松永久秀~男の意地の信貴山城の戦い
天正五年(1577年)10月3日、織田信長の嫡男・織田信忠が安土から着陣し、松永久秀の籠もる大和信貴山城を包囲・・・城下に放火しました。
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乱世の梟雄(きょうゆう)との異名を持つ松永久秀は、戦国ファンの間でも人気の武将で、このブログでも、そのご命日(10月10日参照>>)をはじめとしてイロイロと書かせていただいていますので、内容が重なる部分もあるかと思いますが、本日は、久秀の最後の戦いとなった信貴山城の戦いを中心に書かせていただきたいと思います。
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もとは山城国西岡(京都市右京区)の商人だったという松永久秀・・・やがて、当時、京都を制していた三好長慶(みよしながよし)(5月9日参照>>)に右筆(秘書)として召しかかえられ、しばらくの使いっパシリを経験してから、永禄二年(1559年)には、大和(奈良県)の攻略を任されるま(11月18日=【筒井城攻防戦】参照>>)までに成長します。
しかも、3か月という短期間でその制圧を成し遂げた久秀は、敵からも味方からも一目置かれる存在に・・・この時、信貴山城を居城とした久秀が、四層の高さを誇る日本初の天守閣を築いた事をご存じの方も多いはず・・・
やがて、身内の不幸や内紛に意気消沈の長慶が亡くなると、幼い後継者を後見する三好三人衆とともに、第13代室町幕府将軍・足利義輝を暗殺(5月19日参照>>)し、自らの意のままになる将軍を擁立して、もはや主家=三好家にとって代わる勢いで京都を制しました。
しかし、ここで・・・
つい先日、三好三人衆のページで書かせていただいたように、亡き義輝の弟・足利義昭(よしあき)を奉じての織田信長の上洛です(9月7日参照>>)。
この時、信長に対抗した三好三人衆をよそに、久秀は、茶器好きの信長の心をくすぐる名品=作物(つくも・九十九)茄子の茶入れを献上し、あっさりと降伏して信長の傘下に入り、信長から大和支配の許可を得ます。
いや、降伏という言葉はふさわしくないかも知れません。
おそらくは、いつか信長を倒すチャンスを得るための一時的なポーズ・・・それこそ、商人の時代につちかった見事なパフォーマンスで、24歳も年下の信長にすり寄ったのでしょう。
なぜなら、この後、久秀は2度も信長に反旗をひるがえすのです。
最初は元亀四年(1573年)3月・・・信長と不仲になった義昭の呼びかけに応じて蜂起した、あの石山本願寺、さらに姉川の合戦で雌雄を決しながらも、未だ抵抗する越前(福井県)の朝倉義景(よしかげ)と北近江の浅井長政(あざいながまさ)、復権を狙って近畿に舞い戻った三好三人衆などなど、まさに信長包囲網とも言うべき態勢ができあがった時に持ちあがった「武田信玄上洛?」のニュース!
大物の参戦をチャンスと見た久秀は、その義昭と同盟を結び、信長包囲網の一員となったのです。
とことが、どっこい!
信玄は途中から引き返してしまいます(12月22日参照>>)。
そう、ご存じのように体調を崩し、そして翌・4月、そのまま帰らぬ人となってしまったのです。
一気にテンションだだ下がりの信長包囲網・・・さらに、7月には、将軍・義昭が京都から追放され(7月18日参照>>)、8月には浅井(8月6日参照>>)・朝倉(8月20日参照>>)がそろって倒されてしまいます。
万事休す!
