東か西か?生き残りをかけた鍋島直茂の関ヶ原
慶長五年(1600年)10月20日、鍋島直茂らが筑後久留米城を攻め、立花宗茂の将・小野鎮幸と戦いました。
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鍋島直茂(なべしまなおしげ)・・・まさに、佐賀鍋島藩の祖となる人物です。
もともとは、鎌倉時代に大宰府の少弐(しょうに)職を命じられた事で、その名も少弐と名乗った少弐氏の末裔とも言われ、肥前鍋島(佐賀市)に住んだ事から、その地名を屋号とした鍋島氏・・・
直茂の祖父・鍋島清久の時代の田手畷(たてなわて)の戦い(8月15日参照>>)で、奇抜な作戦を用いて龍造寺家兼(りゅうぞうじいえかね)の窮地を救った事から、以後、龍造寺氏の配下となり、その頭角を現してきます。
鍋島氏を重用した家兼は、自らの孫娘(桃源院)を清久の息子・清房(きよふさ)に嫁がせたり、また、その孫娘も、嫡孫の周家(ちかいえ)も亡くなると、周家の正室だった女性(慶誾尼・けいぎんに)を清房の後妻に迎えさせるなどして、両氏の親密度を保ちます。
やがて、家兼の孫・龍造寺隆信(たかのぶ)が、肥前の熊という異名で呼ばれ、薩摩(さつま・鹿児島県)の島津義久と豊後(ぶんご・大分県)の大友宗麟(そうりん)と並び称される「九州三強」の一人となる頃には、もはや龍造寺と鍋島は切っても切れない仲に・・・
なんせ、家兼の曾孫である隆信から見て、清久の孫の直茂は、従兄弟(叔母さんの子)であり義兄弟(隆信の生母が直茂の父の後妻)でもあるわけですから・・・
そんな直茂は、元亀元年(1570年)には、祖父を彷彿とさせる見事な作戦で今山の戦いを勝利に導き、またもや龍造寺の窮地を救っています(8月20日参照>>)。
しかし、やがて訪れたのが、龍造寺を背負って立っていた隆信の死(11月26日参照>>)・・・晩年には酒に溺れて、その智将ぶりも鈍っていたと言いますが、やはり、なんだかんだでシンボル的な人物。
しかも、隆信から家督を譲られた嫡男・政家(まさいえ)は病弱・・・
そのために、家督を継いだ当主がなすべき事は、ほとんど直茂の仕事となりますが、直茂は、自らの息子・勝茂(かつしげ)とともに、その後も龍造寺氏を支えます。
天正十五年(1587年)の羽柴(豊臣)秀吉の九州征伐では直茂が、文禄元年(1592年)の朝鮮出兵では息子・勝茂が、龍造寺の家臣団を率いて参戦しました。
ここらあたりから、何もできない龍造寺に見切りをつけて、直茂・勝茂父子に忠誠を誓うようになってくる龍造寺の家臣団・・・まぁ、上記のように、苗字は鍋島でも龍造寺の一族ですから、その実績や手腕において尊敬できる主君の下で働きたいという龍造寺家臣の気持ちもわからないではありません。
・・・と、ここで勃発するのが、あの関ヶ原の合戦です。
中央で起きた豊臣家内の文治派=石田三成らと武闘派=加藤清正らの対立に、野心アリアリの徳川家康が絡んで、豊臣家を東西真っ二つに分けた戦い・・・
この時、北陸では、西の丹羽長重(にわながしげ)と東の前田利長がぶつかり(8月8日参照>>)、東北では西の上杉景勝(かげかつ)が東の最上義光(よしあき)を攻め(9月16日参照>>)・・・と、全国をも二分しての戦いとなったわけですが、
九州で東軍として戦ったのが、すでに息子長政が家康べったりの、あの黒田如水(じょすい・官兵衛孝高)・・・相手は、再起をかけて挙兵した大友義統(よしむね)でした(9月13日参照>>)。
さて、龍造寺&鍋島はどうしたものか・・・東か?、西か?
