彼らも、この先、ヒーローとは呼べない行動に出てしまいます。

そう、復讐です。

またたく間に旧天狗党として集団を形成した彼らは、諸生党に縁のあった人々の屋敷を襲撃しては殺戮をくりかえしたのです。

これは、後に「明治は元治よりも残虐だ」と称されるほどだったと言います。
(元治は天狗党が活動した1年の事です)

気持ちはわからないでもありませんが、もはや張本人たちは、水戸を脱出してしまっているのですから、残っている人は、おそらくは、さほど関わってもいない人か、内部事情もわからない縁者でしょうから、一般市民に刃を向ける事なく美しく散った祖父・耕雲斎の名を汚す行為以外の何物でもないような気がします。

そんな故郷の噂を耳にしたのでしょうか?・・・市川ら旧諸生党と戊辰戦争で戦った幕府軍の生き残りを含めた総勢500名が水戸に舞い戻って来て、9月28日には藩校の弘道館(こうどうかん)を占拠し、10月1日から2日にかけて水戸城奪回を目指して激しく戦いますが、目的は果たせずに敗走・・・。

弘道館を捨てて千葉方面に逃走する彼らでしたが、周囲の藩では討伐軍が編成され、もはや朝敵(国家の敵)となった彼らには潜伏場所もありませんでした。

かくして明治元年(1868年)10月6日、今では水戸藩軍となった旧天狗党は、松山村(千葉県匝瑳市)で彼らに追い付き、ここで総攻撃を仕掛けたのです。

松山戦争・・・あるいは八日市場の戦いと言われるこの戦闘は約2時間ほどで終結し、ここに諸生党は壊滅・・・現場から逃走した市川も、翌・明治二年の2月に捕えられ、2ヶ月後の4月3日水戸で生きさらしのうえ、逆さ磔の刑となりました。

これにて、水戸藩の戊辰戦争はようやく終わりを迎えた事になります。

それにしても・・・
幕末と呼ばれたあの頃、時を同じくして幕政に参加し、藩政を改革して尊王攘夷を主張した名君・・・・
水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)
薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)・・・

9歳違いの二人の藩主は、ともに将軍継承問題で敗れ、夢半ばにしてこの世を去り、その後を受け継いだ後輩たち・・・

八月十八日の政変(8月18日参照>>)後、いち早く尊王攘夷を掲げて蜂起したのは、水戸藩であったにも関わらず、少しばかりのボタンのかけ違いによる藩内党争の結果、多くの優秀な人材を失い、新政府に参入できなかった水戸藩・・・かたや新しい時代をけん引した薩摩藩

これまでの天狗党関連のペーゾでは、その名の通り天狗党を中心に書かせていただいているので、一連の流れでは憎たらしい限りの諸生党=市川三左衛門さんですが、最後の最後、2月に潜伏先で捕縛された時、彼は、フランス語や数学の勉強をしていて、「この先、フランスに渡って先進技術を学びたい」という夢を語っていたとか・・・

彼もまた、幕末の動乱の中、日本の先行きを真剣に考えていた人物の一人・・・ただ、運命の歯車が違っていただけなのだと思えてなりません。
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2010年10月 5日 (火)

盛岡の基礎を築いた中興の祖・南部信直

 

慶長四年(1599年)10月5日、陸奥・南部氏の中興の祖と言われる南部信直が54歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・

南部氏は、甲斐(山梨県)に勢力を誇った武田氏の一族で、鎌倉時代の当主・光行(みつゆき)の代に、陸奥(むつ・青森県)へと移住しました。

戦国時代末期の当主である安信(やすのぶ)晴政(はるまさ)父子の時代に、第15代室町幕府将軍となった足利義昭(よしあき)織田信長に接近して中央との太いパイプを持つようになり、同時に、岩手鹿角(かづの)津軽などへ領地を拡大し、東北に一大勢力を誇る事になります。

しかし、こうして大きな大名になって来ると、いつもの悩みの種となるのが後継者の問題・・・第24代当主となった晴政には、後を継ぐべき男子がいなかったのです。

そこで、父・安信の弟(晴政自身の弟の説もあり)で、当時の南部一族で津軽地方の内政担当をしていた石川高信の息子を娘の養子として迎える事になりました。

Nanbunobunao600ast この人が南部信直(なんぶのぶなお)です。

ところが、元亀元年(1570年)、信直・25歳の時、晴政に実子が誕生してしまうのです。

こうなると、実の子に後を継がせたくなるのが人の常・・・もちろん、信直も、すでに大人なので、その事は、雰囲気でわかりますから、天正四年(1576年)に晴政の娘である奥さんが亡くなったのをきっかけに養嗣子の座を辞退し、もともと実父・高信の城であった田子城(青森県三戸郡)に引きこもってしまいます。