「ヤバッ!次は俺やんけ!(・oノ)ノ」と感じた久秀・・・あのルイス・フロイスが「この世の天国」と絶賛した久秀築城の美しい城=多門城を信長に差し出して、またしても降伏します(12月26日参照>>)。
それからは一転して、織田勢の一翼として石山本願寺攻めに参加する久秀・・・しかし、天正四年(1576年)、またもや久秀の心ウズく展開に・・・
長島一向一揆を根絶やしにされ(9月29日参照>>)、信玄の後を継いだ武田勝頼が長篠の戦い(5月21日参照>>)で敗れても、未だ、信長に抵抗を続けていた本家・石山本願寺が、その年の5月、亡き信玄に匹敵する大物=越後(新潟県)の上杉謙信と和睦し、謙信が本願寺の味方についたのです(5月18日参照>>)。
さらに7月には、やっとこさ重い腰をあげた西国の雄=毛利輝元の配下の村上水軍が大坂湾へ現れ、籠城する本願寺への物資の運び込みに成功します(7月13日参照>>)。
しかも10月に入ると、いよいよ動き出した謙信が、能登・七尾城の攻略に取り掛かります(9月13日参照>>)。
翌・天正五年(1577年)8月・・・「こうなったら、俺も行かな!!!」
本願寺攻めに参加していた久秀は、天王寺砦(5月3日参照>>)の守りを無断で放棄し、居城の信貴山城へと戻って立て籠もり、謙信の上洛を待つ事にしたのです。
またしても、信長に反旗をひるがえしたのです。
やがて9月に七尾城を落とした謙信は、すでに信長の領国となっていた越前へと迫ります(9月13日参照>>)。
そのすぐ後の手取川での謙信・勝利(9月18日参照>>)の一報は、すでに68歳となっていた久秀にも「今度こそ!」という希望を抱かせた事でしょう。
逆に、久秀の謀反に驚いた信長は、堺の代官・松井友閑(ゆうかん)を使者として信貴山城に派遣して、
「どないしたん?なんか不満あるんやったら、ちゃんと聞くから言うてぇや!」
と、あの神をも恐れぬ信長とは思えない温情あふれる説得・・・
しかし久秀は、そんな話し合いも拒否・・・
ところが・・・です。
こんなに強気の久秀をよそに、頼みの謙信は、手取川で信長配下の柴田勝家を破ったにも関わらず、なぜか、その先へは進まず、越後へと戻ってしまうのです。
その理由は、このまま進めば、越後が雪に閉ざされる頃まで戦いが長引くと考えて撤退したとも、関東管領でもあった謙信が、関東における北条の動きを封じるために一旦戻ったとも言われますが、とにかく、信長にとっては、このうえない朗報だったわけです。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
そこで、交渉を拒否られた信長は、配下の筒井順慶(じゅんけい)・明智光秀・細川藤孝(幽斎)を信貴山城攻略へと向かわせます。
間もなく、信貴山城の東の位置にある法隆寺に陣取った順慶ら・・・10月1日、その法隆寺を進発した彼らは、まずは、信貴山城の支城である片岡城(奈良県北葛城郡上牧町)を攻め、ここを守っていた海老名友清・森正友らを討ちとり、片岡城を落城させました。
そして、その2日後の天正五年(1577年)10月3日、信長の嫡男・織田信忠が安土から着陣して信貴山城を包囲・・・さらに、そこへは、「もはや、謙信の進軍はない」と判断した信長の命によって、遠征していた北陸から引き揚げてきた羽柴(豊臣)秀吉、佐久間信盛らの援軍も賭けつけました。
しかし、ここに来ても、まだ温情あふれる信長さん・・・すぐには攻撃させません。
信長さんの意向を伝えに櫓の下につけた信盛が・・・
「君が持ってる平蜘蛛(ひらぐも)の茶釜は、信長公がお望みの名物やよって、出してくれたらウレシイねんけどなぁ」
と・・・
つまり、その茶釜を差し出せば、謀反を起こした久秀を、またもや「許す」という事です。
さぁ、どうする?久秀・・・またまた、傘下に入っちゃう?
