平安京の移り変わり~朱雀大路と千本通
延暦十三年(7948年)10月22日、第50代桓武天皇が、都を平安京に遷都しました。
・・・・・・・・・
これまでも何度か、平安京の誕生にまつわるお話をさせていただいておりますが・・・
- 2006年10月22日:未完の都・平安京>>
- 2008年10月22日:魔界封じの都・平安京>>
- 2008年11月8日:平安京はいつから京都に?>>
- 2010年10月1日:光仁天皇&桓武天皇・父子2代の改革>>
本日は、この日誕生した平安京の移り変わりのお話をさせていただきたいと思います。
・‥…━━━☆
♪大路に沿いてのぼれる
青柳が花や 青柳が花や
青柳が撓(しな)いをみれば
今さかりなりや 今さかりなりや♪
~『催馬楽(さいばら)』より~
平安京遷都の直後の、その華やかなりし様子が思い浮かぶ歌ですね。
おそらくは、船岡山を北の守り神=玄武(げんぶ)とし、そこを基点に南北を貫く朱雀大路(すざくおおじ)を、まっすぐに南へと伸ばした線を中心線として左右対象に配置された平安京・・・。
道幅が84mもあったという、まさに、大路と呼ぶにふさわしい朱雀大路は、現在の千本通です。
平安京の図に、位置関係がわかりやすように、現在の鉄道路線と駅をつけ足してみましたが、こうしてみると、現在の京都の中心が、昔より、ずいぶん右(東)に移動している事がわかります。
それにしても、華やかな都の象徴だった朱雀大路は、いつから千本通となったのでしょうか?
これが、意外にも早く・・・遷都間もなく、その兆しが見え始めるのです。
その原因は、なんと言っても水はけの悪さ・・・
以前、【平安時代は今より温暖化だった?】(7月3日参照>>)で書かせていただいたように、そもそも、平安時代は、今より平均気温が高く、おそらく、ゲリラ豪雨も多かったものと思われますが、当時の都の西半分は、大変、水はけが悪く、一度、大雨が降ると、なかなか水が退かなかったのです。
水はけが悪いと、当然、不衛生になり、疫病が流行って人口は減りますし、木造建築である建物の朽ちる度も高くなります。
官庁の建物は財政難で再建されないし、一般市民も建て替えるほどのお金もありませんから、より良い場所へ引っ越す事になり、これまた人口が減少するのです。
さらに、治承元年(1177年)には太郎焼亡と次郎焼亡という2度の大火に襲われたうえに、源平の合戦の舞台ともなり、もはや西半分のほとんどが、造営当時の姿ではなかったようです。
焼けた内裏も再建されず、その跡地は、すでに野原の状態で、人々は「内野」と呼んでいたのだとか・・・
西の端っこである西京極大路は、もはや、どこが道かすらわからなくなり、すでにこの頃には、本来なら中央部であった朱雀大路が、都の西の端になってしまっていたのです。
そうなると、そこにできるのが「あの世とこの世の境界線」です。
以前、建仁寺や六波羅密寺をご紹介したページに、かつては、加茂川が「あの世とこの世の境界線」であった事を書かせていただきました(3月23日参照>>)。
都で人が亡くなると、その遺体を入れた棺桶を担ぎ、加茂川を渡った六道の辻あたりで、最後のお別れをし、そこからは僧侶の手によって風葬地である鳥辺野(東山)に運ばれました。
電車も車もない時代ですので、そんなに遠くの場所に埋葬する事はできませんから、都の端から少し行った所が埋葬地となるのは必然的な事でしょう。
それは、西側も同じ・・・
都の端となった朱雀大路を越えた所に埋葬の場所が生まれます。
現在はそんな面影もありませんが、船岡山の北西あたりに蓮台野(れんだいの)という「あの世」意味する地名が残り、ここが、その地であったと言われます。
・・・で、その千本通の名前の由来ですが・・・
今から900年ほど前に書かれた日蔵(にちぞう)上人の『冥土記』によれば・・・
日蔵は天慶四年(941年)、突然死んで、いきなり冥土へ行きます。
そこで、すでに延長八年(930年)に亡くなっていた延喜帝(醍醐天皇)が地獄で苦しんでいるところに出会います。
天皇が言うには
「僕が、今、こうして苦しんでいるのは、生前に罪なき者(菅原道真?)を左遷した罰やねん・・・せやから、お前はすぐに現世の戻って、この状況を現天皇に報告してくれ。
ほんで、尊いお経をいっぱい唱えて、千本の塔婆(とうば・冥福の意味を込めて立てる細長い板)を立てて供養してくれ~」
生き返った日蔵は、醍醐天皇との約束通り、連台野に千本の塔婆を立てて、天皇の供養をしたのです。
以来、朱雀大路は千本通と呼ばれるようになったのだとか・・・