この直後に晴政は、晴れて実子を後継者とし、翌年には元服させて南部晴継(はるつぐ)と名乗らせました。

しかし、お察しの通り、信直の引きこもりは、ただの引きこもりじゃぁ~ありません。

だいたい、そんなもん
「本当の後継ぎが生まれちゃったので、代わってやってネ」
「ハイ、そうですか」
と、すんなり納得できるワケはありませんから・・・

・・・で、動きが出るのは、その晴政が亡くなった天正十年(1582年)・・・父の死を受けて、すんなりと第25代当主となった晴継でしたが、なんと、その父の葬式の帰りに暴漢に襲われ、そのまま命を落としてしまうのです。

享年、わずか13歳の若き当主でした。

もちろん、その後を継いで第26代当主となったのは信直・・・どっからどう見ても、もう、臭いまくりです。

一説には、先代の晴政の死さえ信直の仕業で、本当は、晴政・晴継父子を攻め滅ぼして、取って代わったという事ではないか?との話もありますが、実は、この一件、疑うべき存在は信直だけではないのです。

前年の天正九年(元亀二年=1571年説もあり)には、南部一族に従属していたはずの津軽為信(つがるためのぶ)が、信直の実父・高信を死に追いやって石川城を攻略し、実質、津軽地方を支配をしていた・・・つまり、津軽独立宣言をやったワケで(12月5日参照>>)、その次に南部氏の本拠地を奪い取ろうと考えていた可能性も無くはありません。

また、晴継の後継者には、信直以外にも、南部一族の中の九戸実親(くのへさねちか)の名前もあがっていたのです。

なんせ、この九戸氏は、南部一族の中でも最強の勢力を誇る九戸政実(くのへまさざね)の一族ですし、その弟である実親も、亡き晴政の娘婿となっていたのですから・・・後継者になる可能性なら、こちらにもある事になりますので、やはり、手を下したのが九戸の可能性もなきにしもあらず・・・

とは言え、北信愛(きたのぶちか)(8月17日参照>>)ら重臣の鶴の一声で、結局は信直が第26代当主という事に・・・

これ以降、九戸氏は、「我こそは正統な南部氏の後継!」として、南部氏への反乱を繰り返す事になります。

その最後で最大の反乱となったのが、以前書かせていただいた九戸の乱です。

天正十八年(1590年)、天下目前となっていた豊臣秀吉に近づいていた信直は、いち早く小田原征伐(3月29日参照>>)へと駆けつけ、秀吉の傘下にすべり込み・・・続く奥州仕置き(11月24日参照>>)にも積極的に参加し、豊臣方の浅野長政(秀吉の義弟)らとともに先鋒を務めて活躍します。

しかし、その奥州仕置きの中で、どうしても鎮圧できなかった九戸の乱を、秀吉配下の武将たちの力を借りて攻略したわけです(9月4日参照>>)

・・・とは言え、この小田原征伐では信直よりも先に、津軽の為信が参陣していまして、大いに喜んだ秀吉によって、為信は津軽3万石を安堵される・・・つまり、ここで、津軽は完全に独立しちゃった事になります。

この時からの南部氏と津軽氏の確執は江戸時代になっても続き、騒動が絶える事はなかったのですが、そのお話は、また、いつかさせていただく事として、とりあえずは、この津軽の代わりとも言うべき領地=和賀(わか)稗貫(ひえぬき)志和(しわ)の3郡を秀吉から与えられ、南部十郡と称された領内の平定が、この信直の時代に、ほぼ完了するのです。

その後の朝鮮出兵では、肥前(佐賀県)名護屋城に駐屯しながらも、京都の伏見城の建設にも携わるという大サービスぶりを発揮。

さらに、「もはや中央に背く気はござんせん」とばかりに、戦国の名残りとも言える自らの支城を次々と破却して、近世の本格的な大城郭=盛岡城の構築に着手するとともに、城下の整備にも力を注ぎます。

ただ、ご本人は、すでに病に冒されており、盛岡城の完成を見る事なく、慶長四年(1599年)10月5日出張先の福岡城(福岡県福岡市)で、その生涯を閉じましたが、その頃には、ちゃっかりと徳川家康派に転身していて、翌年の関ヶ原の戦いの時には、信直の後を継いだ嫡子・利直(としなお)徳川方として奮戦しました。

おかげで、江戸時代を通じて、南部20万石を守りぬいて、無事、明治維新を迎える南部藩・・・300年続く、南部藩の基礎を築いた人物として、南部信直は中興の祖と称されるのです。
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2010年10月 4日 (月)

女性たちの過酷な労働の上に…経済大国・日本

 