ところが、この時の久秀・・・『川角太閤記』によれば、
「平蜘蛛の釜と我等の頸(くび)は、粉々に打ち壊すことにいたす!」
と宣言・・・その和解案を一蹴します。
かくして10月5日、信貴山城への総攻撃が開始されます。
しかし、さすがは、築城名人の久秀の城・・・その堅固な造りは、わずか8000の城兵にも関わらず、4万の大軍の攻め手を翻弄し、すぐに落とす事はできませんでした。
これにより、長期戦の様相を呈してきた信貴山城攻防戦・・・その均衡が破られるのは10月10日です。
この時、久秀の配下となっていた森好久(よしひさ)・・・実はこの人、もと筒井順慶の家臣だったのですが、以前、順慶が久秀と戦って敗れた時に浪人となり、その後、久秀の配下となっていた人物です。
10日早朝・・・この好久が、配下の200名の鉄砲隊とともに反乱を起こし、三の丸を焼き打ちにします・・・すでに順慶に通じていたんですね。
さすがの堅固な城も、内部からの崩壊には対処できず、またたく間に総崩れとなってしまいました。
「もはや、これまで・・・」
と覚悟を決めた久秀・・・
いつものように中風の発作を防ぐお灸を頭のてっぺんに据え、首を取られないよう自らの顔を焼き、信盛に言い放った通り、平蜘蛛の茶釜を叩き割って、壮絶な爆死を遂げたとか、あるいは切腹したとか焼死したとか・・・
まぁ、この茶釜の叩き割りに関しては、実は叩き割ったのはニセ物で、本物はこっそりと茶の湯仲間の柳生重厳(やぎゅうしげよし・宗厳の父)に送っていたという話が柳生家の史料にあるのはあるのですが、代々伝わるうちにいつしか失われて、ソノモノ自体が現在に伝わっていない以上、あくまで話だけ・・・
確かに、芸術的名品が失われるのは惜しいし、今もどこかに保管されていてほしい気持ちもありますが、やはり個人的には、その場で叩き割っていてほしい・・・
なんか、その方が久秀らしい気がします。
先に書かせていただいたように、信長が上洛した時に降伏した時も、おそらくは、久秀自身は「負け」とは認めていなかったはず・・・
あくまで、次回のチャンスをうかがうためのポーズ・・・
2度目に多門城の時もそう・・・
もちろん、この3度目の信貴山城の戦いだって、信長の言う通り、茶釜を差し出して降伏すれば、また助かったかも知れません。
しかし、久秀は、今度だけはポーズの降伏をしなかった・・・それは、やはり、これが自分の人生にとって最後のチャンスだと思っていたからでしょう。
男・久秀・68歳・・・
その最後の意地で、信長が欲しがっている茶釜とともに自らの命を絶ち、その望みを断ち切ってやる事で一矢報いたのかも知れません。
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コメント
先日のコメントに書いてあった「戦国鍋TV」を見ました。
松永っちも出てました。
結構、おもしろかったですよ。
投稿: よろづ | 2010年10月 4日 (月) 19時37分
こんばんは。更新お疲れさまです。
来ました!!松永久秀♪誰にも屈せず、己の欲望のために裏切り、操り、認めさせる。最期は『してやったり!』といわんばかりの爆死。主君を毒殺するし、大仏は焼くし、将軍を暗殺するしで、あんまし良いイメージはありませんが…。自分は、これが『群雄割拠の戦国時代と言うものなんだ』と、彼の生き方で少しは理解出来たと思います。さらに、これだけの悪行(つぅか将軍暗殺だけで有り得ない)をやってるにもかかわらず、支配国民からは人気があったって、松永さん!あなたはどんな政策を…?
茶々さん、これからも楽しみに読ませて頂きます。ちなみに私は萩尾農さんの書いた(イメージの)松永久秀が大好きです。さっぱりしてる、翔ぶ鳥後を~な松永久秀、最高っス!!
投稿: 佐賀の田舎者 | 2010年10月 4日 (月) 20時39分
よろづさん、こんばんは~
>結構、おもしろかったですよ。
おお…そうでしたか~
未だに、いつやるのかわかってません(゚ー゚;
探してみます。
投稿: 茶々 | 2010年10月 5日 (火) 00時45分
佐賀の田舎者さん、こんばんは~
いやぁ、松永久秀こそ「ミスター下剋上」
戦国そのものの人ですよね~
戦国は悪人でないと生き残れません。
そう考えると、久秀も悪人には成り切れなかったのかも知れません。
投稿: 茶々 | 2010年10月 5日 (火) 00時47分
切腹した松永久秀がどう自爆扱いされていったのか、こちらの記事が詳しかったですよ。
TVに出演し一般書を書きまくっていた歴史家さんの偏りから産まれたもののようですね。
http://parasiteeve2.blog65.fc2.com/blog-entry-1252.html
投稿: たむ | 2016年8月25日 (木) 02時34分
たむさん、こんばんは~
歴史とは、
「もともと諸説あって断定できない」事がほとんどであるにも関わらず、TVの歴史番組でやったり、有名な方が言ったりすると、その説が本当のようになってしまう事は多々ありますね。
先日、とある歴史検証番組で「太平洋戦争で焼失して戦後に再建された大阪城天守閣…うんぬん」てなナレーションが流れた時には、さすがにコケましたが、歴史を好きではない視聴者の方だと「歴史検証番組で言ってるんだから、間違い無いんだろう」と思ってしまうでしょうね。
投稿: 茶々 | 2016年8月25日 (木) 04時41分