・・・と、鍋島父子が下した決断は・・・
父・直茂が東軍で、息子・勝茂が西軍・・・あの前田家、真田家(7月21日参照>>)と同じ、どっちが勝ってもどっちか生き残り作戦です。
・・・とは言え、息子・勝茂は、最初の段階の伏見城攻防戦(7月19日参照>>)から積極的に参加して、その立場を見せつけていますが、父・直茂は関ヶ原へは向かわず、家康に兵糧を献上してご機嫌をとるという形での東軍表明をしています。
しかも、戦況が西軍不利と見るや、すかさず息子に連絡・・・
「お父ちゃんが何とかしたるさかに、すぐ、こっち(東軍)へ来い!」
とばかりに、息子を西軍から撤退させ、東軍へと寝返らせます。
もちろん、ご存じのように関ヶ原の本戦は、わずか半日で東軍の勝利となってしまいます。
そして、今度は、その身の証を立てるため、自ら、九州の戦場に積極的に参加するのです。
これが、慶長五年(1600年)10月20日の立花宗茂(たちばなむねしげ)配下の筑後久留米城への攻撃・・・
この宗茂は、西軍の一人として大津城を攻め(9月7日参照>>)、開城に追い込んだ後に関ヶ原へ向かおうとしますが、上記の通り、本戦が思いのほか早く決着してしまったために間に合わず、本拠の柳川城に戻っていたのです。
久留米の次に直茂が攻めるのは、もちろん、その本拠の柳川ですが(11月3日参照>>)、ここでも自ら先頭に立ち、東軍である事をアピールする直茂・・・おかげで、勝茂が当初西軍に加担した罪は問われる事なく、戦後は、すべてが丸く収まる事に・・・
しかも、龍造寺を見限った家臣に推され、鍋島家は龍造寺に代わって石高35万石の佐賀藩主に(9月6日参照>>)・・・こうして初代藩主となった勝茂以降、佐賀鍋島藩は、あの明治維新まで続く事になります。
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最初は、どっちが勝っても良いように両方に籍を置いて様子を見ぃ、形勢不利となると寝返って・・・と何やら姑息でズルイ気もしますが、これが生き残りの戦略というものです。
戦いに命をかけて華々しく散るだけが戦国武将のカッコ良さではありません。
生き残りに命をかけて策略を張り巡らすのも戦国武将のカッコイイところなのです。
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コメント
こんばんは来ました地元の知将、鍋島直茂。彼あっての龍造寺家。勿論、四天王と呼ばれる方々もいますケド、やっぱり直茂公あっての…って事なんです。佐賀では隆信よりも直茂の方が認知度もありますし、鍋島の地名(四天王も…百武は)もありますから“鍋島駅”もあります実際、知名度低い佐賀ですが、戦国時代には九州三強の一角ってな訳で(隆信さんが最期はちょっと)、『佐賀も結構やるじゃん』と誇らしく思います……ほんの少しだけ。
茶々さん、これからも楽しく読ませて頂きます
投稿: 佐賀の田舎者 | 2010年10月21日 (木) 00時40分
佐賀の田舎者さん、こんにちは~
えぇ鍋島駅なんてあるんですかぁ?
地名から?
それとも、やっぱり直茂さん人気からかしら?
>佐賀も結構やるじゃん
けっこうどころじゃないですよ!
「薩長土肥」…幕末にはヒーローの一角じゃないですか
投稿: 茶々 | 2010年10月21日 (木) 08時18分
>「薩長土肥」の一角。なるほど、大隈重信総理がいます。「肥」は最近まで「細川家肥後藩」の事だと思っていましたが、「鍋島家肥前藩」でしたね。「土肥」は明治期は少数派でしたが、肥前は総理大臣を輩出できましたね。
鍋島家は確か「島原の乱」の時にちょっと因縁がありますね。
投稿: えびすこ | 2010年10月21日 (木) 09時15分
えびすこさん、こんにちは~
私は、やっぱ江藤新平ですね。
あぁいう人に政治をやっていただきたいです。
投稿: 茶々 | 2010年10月21日 (木) 11時37分
こんばんわー。
鍋島さん、信長の野望あたりでかなり使える武将として登場し私は好きなほうですが、KOEIには受けが悪いのか(?)裏切りやすい武将です。私も策略に長けきちんと生き残ってるだけと思うのですけどねぇ。それに比べて真田昌幸なんかは裏切りません。KOEIの基準がよくわかりません。
ところで、前田の続きで書かれているせいか黒田如水の子供が利長になっておりますよ(^^
投稿: おみ | 2010年10月24日 (日) 00時28分
おみさん、こんばんは~
>ところで、前田の続きで…
そうです!そうです!