明治五年(1872年)10月4日、官営の富岡製糸場が操業を開始しました。

・・・・・・・・・

明治維新が成った日本にとって、富国強兵は政策の基本とも言うべき物でした。

経済を発達させてこそ軍事力も増強される・・・そして「世界に一人前の独立国家と認められたい」・・・まずは、これが新生・日本の目標でした。

当然ですが、国がお金持ちになるには、外国と交易して外貨を稼ぐ・・・当時の日本の輸出品で、利益が見込めそうな物は、お茶(生糸)でしたが、この頃の生糸の生産は、小さな器具による手作業です。

これでは大量生産する事は難しく、また、質の面でもヨーロッパの製品に比べて粗悪な物しかできません。

ちょうど時を同じくして、100年ちょっと前にイギリスで起こった産業革命の波が、日本にも押し寄せつつあった頃・・・これまでの手工業に代わって、大きな機械を導入した大規模な工場を建造して経済が大きく変化し、社会も生活も国家的レベルで変化する、あの産業革命です。

そこで、早速、明治政府はフランスから操糸機や蒸気機関を輸入し、もともと養蚕が盛んであった群馬県富岡に、日本初の器械製糸工場を設置したのです。

これが富岡製糸場・・・全国から集められた数百人の工女(工場で働く女性・女工とも)が働く、世界でも有数の大規模な工場で、明治五年(1872年)10月4日操業を開始したのです。

日本初となった富岡製糸場は、この後、全国に建設されていく製糸工場の見本となるべき存在で、そのノウハウを各地の工場へ伝授する役割も果たしました。

・・・とは言え、富岡製糸場の成功は、採算を度外視した国の経営なればこその成功で、本当の意味で、日本の産業革命に貢献したのは、この富岡製糸場を見本とした民間の製糸工場・・・そして、そこで働く女性の力に負う事が大きいのです。

このような工場で働く人のほとんどが女性だったのは、大きな機械を導入する事によって、その作業が男性中心の力仕事から女性でもできる軽作業・単純作業に変化し、むしろ男性よりも生産量が望めるようになったワリには、男性の賃金に比べて、女性の賃金が安かった事・・・。

しかし・・・
そう、ご想像通りです。

国の経営の富岡製糸場は、その待遇も良かったのですが、民間経営の工場となると、まず、優先されるのが利益・・・このような工場に集められた工女たちは劣悪な労働環境で働かされる事になるのです。

まずは、この頃の就職の形態が、今とはまったく違います。

今なら、たとえ不景気の就職難と言えど、一応、働く側の人自らが希望して、その会社の就職試験を受け、万が一、イヤになっても自由に退職する事ができますが、この頃はそうではありません。

工女として雇われた女性たちのほとんどは、地方の貧しい小作人や都市部の下層民の出身で、もちろん、本人の意思とは関係なく、父親などが勝手に決めてしまったケース・・・

甘い言葉に乗せられて、あるいは、ちゃんとした説明もなしに、親が工場主から前金を受け取り、娘たちを引き渡すというのが圧倒的で、言わば、身売りに近いような物だったのです。

ある紡績工場では、労働者の8割が女性で、しかも大半が未成年者、中には14歳以下が2割もいたというのですから、その平均年齢の幼さにはびっくりです。

24時間稼働している工場での労働時間は2交代制の12時間、さらに最盛期には、24時間まるまる働かされる事も・・・

それでいて賃金はわずか・・・当時イギリスの植民地だったインドより、日本の工女の賃金の方が安かったと言われています。

さらに、一日3食の食事は出るものの、メニューは毎日、麦飯と漬物とみそ汁だけ・・・たまに魚がついてると、それは肥料用のイワシだったり・・・

しかも、それを食べる時間はわずかに15分・・・昼休憩で携帯をチェックするなんて事も、上司の悪口を言い合う事もできません。

もちろん、寄宿舎の部屋は大部屋で、人数分で割れば、わずかに一人1畳ほどの空間・・・これではプライバシーもへったくれもありませんが、ほとんど一日中働いている彼女たちは、そこには寝るだけのために戻るようなものです。

当然、そんな環境なら逃げ出す工女も少なくないわけですが、工場側は、周囲に鉄条網を張り巡らし、門はしっかりと施錠され、見張りも厳しく、逃げ出そうとして捕まった者がいれば、見せしめのために他の工女の前で公開のリンチを行って、彼女たちに恐怖を植えつけたのです。

しかし、そんな彼女が工場から解放される時があります。

それは、病気になった時・・・

劣悪な環境で働く彼女たちには、頻繁に伝染病が流行するのですが、特に、結核にかかったとわかった時には、工場は何の保証もせずに、即、解雇、病気の工女を外にほっぽり出して終わりです。

