フォローの側近・遠藤基信…殉死
天正十三年(1585年)10月21日、伊達氏に仕えた遠藤基信が、亡き主君・伊達輝宗の後を追い、その墓前で自刃しました。
・・・・・・・・・
最終的に伊達家の宿老(家老)にまで上り詰める遠藤基信(もとのぶ)ですが、譜代の家臣というわけではありません。
基信の父は、出羽米沢(山形県米沢市)の修験者・金伝坊(こんでんぼう)で、若い頃は諸国を巡りもしましたが、まずは、その連歌の才能をかわれて、伊達氏の家臣・中野宗時(むねとき)の庇護を受けました。
その後、その宗時の主君である伊達輝宗(だててるむね)に気に入られ、その側近に大抜擢されたのです。
しかし、そんなこんなの元亀元年(1570年)、事件は起こります。
基信の旧主であった宗時が、息子とともに輝宗に反旗をひるがえしたのです。
実は、もともと、この輝宗さんは、隠居した父・晴宗(はるむね)とは仲が悪い・・・その晴宗も、その父(つまり輝宗のジイチャン)・稙宗(たねむね)と仲が悪く、以前はお互いの配下を巻き込んでの内乱にまで発展してしまった事もあり、その時に、乱の勝利者となった晴宗側についた事で、家中の最高実力者となったのが宗時だったのです。
・・・で、またまた同じような親子喧嘩で乱に発展する事を恐れた晴宗は、成長した輝宗に、早いうちから家督を譲りはしましたが、結局は、その後も、家中の実権を握っていたのは晴宗と宗時だったわけです。
しかし、当然の事ながら、当主になった以上、輝宗だって、その実力で家中の統制をはかりたいわけで・・・
はたして、
輝宗が実権を握ろうとしているから宗時が謀反を起こしたのか?
宗時が謀反を起こしたから輝宗が攻めたのか?
どちらが先かは微妙な所ですが・・・
ともかく、輝宗は、宗時の居城・小松城を攻め落とし、芦名氏を頼って逃亡した宗時は、会津に向かう途中で餓死したと言われています。
この時、宗時が逃亡した事を知った輝宗は怒り爆発し、彼の妻子や縁者をことごとく抹殺しようとしました。
それを、身を呈して止めに入ったのが基信・・・もちろん、最初に可愛がってくれたのが宗時であったというう恩も感じていたでしょうが、何より、これは内乱ですから、妻子や縁者をことごとく抹殺すれば、未だ、すべての家臣団を掌握しきれていない状態の家中では、火に油をそそぐような結果になりかねないと考えたのでしょう。
結果、なんとか輝宗の説得に成功・・・宗時の妻子は殺されずにすみました。
後に、この反乱で逃亡した宗時の配下の者の多くが帰参し、その後の伊達家に忠誠を誓ったとも言います。
このように、未だ家臣を掌握しきれていない輝宗は、それを力でねじ伏せようと、時々、強行手段に走り出すようなところがあったのですが、それを「ちょっと待ってください!」と制しておいて、その間に水面下で根回したり、関係者を説得したり・・・
輝宗の性格を見抜いていた基信は、常にその先を見つめながらフォローに回り、主君の暴走を防いでいたと言われます。
そんな基信・・・やがて奉行から宿老へと上りつめ、天正年間(1573年~91年)には、伊達家の外交を一手に引き受けるようになります。
織田信長や北条氏照(うじてる)、徳川家康などとも堂々を渡り合う一方で、礼も尽くし、ここでも見事なフォローをしてくれます。
そんな基信さんのスルドさを垣間見せてくれるエピソードを一つ・・・
(伝説の域を超えない物ではありますが・・・)
・‥…━━━☆
ある時、勢力を拡大しつつあった信長に、輝宗が名馬を献上する事を決めますが、
「ワシの分の贈り物とは別に、お前の名前でも何か贈ったらどうだ?」
と基信にも声をかけます。
すると、基信・・・
「うちの使用人の源五郎という者が、最近、鋳物に凝ってまして・・・これが、また、ええ感じの茶釜を造りよるんですわ~
女中らも、皆、使いやすいわぁ~言うてね~
一つ、信長さんに献上するヤツ造らせますワ」と・・・
「おいおい、あの茶道具の名器集めにウルサイ信長に、お前の使用人の茶釜やと???」
と驚く輝宗・・・
「ハイ、そんな信長さんやからです・・・せやかて、俺らみたいな田舎もんが、金や銀やのチャラチャラしたもんをエエカッコして贈っても、信長さんなら、もっとえぇもん、ワンサカ持ってはりますがな~
そこで・・・信長さんが絶対手に入れられへん物=源五郎の茶釜でんがな」
果たして、京の信長のもとに贈られた献上品・・・もちろん、名馬にも大いに喜ぶ信長ですが、問題は、あの源五郎の茶釜・・・
キレられるんじゃないかと、使者はハラハラしながら汗だくで、その茶釜の説明をします。
すると、信長は、茶の湯の師匠である千宗易(そうえき・千利休)を呼んで・・・
「宗易、お前、源五郎の茶釜を見た事あるか?」
「いえ、知りません・・・初めて見る品でございます」
「そやろそやろ・・・ほな、これで一発、茶を点ててくれるか!」
と、なにやらご機嫌です。
そう、なんでも一番が大好きな信長さん・・・しかし、事、茶の湯に関しては、宗易のほうがスゴイ・・・どんな名品を信長が手に入れても、
「あぁ、それは○○ですな」
と、なんだかいつも、高みからの言い回しで、信長より先に、その名器の事を知り尽くしている・・・
そんな宗易が、まだ見た事も無い茶釜を信長は手に入れたわけです。
信長にしてみれば「してやったり・・・」
信長は、その茶釜に「遠山」という名をつけてコレクションの一つに加えたのだとか・・・
・‥…━━━☆
まさに、相手の性格を見抜いた基信さんならではの贈り物だったわけです。
「相手の性格を見抜く・・・」
・・・と、毎日、このブログを見ていただいてる皆さま・・・
思いだしていただけましたか?
そうです!
ちょうど1週間前に書かせていただいたページ・・・神社にいた、あの片倉小十郎景綱を見い出し、輝宗の息子・伊達政宗の小姓に抜擢したのが、この基信さんでしたよね(10月14日参照>>)。
その景綱は、まさに側近中の側近として、生涯、政宗を補佐しました。
やっぱり、性格を見抜く能力に長けた人なんだなぁ・・・とつくづく
しかし、そんな基信さんに、最後の時がやってきます。
それは天正十三年(1585年)10月8日の事・・・
和睦成立のお礼に来たはずの畠山義継(よしつぐ)が、輝宗を拉致して逃走をはかります。
なんとか追いつき、鉄砲隊を指揮する息子・政宗に
「かまうな!ワシもろとも撃て!」
と叫ぶ父・・・
政宗は心を鬼にして、父を討った・・・あの事件です(10月8日参照>>)。
主君とともに生き、主君とともに成長した武将としての日々・・・基信にとって、もはや輝宗のいない人生は考えられなかったのでしょうか?
輝宗の死から半月たった天正十三年(1585年)10月21日・・・基信は、政宗の制止を振り切って、亡き輝宗の墓前にて自刃を遂げたのです。
時に、暴走する主君をフォローし続けた基信・・・最後のフォローはともに死出の旅路につく事だったのかもしれません。
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