「びた一文」が多すぎの貨幣のお話
明応五年(1500年)10月30日、室町幕府が、初の撰銭令を出しました。
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・・・という事で、撰銭令(えりぜにれい)については、後ほど、順を追ってご紹介させていただく事として、本日は、それに関連したお金=貨幣のお話をさせていただきます。
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現在、日本最古の貨幣とされるのは、平成三年(1991年)に発掘された「飛鳥池工房遺跡」から出土した富本銭(ふほんせん)です。
この遺跡は、その名の通り、飛鳥時代の工房の跡で、金、銀、銅、漆、ガラスなど、様々な材料で様々な製品が作られていて、富本銭以外にも多くの発見がありました。
現在、そこには、現場を見学できる形で遺跡を保護しつつ、万葉文化館なる博物館が建っています(くわしくは、本家ホームページ=歴史散歩:明日香村のページで>>)。
・・・とは言え、中国は唐の開元通宝を模したと言われる富本銭ではありますが、出土数もさほど多くなく、鋳造の跡はあっても、実際にそれが流通していたかどかは不明な点が多く、やはり、実際に使用された事がほぼ確実となると、あの和同開珎(わどうかいちん)という事になります。
これは、慶雲五年(708年)に、秩父盆地とおぼしき場所から献上された自然銅に、時の天皇=第43代元明天皇が、元号を和同に変更してまで大喜びして、早速、鋳造の詔(みことのり・天皇の公式の言葉)を発して造らせた貨幣(5月24日参照>>)・・・
ただ、以前の平城京遷都のページ(3月10日参照>>)でも、少し触れましたように、元明天皇が平城京遷都を布告するのが708年なら、自然銅が発見されて和同開珎の鋳造を開始するのも708年・・・
2年後の遷都に向けて、急ピッチで進められる都の建設にかり出され、朝から晩まで働かされた地方の一般人に支払われたのは和同開珎での賃金・・・未だ、朝廷の役人さえ現物支給の時代に、果たして、地方の農民が和同開珎を貰っても、使い道があったのか?がはなはだ疑問で、「なんとなく怪しい」ってな事もコメントさせていただきましたが・・・それは、あくまで、私的な疑問です。
・・・で、結局、中央政府としては、この和同開珎以来、天徳二年(985年)の乾元大宝(かんげんたいほう)まで、約180年間に12の貨幣を造ります。
これを皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)と呼びますが、この間は慢性化する材料不足から質が落ちる一方で、最終的に貨幣が流通に堪えなくなって10世紀後半には、鋳造そのものをやめてしまいます。
その後は、徳川家康が江戸にて幕府を開く時代まで、なんと!この日本では、政権を握った中央政府が貨幣を製造する事は、一度も無かったのです。
この間には、貿易を通じて入って来た中国の貨幣(主に宋銭)が流通する事になるのですが、室町時代頃になると、明(みん・中国)との交易でもたらされる明で造られた貨幣の中に私鋳銭(しちゅうせん・政府の許可を得ずに偽造した物)が目立つようになって来ます。
そうなると、当然の事ながら、日本でも中国銭に似せて私鋳銭が造られるようになるわけですが、常識的に考えて、安価でより多くのニセ貨幣に造ろうと試みるわけですので、一つ一つの貨幣は、かなり質が悪くなるわけです。
文字は読めないわ、一部が欠けとるわ、穴があいてないわ・・・
こういう質の悪い銭は「鐚銭(びたせん)」「悪銭(あくせん)」などと呼ばれて、当たり前ですが商売の際には受け取りを拒否されたり、鐚銭4枚で、良質の物1枚に相当させるなんて事もありました。
・・・で、この、悪質な銭を、良質な物と区別したり嫌ったりする行為を撰銭(えりぜに・えりせん)と言いました。
ちなみに、お気づきだと思いますが、
「びた一文も払うもんか!」
などの、捨てゼリフに使う「びた」とは、この質の悪い鐚銭の事・・・正統な貨幣より価値の低い鐚銭一枚だって払いたくないという意味ですね。
しかし、こうして人々が撰銭をして、悪銭の受け取りを拒否してばかりになると、商売が成り立たなくなり、物資の流通にも支障をきたしてしまうという事態に陥ってしまうため、幕府は、撰銭を禁止する法令=撰銭令なる物を、度々、発布する事になるわけです。
その初となったのが明応五年(1500年)10月30日というワケですが、もはや大量に出回りすぎている悪銭は、幕府自体が大量に所有しており、撰銭令は、幕府自身が、それを使いたいがために、ニセ硬貨を公式に認めちゃう事でもあるわけで、もう、これで貨幣経済の信用度は地に落ちたって感じですね。
結局、大した効果も得られませんでしたし・・・そりゃ、年貢を米で納めるわけですな。
一説には、ある祝い事で、織田信長が正親町(おおぎまち)天皇に献上した金銭のほとんどが悪銭だった事に、天皇が怒ったなんて逸話も残りますが、これは、信長が天皇を軽視して悪銭を献上したわけではなく、天下目前という地位にある信長でさえ、悪銭しか用意できないほど、悪銭が巷にあふれかえっていたからだとも言われています。
戦国も終焉を迎える頃には、良質な金の産地であった甲斐(山梨県)で甲州金を発行したりもしますが、これはあくまで領内のみで流通する物・・・
また、天下統一を果たした豊臣秀吉も、あの大きな天正大判をはじめとする金貨や銀貨を発行していますが、これも贈答用で、一般に流通する物ではありませんでした。
結局、政府が発行する貨幣が、ちゃんと流通するようになるのは江戸時代になってから・・・
慶長六年(1601年)、徳川家康は、金座・銀座を設置して貨幣の鋳造権を独占し、慶長大判・小判、一分銀、丁銀、豆判銀などを発行し、貨幣の統一に着手します。
それでも、度々粗悪な改鋳(貨幣を溶かして鋳造しなおす事)があったりもしましたが、一応の貨幣の全国統一が、やっとこさ、ここで成される事になります。
寛永十三年(1636年)には、銭形平次・投げまくりでおなじみの寛永通宝が発行され、これで、金銀銅貨のすべてが揃い、とりあえずはめでたしめでたし・・・
この後は、財政難に陥った藩が、領内でのみ通用する藩札(はんさつ)などを発行し、今度は、その藩札と幕府発行の貨幣の交換比率が・・・なんて新たな問題も出始めるのですが、そのお話は、また、いずれかの機会に・・・
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コメント
>江戸開幕まで貨幣の製造をしない…
だから戦国時代後半には「~石」と言う給与でも、十分世間に理解できたのはそれが理由だったんですね。
大河ドラマとかで「銭500貫」と言う言葉を時々聞きますが、その銭も「粗悪な貨幣」と言えますね。ところで武士の禄高が「貫」から「石」に移行したのはいつですか?
投稿: えびすこ | 2010年10月31日 (日) 09時14分
えびすこさん、こんにちは~
>「貫」から「石」に…
「石高制」が決定的となるのは、やはり、太閤検地からではないでしょうか?
その頃は、もう、悪戦だらけだったでしょうしね。
投稿: 茶々 | 2010年10月31日 (日) 17時03分