昔、「ああ 野麦峠」という映画がありましたが、まさに、そんな感じ・・・

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製糸工場で働く工女たち

このような状況が少しばかり改善されるようになるのは、明治四十四年(1911年)の労働者保護法(工場法)の成立まで待たねばなりません。

この法律施行のきっかけとなったのは、明治三十五年(1902年)、埼玉県春岡村織物工場から逃げ出し、警察に保護された工女の証言「時事新報」が報道した事でした。

彼女は、劣悪な環境、過酷な労働に耐えかねて逃亡を図り、一度目は捕まったため大勢の前で全裸にされて縛られ、殴る蹴るの暴行を受けたのですが、その後、再び逃亡し、今度は、運良く保護された事で、出版社に現状を訴え、工場の悲惨な状態が発覚したのです。

この時の経営者やリンチの実行犯は捕まり、刑に服す事になりましたが、この出来事をきっかけに、新聞社や雑誌社が調査をしたところ、このような事が多くの工場で日常茶飯事的に行われている事がわかり、大きな社会問題となったのです。

このようなマスコミの動きに対して、ついに国が動いたのが、上記の労働者保護法というわけです。

  • 12歳以下の者の就労禁止 
  • 15歳未満の者の12時間以上の労働禁止
  • 15歳未満の夜10時以降の労働禁止
    などなど・・・

ただ、これには、多くの猶予や例外が盛り込まれているため、結局、なんだかんだの逃げ道があって、この法律ができたからと言って、実際に即、改善されたわけではないのですが、法律ができたという事は事実で、それだけでも一歩前進・・・この先、労働条件の改正に、少しずつではありますが、向かっていく事は間違いないのです。

寝る間も惜しんで働かされ、ただひたすら糸をつむぎ続けた名もなき彼女たち・・・悲しい現実ですが、目をそむけてはいけません。

彼女たちのおかげで、外貨を獲得した日本は、やがて強国へとのし上がり、戦争という「つまずき」を経験しながら、世界に誇れる経済大国になったのです。

歴史は、計算や読み書きのように、生きていく上で必要な物ではありません。

歴史を知らなくても、人は普通に生きていけます。

でも、身を犠牲にして事を成した先人たちがいたからこそ、今の日本がある・・・だから、歴史を知っておかねばならないのではないでしょうか。
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2010年10月 3日 (日)

松永久秀~男の意地の信貴山城の戦い

 

天正五年(1577年)10月3日、織田信長の嫡男・織田信忠が安土から着陣し、松永久秀の籠もる大和信貴山城を包囲・・・城下に放火しました。

・・・・・・・・・・

乱世の梟雄(きょうゆう)との異名を持つ松永久秀は、戦国ファンの間でも人気の武将で、このブログでも、そのご命日(10月10日参照>>)をはじめとしてイロイロと書かせていただいていますので、内容が重なる部分もあるかと思いますが、本日は、久秀の最後の戦いとなった信貴山城の戦いを中心に書かせていただきたいと思います。

・‥…━━━☆

もとは山城国西岡(京都市右京区)商人だったという松永久秀・・・やがて、当時、京都を制していた三好長慶(みよしながよし)(5月9日参照>>)右筆(秘書)として召しかかえられ、しばらくの使いっパシリを経験してから、永禄二年(1559年)には、大和(奈良県)攻略を任される(11月18日=【筒井城攻防戦】参照>>)までに成長します。

しかも、3か月という短期間でその制圧を成し遂げた久秀は、敵からも味方からも一目置かれる存在に・・・この時、信貴山城を居城とした久秀が、四層の高さを誇る日本初の天守閣を築いた事をご存じの方も多いはず・・・

やがて、身内の不幸や内紛に意気消沈の長慶が亡くなると、幼い後継者を後見する三好三人衆とともに、第13代室町幕府将軍・足利義輝を暗殺(5月19日参照>>)し、自らの意のままになる将軍を擁立して、もはや主家=三好家にとって代わる勢いで京都を制しました。

しかし、ここで・・・
つい先日、三好三人衆のページで書かせていただいたように、亡き義輝の弟・足利義昭(よしあき)を奉じての織田信長の上洛です(9月7日参照>>)

この時、信長に対抗した三好三人衆をよそに、久秀は、茶器好きの信長の心をくすぐる名品=作物(つくも・九十九)茄子の茶入れを献上し、あっさりと降伏して信長の傘下に入り、信長から大和支配の許可を得ます。

いや、降伏という言葉はふさわしくないかも知れません。

おそらくは、いつか信長を倒すチャンスを得るための一時的なポーズ・・・それこそ、商人の時代につちかった見事なパフォーマンスで、24歳も年下の信長にすり寄ったのでしょう。

なぜなら、この後、久秀は2度も信長に反旗をひるがえすのです。

最初は元亀四年(1573年)3月・・・信長と不仲になった義昭の呼びかけに応じて蜂起した、あの石山本願寺、さらに姉川の合戦で雌雄を決しながらも、未だ抵抗する越前(福井県)朝倉義景(よしかげ)北近江浅井長政(あざいながまさ)、復権を狙って近畿に舞い戻った三好三人衆などなど、まさに信長包囲網とも言うべき態勢ができあがった時に持ちあがった「武田信玄上洛?」のニュース!

