鳥取の干殺し~吉川経家の決断
天正九年(1581年)10月25日、羽柴秀吉に兵糧攻めにより、前日の24日に開城した鳥取城の城将・吉川経家が城兵の命と引き替えに自刃しました。
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世に言う「鳥取の干殺し」です。
2007年には、織田信長から中国地方の平定を任された羽柴(豊臣)秀吉が、鳥取城の包囲を完了した7月12日の日づけで、その戦いの経緯をご紹介させていただきましたが(7月21日参照>>)、本日は、籠城する吉川経家(きっかわつねいえ)側からの鳥取の攻防戦を見てみたいと思います。
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それまでは、西国の雄=毛利の傘下についていた宇喜多直家(うきたなおいえ)などの中国地方の諸将も、予想を上回る強さで進軍する羽柴秀吉の勢いに、戦わずして織田方に寝返る者が相次ぎます。
もちろん、それは、一か八か的な戦い方より、安全かつ確実性を重んじる秀吉による、実際の合戦に持ち込む前からの、切り崩し作戦や交渉によるところも大きいわけですが、鳥取城主だった山名豊国(とよくに)もその一人・・・
しかし、説得に応じて開城しようとする豊国は、家臣たちの猛反対に遭い、結局、彼は単身で城外へと出ます(反対した家臣に追放されたとも)。
・・・で、城主不在となった鳥取城に残った家臣たちが頼ったのは、もちろん毛利・・・
かくして天正九年(1581年)2月・・・今は亡き毛利元就(もとなり)の次男・吉川元春(きっかわもとはる)の要請により吉川一門の吉川経家が城将として派遣されました。
かねてより名将の誉れ高い経家・・・女子供・老人を含むわずか4000の城兵で、2万の大軍の秀吉勢とまともに戦っては勝ち目がない事は重々承知です。
すでに、秀吉の到着が7月頃との見事な予想を立てていた経家・・・しかも幸いな事に、鳥取城は「天より釣りたる」と称された山陰屈指の山城ですから、「ここは一つ、籠城して長期戦に持ち込んだなら、4ヶ月もすれば冬となる(旧暦ですから…)山陰なら、兵糧不足に陥った秀吉軍は撤退するだろう」との計画を立てます。
ところが、です。
鳥取城に入って各所を検分した経家は唖然・・・Σ(゚д゚;)!
兵糧が極端に少ないのです。
そうです・・・すでに、経家の作戦を予想していた秀吉の配下によって、鳥取中の米が買い占められていたのです。
ある者は自らが商人になりすまし・・・
ある者は、商人を金で雇い・・・相場以上の高値を提示して米の買い占めを行ったので、高値につられて城内の米まで、すでに売られてしまっていたのです。
経家は慌てて兵糧の準備を命じますが、結局、確保できたのは、必要量をはるかに下回る2~3か月分でした。
果たして予想通りの7月・・・前月に大軍を率いて現地到着した秀吉が、まさに7月12日、鳥取城を囲みます。
しかも、秀吉は上記の通りの作戦ですから、それこそ、ネズミ1匹這い出る隙間のないほどの完璧な包囲陣を構築します。
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(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)
西は袋川の手前に堀を造り、その後方に柵を張り巡らし、東側は連なる峰に沿って柵・・・要所には櫓も建て、さらに、毛利の援軍が来た時のため、陣の外にも堀を造る徹底ぶりで、もちろん、夜にはかがり火を煌々と焚き、兵は交代で寝ずの見張りを続けました。
さらに、毛利水軍に備えて千代川には警固の船を配置し、8月25日には、兵糧を積んでやってきた敵船を、細川藤孝(後の幽斎)配下の荒木勘十郎・松井猿之助らが撃退しています。
こうして、孤立状態となった鳥取城・・・やがて9月になると食糧が底をつき、兵たちは草木を食べてしのぎますが、やがて、それも無くなれば、牛馬を殺して食するようになります。
城兵に限らず、籠城する女子供も皆やせ細り、敵陣前の柵に駆け寄って助けを乞う者も続出・・・やがて、10月も終わろうとする頃、すでに限界を越えている城内で、経家は衝撃的光景を目の当たりにします。
鉄砲で撃たれて虫の息となっている兵を、刀を持った者が取り囲み、その肉を奪い合うようにむさぼる、悪夢のような光景です。
人が人でなくなった姿を見た経家は開城を決意・・・秀吉に使者を送ります。
はじめ秀吉は、経家を、毛利との交渉カードとして使うため、重臣の森下道誉(どうよ)と中村春続(はるつぐ)のみの切腹を要求しましたが、経家はこれを拒否・・・自分自身の切腹と引き換えに、城兵たちの命を助けるという約束を取りつけて、10月24日、開城に踏み切りました。
翌日の天正九年(1581年)10月25日・・・その決意のほどを遺書にしたためた経家は、秀吉の検使を受けた後、身を清め、見事、自刃を果たしました。
「去る七月二十一日、羽筑(はちく・羽柴筑前=秀吉の事)取り詰め候(そうろう)
以来二百日余り 堅固に相抱(あいかか)へ 今に於いては兵糧相縮まり候条
一人悴腹(かせばら)に及び 諸人恙(つつが)なく相助け候
其の仕合はせ 御一門の名誉たるべく候
恐惶謹言(きょうきょうきんげん)」ー経家の遺書ー
享年・35歳・・・
思えば、それまで、個人的には縁もゆかりもない城に招き入れられてわずか8ヶ月・・・「自らの命と引き換えに、城の皆を助けたい」と・・・
それが幸せであると・・・
戦国武将とは、それほどの責任感を持ちながら決戦に挑んでいるのだという事を痛感させられます。
経家の見事な姿に感動した秀吉は、約束通りに城兵を助けるため、城門を出たすぐの山麓に大釜をしつらえて粥をごちそうしましたが、深刻すぎる飢餓状態だったため、一度に多く食べた者のほとんどが死んでしまったと言われています。
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コメント
4000人です。筑前到着は6月です。自刃は10月です。
投稿: | 2012年7月15日 (日) 01時04分
はい、
おっしゃる通り、城兵は4000、
6月に到着した秀吉が7月12日に包囲を完了し、
吉川経家が自刃した10月25日の記事ですが…??
投稿: 茶々 | 2012年7月15日 (日) 04時00分
経家の子孫が江戸時代、父親の自害を目の当たりにしたことで武士を辞めて僧侶に転職した。そしてその更なる子孫が「『笑点』4代目司会者」といったら分かるでしょう、あの5代目三遊亭圓楽なのです。
投稿: | 2012年11月17日 (土) 23時21分
私は、父方が瀬戸内の村上水軍なので、吉川やら小早川やら毛利やらと言われると、何だか無縁ではない気がして、親しみを感じてしまいます。
投稿: 茶々 | 2012年11月18日 (日) 02時32分