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2010年10月 6日 (水)

天狗党最後の戦い~水戸藩騒乱・松山戦争

 

明治元年(1868年)10月6日、維新の嵐の中、水戸藩を追われた旧諸生党と、それを追い詰める旧天狗党の戦い=松山戦争がありました。

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尊王攘夷を掲げる水戸学の権威・藤田東湖(とうこ)の息子・藤田小四郎が、元治元年(1864年)3月に筑波で立ち上げた天狗党・・・

途中から武田耕雲斎(こううんさい)総大将に迎えながらも、わずか1年に満たないその活動で、維新のさきがけとなって流星のごとく散っていった彼らのお話は、下記リンクからご覧いただくとして、今回は、彼らが散って後…その後のお話です。

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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

・‥…━━━☆

未だ早すぎた尊王攘夷に、ただ騒動を治めるだけの幕府と水戸藩を前に、天狗党:818名のうち死罪=352名を含めた、合計817名が刑に服す(無罪となった1名は女性)という悲惨な結末で、この天狗党の騒乱は幕を閉じた形になりましたが・・・当然、話はここで終わりません。

上記の彼らの処刑のページの末尾にも書かせていただきましたが、この天狗党の処刑から約1年後、あの薩長同盟が交わされ(1月21日参照>>)その半年後には、天狗党の彼らと同じ尊王派の長州(山口県)第2次長州征伐に勝利し(7月27日参照>>)さらに、その翌年の10月には、第15代将軍となった徳川慶喜(よしのぶ)大政奉還する(10月14日参照>>)と、世の中がめまぐるしく変わっていきます。

その間の水戸藩と言えば、天狗党が処刑された事で、藩内の尊王攘夷派は壊滅状態となり、彼らに勝利した諸生党(しょせいとう)市川三左衛門(いちかわさんざえもん)らをはじめとする佐幕派(幕府重視)がはばをきかす事になります。

彼ら佐幕派が前代未聞の大幅加増で、軒並み家禄をupされる中、敗戦の首謀者となった武田耕雲斎の家では、3歳の幼児まで虐殺されるという悲惨さでした。

しかし、上記の通り、世の中が変わります。

動きがあるのは慶応四年(明治元年・1868年)が明けて間もなく・・・そう、あの鳥羽伏見の戦いです(1月3日参照>>)

ここで、幕府軍の敗北を知り、わずかの側近だけを連れて江戸城へと帰ってしまった将軍・慶喜(1月6日参照>>)・・・今を以て賛否両論渦巻く敵前逃亡ですが、この、主君の逃亡でおいてけぼりとなってしまったのが、慶喜に従って京都の本國寺(ほんこくじ)に駐屯していた水戸藩の守衛隊:223名・・・

実は、彼らは、天狗党に属してこそいなかったものの、皆、心に尊王の気持ちを持っていて、そのために少なからずの処罰を受けて家禄も大幅カットされ、佐幕派が好き勝手に仕切る水戸藩の現況に不満を持っていた集団・・・だからこそ、遠く離れた最前線に配置されていたのかも知れませんが・・・

そんな彼ら、困窮を極める実家のためにも、ただでは帰れません。

その場所が京都だった事が幸いしました・・・朝廷から「除奸掃除 反正実行」勅書(ちょくしょ・天皇の書状)を賜り、「藩政をただす!」という大義名分を背負っての帰国となったのです。

ご存じのように、この間に官軍となった薩長軍も東へと進軍していますから、もう、彼ら本國寺隊の勢いは最高潮となり、江戸城無血開城より1ヶ月早い3月には水戸城を奪還します。

旧諸生党&佐幕派の市川ら500余名は、そのまま北へと逃亡し、長岡新潟で展開されていた北越戊辰戦争(5月13日参照>>)へと参加しますが、やがて、その長岡藩も倒れ(7月29日参照>>)残った会津へと向かい、ここでの籠城戦に参加・・・しかし、彼ら=旧諸生党の生き残りが会津の籠城戦に加わったという話はあるものの、いざ、開城(9月22日参照>>)された時には、市川らの姿はそこにはなかったようです。