大物の参戦をチャンスと見た久秀は、その義昭と同盟を結び、信長包囲網の一員となったのです。

とことが、どっこい!
信玄は途中から引き返してしまいます(12月22日参照>>)

そう、ご存じのように体調を崩し、そして翌・4月、そのまま帰らぬ人となってしまったのです。

一気にテンションだだ下がりの信長包囲網・・・さらに、7月には、将軍・義昭が京都から追放され(7月18日参照>>)、8月には浅井(8月6日参照>>)朝倉(8月20日参照>>)そろって倒されてしまいます。

万事休す!
「ヤバッ!次は俺やんけ!(・oノ)ノ」と感じた久秀・・・あのルイス・フロイス「この世の天国」と絶賛した久秀築城の美しい城=多門城を信長に差し出して、またしても降伏します(12月26日参照>>)

それからは一転して、織田勢の一翼として石山本願寺攻めに参加する久秀・・・しかし、天正四年(1576年)、またもや久秀の心ウズく展開に・・・

長島一向一揆を根絶やしにされ(9月29日参照>>)、信玄の後を継いだ武田勝頼長篠の戦い(5月21日参照>>)で敗れても、未だ、信長に抵抗を続けていた本家・石山本願寺が、その年の5月、亡き信玄に匹敵する大物=越後(新潟県)上杉謙信と和睦し、謙信が本願寺の味方についたのです(5月18日参照>>)

さらに7月には、やっとこさ重い腰をあげた西国の雄=毛利輝元の配下の村上水軍が大坂湾へ現れ、籠城する本願寺への物資の運び込みに成功します(7月13日参照>>)

しかも10月に入ると、いよいよ動き出した謙信が、能登・七尾城の攻略に取り掛かります(9月13日参照>>)

翌・天正五年(1577年)8月・・・「こうなったら、俺も行かな!!!」
本願寺攻めに参加していた久秀は、天王寺砦(5月3日参照>>)の守りを無断で放棄し、居城の信貴山城へと戻って立て籠もり、謙信の上洛を待つ事にしたのです。

またしても、信長に反旗をひるがえしたのです。

やがて9月に七尾城を落とした謙信は、すでに信長の領国となっていた越前へと迫ります(9月13日参照>>)

そのすぐ後の手取川での謙信・勝利(9月18日参照>>)の一報は、すでに68歳となっていた久秀にも「今度こそ!」という希望を抱かせた事でしょう。

逆に、久秀の謀反に驚いた信長は、堺の代官・松井友閑(ゆうかん)を使者として信貴山城に派遣して、
「どないしたん?なんか不満あるんやったら、ちゃんと聞くから言うてぇや!」
と、あの神をも恐れぬ信長とは思えない温情あふれる説得・・・

しかし久秀は、そんな話し合いも拒否・・・

ところが・・・です。
こんなに強気の久秀をよそに、頼みの謙信は、手取川で信長配下の柴田勝家を破ったにも関わらず、なぜか、その先へは進まず、越後へと戻ってしまうのです。

その理由は、このまま進めば、越後が雪に閉ざされる頃まで戦いが長引くと考えて撤退したとも、関東管領でもあった謙信が、関東における北条の動きを封じるために一旦戻ったとも言われますが、とにかく、信長にとっては、このうえない朗報だったわけです。

Sigisanzyounotatakaicc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

そこで、交渉を拒否られた信長は、配下の筒井順慶(じゅんけい)明智光秀細川藤孝(幽斎)信貴山城攻略へと向かわせます。

間もなく、信貴山城の東の位置にある法隆寺に陣取った順慶ら・・・10月1日、その法隆寺を進発した彼らは、まずは、信貴山城の支城である片岡城(奈良県北葛城郡上牧町)を攻め、ここを守っていた海老名友清森正友らを討ちとり、片岡城を落城させました。

そして、その2日後の天正五年(1577年)10月3日、信長の嫡男・織田信忠安土から着陣して信貴山城を包囲・・・さらに、そこへは、「もはや、謙信の進軍はない」と判断した信長の命によって、遠征していた北陸から引き揚げてきた羽柴(豊臣)秀吉佐久間信盛らの援軍も賭けつけました

しかし、ここに来ても、まだ温情あふれる信長さん・・・すぐには攻撃させません。

信長さんの意向を伝えに櫓の下につけた信盛が・・・
「君が持ってる平蜘蛛(ひらぐも)の茶釜は、信長公がお望みの名物やよって、出してくれたらウレシイねんけどなぁ」
と・・・

つまり、その茶釜を差し出せば、謀反を起こした久秀を、またもや「許す」という事です。

さぁ、どうする?久秀・・・またまた、傘下に入っちゃう?