長政です(/ー\*)
ありがとうございます…訂正させていただきました。
投稿: 茶々 | 2010年10月25日 (月) 02時16分
はじめまして。
福岡在住で福岡生活が一番長い者ですが、
思春期を佐賀の鍋島で過ごしたためか、
龍造寺・鍋島氏への思い入れが強いです。
通っていた鍋島小学校、鍋島中学校は
校章が鍋島家の家紋「杏葉」でした。
「鍋島」は地名として残っているので
鍋島直茂を知らなくとも佐賀の人には馴染みのある名称ですね。
龍造寺氏はあまり知名度ないと思います。
私自身、龍造寺氏を初めて知ったのはゲームですが、
ご当地大名を選ぶときに「龍造寺?誰それ?」と思った記憶が。
話し変わって司法卿「江藤新平」ですが、
残念ながら地元での知名度はあまりないと思います。
公園に銅像はあるし、佐賀城に行けば彼のビデオが
流れているのですがね。
私が江藤新平を知ったのは西郷隆盛の本を読んでから。
「へぇ、佐賀の乱っていうのがあったんだ。」と思い、
佐賀の乱の中心人物「江藤新平」に興味を持ち
「司法卿 江藤新平」という本を読んで理解を深めました。
それから福岡に引っ越したのですが、
福岡という商業都市は昔から奪い合われた土地なので
ずっと地元に根付いた人物というのがいなくてもの足りません。
黒田如水にしたって、土着ではありませんから。
なので、福岡にいながら龍造寺・鍋島氏への思い入れは
未だに強いですね。そして司法卿 江藤新平もです。
投稿: よっすぃー | 2010年11月17日 (水) 21時45分
よっすぃーさん、こんばんは~
江藤新平…大河の主役にならないかと期待してます。
新平が手配中だった時、最後まで彼の写真を警察に渡さなかった後藤象二郎との友情なんかもステキです。
投稿: 茶々 | 2010年11月18日 (木) 00時55分
お返事ありがとうございました。
大河ドラマとしては、江藤新平もいいのですが、九州三国志やって欲しいですね。島津、大友、龍造寺の覇権争いはドラマとして相当面白いのではと思っています。
江藤新平は、ボリューム的に年末年始スペシャルドラマがいいかもしれませんね^^
投稿: よっすぃー | 2010年11月19日 (金) 11時59分
よっすぃーさん、こんにちは~
>島津、大友、龍造寺の覇権争いは…
それなら、ぜひ、日向の伊東さんもお仲間に…あっ、そしたら三国志じゃなくなるから、ダメですね。
投稿: 茶々 | 2010年11月19日 (金) 12時09分
三国鼎立の過程で伊東氏は必ず絡んできますので大丈夫でしょう!
伊東マンショのエピソードもあります。
同じく阿蘇氏にも触れて欲しいですし、九州はネタ満載です。
(いや、別に九州に限ったことではないとおもいますが)
投稿: よっすぃー | 2010年11月19日 (金) 17時17分
ならば、肝付さんも…ww
投稿: 茶々 | 2010年11月19日 (金) 20時40分
肝付ですか!伊東氏より前の話になりますね!(でしたっけ?)
そうなると龍造寺氏も、あの時代に93歳まで生きた隆信の曽祖父「家兼」からやって欲しかったり。
家兼が隆信を見て「長法師丸は大器である」と評したシーンの再現希望!w
投稿: よっすぃー | 2010年11月22日 (月) 19時56分
よっすぃーさんこんばんは~
>家兼が隆信を見て「長法師丸は大器である」と評したシーンの再現希望!
それは、私も希望ですね。
晩年の隆信さんがアレなので、ぜひともカッコイイ部分をたっぷりと…
投稿: 茶々 | 2010年11月23日 (火) 00時42分