とは言え、厳密には朱雀大路は、内裏の南端である朱雀門にぶつかり、そこで終了・・・その内裏が野原となった後に、普通に人が往来するようになり、さらに蓮台野あたりまで延長された分を含めてが千本通ですから、厳密には、その長さは違う事になりますが・・・
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コメント
なる程、朱雀通り(千本通り)をずーっと行くと、そこは、人の住む所ではなくなる、ということですね。
でも、言い換えれば、死者の世界に行く道があった、ということにもなって、行き来も出来た、ということになります。
現在の長寿社会とは大きく違って、昔の人は、死を極く身近に感じながら生活していたことでしょうね。
投稿: 五節句 | 2010年10月22日 (金) 12時49分
あいすみませんが、今まで、〔重陽の節句を祝う〕というブログ名でコメントさせて頂いていました。
これからは、五節句 というHNを使うようにします。宜しくお願い致します。
投稿: 五節句 | 2010年10月22日 (金) 12時52分
五節句さん、コメントどうもです。
>死を極く身近に感じながら生活していた…
それは確かだと思いますね。
以前にも、そして本文にも書いた東山の珍皇寺には、小野篁があの世とこの世を行き来した井戸が残ってますし、今回の日蔵さんも行って帰って来てますから、そんな話を聞いた昔の人には、もっと身近な物だったと思います。
投稿: 茶々 | 2010年10月22日 (金) 19時00分
はじめまして。
平安京の地図を探していたところ、こちらにたどり着きました。
実は、教育実習の資料として、この平安京の地図を使わせていただけないかと思っています。
もしよろしければ…よろしくお願いいたします。
投稿: ちよ | 2013年5月13日 (月) 22時38分
ちよさん、ご連絡ありがとうございます。
こんなんで良かったら使ってくださいm(_ _)m
実習、頑張ってくださいね。
投稿: 茶々 | 2013年5月14日 (火) 01時57分
はじめまして
平安京について調べていたので、楽しく勉強させてもらいました。
可能であればこの地図に地下鉄路線を加えて利用させて頂きたいのですが使用してもよろしいでしょうか?
投稿: 新快速 | 2014年8月19日 (火) 15時29分
新快速ん、ご連絡ありがとうございます。
こんなんで良かったらお使いいただいてよろしいですよ。
お勉強、頑張ってください!
投稿: 茶々 | 2014年8月19日 (火) 18時28分
今、図書館で借りた『京都なるほど辞典』(旅行作家 清水さとし著 実業の日本社刊行 )を読んでいますが、こっちのブログのほうがおもしろい。
歴史に興味があるからかも知れない。本がでればいいのに!
投稿: 周作 | 2015年11月10日 (火) 10時58分
周作さん、こんばんは~
「おもしろい」と思っていただけたらウレシイです。
更新の励みになるコメント、ありがとうございましたm(_ _)m
また、ご訪問くださいませ。
投稿: 茶々 | 2015年11月11日 (水) 02時52分
ウィキペディアにもありますが、『平家物語』巻第二「卒塔婆流」に次のような一節があります。
「康頼入道、故郷の恋しきまゝに、せめてのはかりごとに、千本の卒塔婆を作り、阿字の梵字、年号月日、仮名、実名、二種の歌をぞ書たりける。
薩摩潟沖の小島に我ありと、親には告よ八重の汐風。
思ひやれしばしと思ふ旅だにも、猶ふるさとはこひしき物を。・・・中略・・・千本の卒塔婆のなかに、一本、安芸国厳島の大明神の御前の渚に打ちあげたり。」
この卒塔婆が、都の家族のもとに届けられ、都ではその評判が広がり、平清盛の耳にも入り、この平康頼は赦免され、喜界が島から帰還できたとの話があります。平康頼の邸宅が今の千本寺之内、鞍馬口あたりにあり、都人はあの千本塔婆の康頼と噂したことでしょう。
平安京の外側は墓地でもなく、藤原氏をはじめとする貴族の館が立ち並んでいました。千本は通り名としてより、地名としての起こりが早いのではないでしょうか。
後世のイメージで面白おかしく書かれますが、もともとは蓮台野や柏野、紫野、平野北野は天皇の御料地でありましたので、怪僧日蔵の話は論外ですが、それが元禄時代にはもうまことしやかに語られるくらい時代は流れてしまっていたのでしょう。
ちなみに、平家物語に出てくる卒塔婆は、願いをこめたもので、菩提を弔うといった意味はないようです。