ところが、この時の久秀・・・『川角太閤記』によれば、
「平蜘蛛の釜と我等の頸(くび)は、粉々に打ち壊すことにいたす!」
と宣言・・・その和解案を一蹴します。

かくして10月5日、信貴山城への総攻撃が開始されます。

しかし、さすがは、築城名人の久秀の城・・・その堅固な造りは、わずか8000の城兵にも関わらず、4万の大軍の攻め手を翻弄し、すぐに落とす事はできませんでした。

これにより、長期戦の様相を呈してきた信貴山城攻防戦・・・その均衡が破られるのは10月10日です。

この時、久秀の配下となっていた森好久(よしひさ)・・・実はこの人、もと筒井順慶の家臣だったのですが、以前、順慶が久秀と戦って敗れた時に浪人となり、その後、久秀の配下となっていた人物です。

10日早朝・・・この好久が、配下の200名の鉄砲隊とともに反乱を起こし、三の丸を焼き打ちにします・・・すでに順慶に通じていたんですね。

さすがの堅固な城も、内部からの崩壊には対処できず、またたく間に総崩れとなってしまいました。

「もはや、これまで・・・」
と覚悟を決めた久秀・・・

いつものように中風の発作を防ぐお灸を頭のてっぺんに据え、首を取られないよう自らの顔を焼き、信盛に言い放った通り、平蜘蛛の茶釜を叩き割って、壮絶な爆死を遂げたとか、あるいは切腹したとか焼死したとか・・・

まぁ、この茶釜の叩き割りに関しては、実は叩き割ったのはニセ物で、本物はこっそりと茶の湯仲間の柳生重厳(やぎゅうしげよし・宗厳の父)に送っていたという話が柳生家の史料にあるのはあるのですが、代々伝わるうちにいつしか失われて、ソノモノ自体が現在に伝わっていない以上、あくまで話だけ・・・

確かに、芸術的名品が失われるのは惜しいし、今もどこかに保管されていてほしい気持ちもありますが、やはり個人的には、その場で叩き割っていてほしい・・・

なんか、その方が久秀らしい気がします。

先に書かせていただいたように、信長が上洛した時に降伏した時も、おそらくは、久秀自身は「負け」とは認めていなかったはず・・・

あくまで、次回のチャンスをうかがうためのポーズ・・・

2度目に多門城の時もそう・・・

もちろん、この3度目の信貴山城の戦いだって、信長の言う通り、茶釜を差し出して降伏すれば、また助かったかも知れません。

しかし、久秀は、今度だけはポーズの降伏をしなかった・・・それは、やはり、これが自分の人生にとって最後のチャンスだと思っていたからでしょう。

男・久秀・68歳・・・
その最後の意地で、信長が欲しがっている茶釜とともに自らの命を絶ち、その望みを断ち切ってやる事で一矢報いたのかも知れません。
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2010年10月 1日 (金)

脱・仏教勢力?~光仁天皇&桓武天皇…父子2代の改革

 

宝亀元年(770年)10月1日、天智天皇の孫にあたる白壁王が第49代・光仁天皇として即位しました。

・・・・・・

あの壬申の乱(7月23日参照>>)で、兄・天智天皇の息子・大友皇子(弘文天皇)を倒して政権を勝ち取った第40代・天武天皇・・・

以来、約100年、9代に渡って天武天皇の遺志(2月25日参照>>)を継いだ天武系の天皇が続きます。

そして、この天武天皇が目指した律令国家は、大宝元年(701年)の大宝律令(8月3日参照>>)で実現され、和銅三年(710年)には平城京へ遷都(2月15日参照>>)・・・まさに♪あをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花の 薫(にお)うがごとくの大成長を遂げるわけですが、ここらあたりで天皇家を脅かす存在になって来るのが、あの藤原一族です。

ご存じのように、藤原氏の祖である藤原鎌足(かまたり)は、天智天皇の臣下・・・かの壬申の乱では負け組ですが、その逆境を乗り越え、知性と巧みな政治力で政界へと躍り出た鎌足の息子・藤原不比等(ふひと)は、さらに、橘三千代(県犬養三千代)という強い味方を得て、自分の孫を天皇に、そして、自分の娘をその皇后にする事に成功します(8月3日参照>>)