一方、この間、市川らが去った水戸には、5月になって、耕雲斎の孫・武田金次郎をはじめとする遠島刑を受けた人々が続々と帰還してきます。

金次郎は、先の天狗党当時、騒乱に参加していたものの、当時は17歳・・・未だ幼かったために死罪をまぬがれ、遠島の処分を受けた137名の中の一人だったわけですが、彼をはじめとする生き残り組が、この時代の変化によって、次々と罪を許されで戻って来たのです。

金次郎の帰還などは、馬上姿も凛凛しく華やかに、まるで、勝利の凱旋帰国のようだっと言いますが、そんな彼らも、この先、ヒーローとは呼べない行動に出てしまいます。

そう、復讐です。

またたく間に旧天狗党として集団を形成した彼らは、諸生党に縁のあった人々の屋敷を襲撃しては殺戮をくりかえしたのです。

これは、後に「明治は元治よりも残虐だ」と称されるほどだったと言います。
(元治は天狗党が活動した1年の事です)

気持ちはわからないでもありませんが、もはや張本人たちは、水戸を脱出してしまっているのですから、残っている人は、おそらくは、さほど関わってもいない人か、内部事情もわからない縁者でしょうから、一般市民に刃を向ける事なく美しく散った祖父・耕雲斎の名を汚す行為以外の何物でもないような気がします。

そんな故郷の噂を耳にしたのでしょうか?・・・市川ら旧諸生党と戊辰戦争で戦った幕府軍の生き残りを含めた総勢500名が水戸に舞い戻って来て、9月28日には藩校の弘道館(こうどうかん)を占拠し、10月1日から2日にかけて水戸城奪回を目指して激しく戦いますが、目的は果たせずに敗走・・・。

弘道館を捨てて千葉方面に逃走する彼らでしたが、周囲の藩では討伐軍が編成され、もはや朝敵(国家の敵)となった彼らには潜伏場所もありませんでした。

かくして明治元年(1868年)10月6日、今では水戸藩軍となった旧天狗党は、松山村(千葉県匝瑳市)で彼らに追い付き、ここで総攻撃を仕掛けたのです。

松山戦争・・・あるいは八日市場の戦いと言われるこの戦闘は約2時間ほどで終結し、ここに諸生党は壊滅・・・現場から逃走した市川も、翌・明治二年の2月に捕えられ、2ヶ月後の4月3日水戸で生きさらしのうえ、逆さ磔の刑となりました。

これにて、水戸藩の戊辰戦争はようやく終わりを迎えた事になります。

それにしても・・・
幕末と呼ばれたあの頃、時を同じくして幕政に参加し、藩政を改革して尊王攘夷を主張した名君・・・・
水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)
薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)・・・

9歳違いの二人の藩主は、ともに将軍継承問題で敗れ、夢半ばにしてこの世を去り、その後を受け継いだ後輩たち・・・

八月十八日の政変(8月18日参照>>)後、いち早く尊王攘夷を掲げて蜂起したのは、水戸藩であったにも関わらず、少しばかりのボタンのかけ違いによる藩内党争の結果、多くの優秀な人材を失い、新政府に参入できなかった水戸藩・・・かたや新しい時代をけん引した薩摩藩

これまでの天狗党関連のペーゾでは、その名の通り天狗党を中心に書かせていただいているので、一連の流れでは憎たらしい限りの諸生党=市川三左衛門さんですが、最後の最後、2月に潜伏先で捕縛された時、彼は、フランス語や数学の勉強をしていて、「この先、フランスに渡って先進技術を学びたい」という夢を語っていたとか・・・

彼もまた、幕末の動乱の中、日本の先行きを真剣に考えていた人物の一人・・・ただ、運命の歯車が違っていただけなのだと思えてなりません。
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コメント

祖父の叔父が諸生党でした。弘道館戦争の話は伝わっていますが、それ以降のその人の足取りを聞かないうちに、祖父は他界してしまいました。

投稿: きりぎりす | 2016年5月 7日 (土) 00時56分

きりぎりすさん、こんばんは~

>祖父の叔父が諸生党…

そうでしたか…
この時代の方々は、尊王であれ、左幕であれ、より良き未来に向かって頑張っていた方々だと思います。
お話の続きが聞けなくて、残念ですね。

投稿: 茶々 | 2016年5月 7日 (土) 02時35分

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