菩提を弔うために卒塔婆を用いるようになったのは諸説あると思われますが、時代が平穏になった江戸時代以降の風習ではないかと思っています。
でも、怪しい話の方が人の気を曳きますよね。
後世の人が次々と付け加えるので、時代が重層化してしまいますね。まことしやかな話には眉に唾をつけてみましょう。
そして、京の千本通りより西側は千年にわたり農耕地として都人の食を供給してきたという長い歴史を持っています。ものを食べずに葬送ばかりでは、住んでいても皆、仏になってしまいますもんね。
投稿: 西鶴好き | 2015年11月20日 (金) 00時00分
西鶴好きさん、こんばんは~
私も『平家物語』は好きなので、その康頼の卒塔婆のくだりは存じておりますよ。
個人的には、その少し後の「足摺」の段がメッチャ好きなんですが…(*´v゚*)ゞ
ウィキは読んで無いので、どのような事が書いてあったのかはわかりませんが、今回、紹介させていただいたのも、もちろん伝説のうちの一つで、はっきりした事はわからない…というのが現状でしょうね。
>怪僧日蔵の話は論外…
と一蹴されてしまっては仕方ないですが、私としては、『冥土記』の記述がある『扶桑略記』が12世紀頃の成立である事を踏まえると、塔婆を供養のために用いる事は、平安後期か鎌倉の初め頃にはあったんじゃないかな?と思っています。
>京の千本通りより西側は千年にわたり農耕地として…
もちろん…おっしゃる通りです。
伝統的な京野菜もたくさんありますしね。
それは京都に限らず、あらゆる場所がそうであったと思いますが、「埋葬地だった」は「埋葬しかしなかった」わけでは無いですし、「お墓があった」は「お墓しか無かった」わけではありません。
おそらく、その周辺には広大な農耕地が広がっていた事でしょう。
以前、別のページで、現在の大阪駅周辺の梅田の話>>をさせていただきましたが、江戸時代に、幕府が各町内に点在するお墓を整理するため、市街地から外れた一か所に集めた事から「梅田墓」と呼ばれていた、その場所も、周辺には美しい田園風景が広がっていましたしね。
投稿: 茶々 | 2015年11月20日 (金) 02時35分
茶々さん、丁寧なお話しありがとうございます。
1975年ころに岩波新書から出された本に松田道雄著『花洛』という本があります。その本には大正期から昭和にかけての京都の町の様子が誇張なく書かれています。その中に、西の農産物とその消費地でもある町は同時に人糞肥料の供給地でもあったことがよくわかります。
京野菜などというのは、「おばんざい」という言葉と同じようにおおかた朝日新聞あたりが、ないことをさもあるように作り出した一つの作りごとだとたいていの良識ある京都人は思っています。
千本の話からずいぶん違った話をしてしまいました。
今後も面白いお話を紹介し続けて下さいね。期待しています。
投稿: 西鶴好き | 2015年11月20日 (金) 23時38分
西鶴好きさん、こんばんは~
そうなんですか?
大阪にも「毛馬胡瓜」や「勝間南瓜」などの「なにわ伝統野菜」と称される物がいくつもあるので、京都にもあるのかと思ってましたが、「京野菜」や「おばんざい」は、マスコミの造語で、実際には無い物なのですか…残念です。
そう言えば、京野菜の一つである九条ネギは、大阪の「難波ネギ」の種を分けてもらった人が京都で栽培し始めたのが最初という事で…そこは大阪人としては「大阪の方が古い!」と自慢したい部分ではあるのですがね。
ただ、その「京野菜」や「おばんざい」の言葉のイメージのおかげで、沢山の観光客の方が来てお金を落としてくれて、京都市が潤ってる気がしないでもないので、造語とて悪い事ばかりでは無いようにも思いますよ。
そもそもは、天皇が東京に移って後、寂れる一方だった京都の町を、何とか復活させようと考えた明治期の京都人の皆様、70年代に観光産業が落ち込んで舞妓さんも20人以下まで減少したのを、ディスカバージャパンやアンノンブームのメディア戦略で巻き返した昭和の京都人の皆様…
これらの方々が観光に力を入れて様々な努力をなされた結果が、現在の京都の繁栄の礎となっているのですから…
建物のほとんどが江戸時代以降の物かも…
祭りの多くが明治からi昭和に復活させた物かも…
てな事にはキツく突っ込まず、暗黙の了解で曖昧にしたまま千年の都を楽しむのも一興かと存じます。
コメント、ありがとうございましたm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2015年11月21日 (土) 00時48分