Tennouketofuziwarakekeizukouzin それが、第45代・聖武天皇光明皇后です。
(実際には、聖武天皇が即位した時点では、すでに不比等はこの世を去っていますが、4人の息子が、その遺志を引き継いでいました)

天武天皇が実践した天皇の周囲を皇族で固める政治体制は見事に崩れ、天皇の外戚(母方の実家)が実権を握るようになったのです。

こうなると、一旦握った実権は、なんとしても手放したくない物・・・しかし、聖武天皇と光明皇后との間に生まれた男の子が幼くして死亡する間に、聖武天皇と別のお妃の間に男の子が誕生し、「このままでは、その男の子に皇位を取られる」と感じた藤原氏は、まさかの奥の手先に生まれていた長女を天皇にするのです。

それが、第46代・孝謙天皇です。

これまでも女性天皇は何人かいましたが、皆、皇后(妃)経験者・・・つまり、すでに亡くなった天皇もしくは皇子=夫の代わりに、次の天皇にバトンタッチするまでの中継ぎだったわけですが、彼女は、初の女性皇太子となって即位した女帝なのです。

しかし、この孝謙天皇が、両親の死後、ヤラかしてくれます。

・・・と言っても、すべての責任を彼女になすりつけるのも、お気の毒・・・なんたって彼女は、うら若き乙女の頃から、将来、天皇になる事が決まってしまったわけですから、当然、結婚する事は許されないわけで、そうなると、もちろん子供も望めないのですから、いつものように、彼女の次に、その子供が皇位を継ぐという、順調な皇位継承は、100%ありえないわけで、彼女の次の天皇の座を巡って、何やら良からぬ思惑がうごめく事になるのも当然です。

まずは、未だ母の光明皇后が生きている頃から、その光明皇后と孝謙天皇の二人から寵愛された藤原仲麻呂(なかまろ)・・・

彼は、皇后の兄・・・つまり、不比等の息子の藤原4兄弟の一人・武智麻呂(むちまろ)の息子なので、孝謙天皇の従兄弟に当たります。

仲麻呂に対する孝謙天皇の愛が、本当に男と女の愛だったのか?
それとも、信頼のおける臣下への愛だったのかは、ご本人に聞くしかありませんが、ともかく、仲麻呂を寵愛する孝謙天皇は、彼の勧めるがまま、第47代・淳仁天皇に皇位を譲ります。

しかし、その後、母の死にショックを受けて、ふさぎ込んでいるところをやさしく看病してくれた僧・道鏡へとその寵愛が向いてしまうのです。

かくして道鏡と強力タッグを組んだ孝謙天皇は、政権奪回に乗り出し、仲麻呂を討ち、淳仁天皇を廃し、第48代・称徳天皇として返り咲きます。

さらに、あろう事か、今度は、その道鏡を天皇に・・・という前代未聞の展開に・・・

これまで皇族でもない人物が天皇になった例はなく、さすがに、これは実現しませんでしたが・・・と、この道鏡事件については、称徳天皇即位のページ(10月9日参照>>)で、さらにくわしく見ていただくとして、そのページにも書かせていただいたように、この事件も、単に、称徳天皇と道鏡、二人の先走り過ぎだけではかたずけられない周囲の思惑があるのです。

確かに、称徳天皇は道鏡を愛していただろうし、道鏡もちょっとは天皇になりたいという個人的な野望もあったのかも知れませんが、彼らのバックについていたのが、奈良という場所に君臨する仏教勢力・・・そして、それを抑えたいのが藤原氏

朝廷に匹敵・・・いやそれ以上の力をつけつつあった南都の仏教勢力が、仏教に帰依するあまり、高僧の道鏡に並々ならぬ信頼を置く称徳天皇の心を利用して、政界に君臨していた仲麻呂を排除させ、さらに天皇の座をも仏教勢力の支配下に置こうとした・・・それが、道鏡を天皇に・・・という事なのかも知れません。

とは言え、この時、道鏡を天皇にする事は叶わなかったものの、仏教の勢力はまだまだ健在・・・更なるチャンスを狙っていたかも知れませんが、その野望は称徳天皇の死とともに終焉を迎えるのです。

子供もいなければ、定めた後継者もいないまま亡くなった称徳天皇・・・ここを、巻き返しのチャンスと狙ったのが藤原氏です。

先ほど、書かせていただいた通り、失脚した仲麻呂は藤原4兄弟の長男・武智麻呂=南家の息子・・・残る3兄弟のうち四男・麻呂京家は後継者に恵まれず、すでに失脚していましたが、まだ、次男・房前(ふささき)北家、三男・宇合(うまかい)式家が残っています(子供はたくさん産んでおくもんだ(*゚▽゚)ノ)

