男・佐々木高綱~意地とプライドのパフォーマンス
文治元年(1185年)10月24日、鎌倉の勝長寿院にて落慶法要が行われ、佐々木高綱の甲冑姿が話題となりました。
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佐々木高綱(たかつな)は、近江(滋賀県)佐々木庄を地盤とする佐々木氏の棟梁の家に生まれ、『平家物語』や『源平盛衰記』などで大活躍する人物・・・。
有名なところでは、源義経とともに、京に陣取る木曽(源)義仲を攻めるべく向かった時の、梶原景季(かげすえ)との宇治川の先陣争い(1月17日参照>>)の逸話がありますね。
そこでも垣間見えるように、とにかく目立ち、とにかく武功を挙げようとガンバル人・・・まぁ、合戦での功績によって、その恩賞が決まる武士の世界ですから、それも当然と言えば当然ですが・・・
さてさて、そんなこんなで、壇ノ浦の合戦(3月24日参照>>)も終わり、もはや源氏の世も確定となった文治元年(1185年)10月24日、源頼朝の本拠地である鎌倉の勝長寿院にて落慶法要が行われた時の事でした。
この式典にて、高綱は「主君・頼朝の甲冑を預かる」という大役を任されます。
やがて時間も近づいて、続々と式典に出席する人々・・・その人々のド肝を抜いたのが、かの高綱の姿でした。
なんと高綱は、その預かった頼朝の甲冑を反対向きにして着用し、式典に出席していたのです。
反対・・・って前後じゃありません、表裏です。
本来は甲冑の内側になる部分を表に向けて、ムリヤリ着ているため、何やら、胸の部分がせりあがって異様な形状に・・・
間違って、鎧を裏表に着ちゃった・・・て事も、無いではないですが、さすがに、形が異様すぎますし、着るのにも余計に体力がいりそうですし、だいたい、そんな面倒な着方・・・「着てる途中で気付くだろ!」てなモンです。
当然の事ながら、周囲からは白い目で見られるだけでなく、直接、注意する人まで・・・
「ふざけてるのか!」
「まじめにやれぃ!」
と非難囂々です。
すると高綱・・・キッっと目を見開いて
「主君の御鎧を着するのは、もし事あるのとき、ただちに脱ぎ捨て主君にお着せするものなり!」
と、ピシャリ!
つまり、「今ここで、急に合戦となった時、1秒でも早く頼朝が甲冑を着られるように、鎧を逆に着こんでいる」というのです。
もちろん、本人は純粋な忠誠心・・・のつもり?
未だ平家と交戦中ならともかく、もはや、大勢は決まってますから・・・この時期の、露骨な忠誠心のアピールはどうなんでしょう?
・・・とは言え、まだまだ、曽我兄弟の仇討(5月28日参照>>)や、平景清(かげきよ)(3月7日参照>>)の例もあり・・・ひょっとしたら、まだまだ油断大敵な頃だったのかも知れません。
はたして、この高綱の行動が、頼朝さんには、まさしく忠誠心の現われとして好意的に受けとめられたのか?
それとも、行き過ぎたパフォーマンスと、苦笑いで一蹴されたのか?
そこンところは、頼朝さんのみが知る・・・ってところでしょうが、後に、「自らの活躍ぶりのワリには恩賞が少ない」との不満の末、建久六年(1195年)には、息子に家督を譲って、さっさと出家してしまっていますから、やはり、武士としてのプライドの高い人だったのでしょうね。
なんか、裏向け甲冑の姿を想像するとこっけいですが・・・
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