そんな藤原氏の藤原永手(ながて・北家)藤原良継(よしつぐ)百川(ももかわ)兄弟(ともに式家)から白羽の矢が立てられたのが、天智天皇の孫白壁(しらかべ)・・・この方が、わずか2ヶ月間の皇太子を経て、宝亀元年(770年)10月1日に第49代光仁天皇として即位したのです。

やっと出てきました~長い前置き、お許しを・・・(;´д`)

しかし、長い前置きを書かねばならないほど、その即位は異例・・・なんたって、冒頭に書かせていただいた通り約100年ぶりの天智系の天皇・・・しかも、この時、光仁天皇は、すでに62歳という高齢ですから・・・

光仁天皇は、ここまで、後継者争いに巻き込まれないよう、酒びたりの生活を送りながら行方をくらましていたとも言われ、これまでのゴタゴタにはいっさい関与していない人物・・・おそらくは、かの仏教勢力への脅威によって、天武系だ天智系だなんて言ってられない、せっぱ詰まった状態だったのでしょう。

さらに、決め手となったのが、光仁天皇の奥さんが井上内親王という、かの聖武天皇の皇女だったからでしょう。

聖武天皇は不比等の孫ですから、そこに藤原氏の血脈が流れています。

早速、光仁天皇は、道鏡を下野国(栃木県)薬師寺別当に左遷し、元号を宝亀へと改め、井上皇后との間に生まれた他戸(おさべ)親王皇太子に立てます

しかしこれが気に入らないのが、良継&百川の兄弟・・・仏教勢力排除のため、とりあえずは、北家の永手の意見に同調したものの、母親が藤原氏ではない井上皇后の息子となると、藤原氏の血脈はクォーターとなり、あまり勢力は奮えないかも・・・

そこで、良継・百川が推したのが、光仁天皇の第1皇子=山部(やまべ)親王です。

なんせ、この山部親王には、良継の娘も百川の娘も嫁いでいますから、将来、山部親王が天皇となって、自分の娘がその皇子を産んだりなんかしたひにゃ、ウハウハもんですがな。

・・・と、おそらくは、すでに、光仁天皇の即位後まもなく、そのような話が山部親王に持ちかけられた事でしょう。

なんせ、山部親王はすでに37歳・・・母親の身分の低さゆえ、それこそ、他戸親王に何事かがない限り、皇位が巡ってくる可能性はありません。

そして、光仁天皇の即位から2年目の宝亀三年(772年)・・・天皇に呪いをかけたとして、井上皇后と他戸親王は、ともに皇后と皇太子の地位を廃されたのです。

もちろん、これが、山部親王を含む、良継・百川の陰謀という証拠はありません。

もしかしたら、本当に、井上皇后と他戸親王は、天皇に呪いをかけたのかも知れません。

しかし、光仁天皇の即位に尽力した、もう一人の藤原氏=永手が、この前年に亡くなっている事、また、この後、幽閉された井上皇后と他戸親王が、3年後に揃って亡くなる事など、あまりのタイミングの良さに、疑わざるをえないのが現状です。

かくして、身分は低いけど第1皇子の山部親王が、他戸親王の代わりに皇太子となり、光仁天皇が73歳で崩御した後、天皇として即位するのです。

この方が、第50代・桓武天皇・・・ご存じ、長きに渡って都が置かれた奈良を離れ、長岡京(11月11日参照>>)、そして平安京へと遷都する天皇です。

そうです。
桓武天皇が、藤原氏から託された、その使命は、「政界から南都の仏教勢力を排除する事・・・」

その証拠と言えるのが、寺院の移転です。

これまで、都が明日香であろうが、藤原京であろうが、平城京であろうが、その遷都のたびに、都へと移転していた寺院を、すべて奈良に置いたまま、桓武天皇は京都へと遷都したのです。

今で言えば、政界を牛耳っている官僚を、東京においてきぼりにして、総理大臣以下、政治家だけを引き連れて、新たな首都で新政権を運営するようなもんでしょうか?(脱官僚??)

まさに一大改革だったのですね~

もちろん、現在でもおわかりのように、京都にもたくさんの寺院がありますが、それらは、新たに許可を得て建てた、最澄空海に代表される新勢力の寺院ですよね(6月4日参照>>)

よく、「京都のお寺と奈良のお寺は、なんとなく雰囲気が違うね」というお話を聞きますが、そこには、もちろん、奈良時代と平安時代という文化の違いもありますが、なにより、もともとの仏教勢力の違いにあるのかも知れません。
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