上杉景勝の宿敵~独立を夢見た新発田重家
天正十五年(1587年)10月28日、上杉景勝の総攻撃を受けていた新発田城が落城し、新発田重家が自刃しました。
・・・・・・・・・
昨年の大河ドラマ「天地人」では、いなかった事にされてしまった新発田重家(しばたしげいえ)・・・
昨年のブログでは、そのあまりのシカトぶりに、番組へのツッコミ的な形で、ページの後半部分に書かせていただきましたが(5月25日参照>>)、今回は、その重家さん中心にお話を進めさせていただきます。
・‥…━━━☆
重家の新発田氏は、鎌倉時代から室町時代にかけて越後(新潟県)北部に勢力を誇った揚北衆(あがきた衆)の佐々木氏から枝分かれしたいくつかの分家の一つですが、そもそもは、その鎌倉時代に、幕府から荘園の地頭を仰せつかって入国し、ずっとこの地を守って来たというプライドもあり、南北朝以降に守護となった上杉・・・まして、その下の守護代=長尾氏などとは相まみえぬ気質を持っていた一族でした。
しかし、同族同士の争いや分裂を繰り返すうちに徐々に力が衰え、やがて長尾氏が上杉に取って代わる頃には、その傘下に組み込まれていく事になります。
ちなみに上杉謙信は、北条氏に追われて越後に逃げ込んできた山内(やまのうち)上杉憲政(のりまさ)から関東管領を受け継ぎ、上杉謙信となりますが、それまでの名前は長尾景虎(かげとら・輝虎)・・・つまり、長尾氏の血筋です(4月20日参照>>)。
その後、謙信の時代になっても、関東への出兵や川中島の合戦で、新発田勢は大いに活躍しました。
当初は、次男という事で、やはり佐々木氏から枝分かれした五十公野(いじみの)氏を継いでいた重家でしたが、天正七年(1579年)に実兄・長敦(ながあつ)の死を受けて、現在の新潟市から三条市一帯を支配する新発田家の家督を相続したのです。
謙信の死後に起こった上杉の後継者争い・御館(おたて)の乱(3月17日参照>>)では、景勝(かげかつ)側に立ち、景虎(かげとら)側についた同族の加地秀綱(かじひでつな)を降伏させるという功名も挙げました。
さらに、天地人ツッコミのページで書かせていただいたように、ドラマでは主役の特権で直江兼続(なおえかねつぐ)がやった事になっていた甲斐(山梨県)の武田勝頼(かつより)への寝返り交渉・・・あの黄金を持って敵陣に向かったのは、実際には重家であったとされています。
ドラマでもおわかりの通り、アレは御館の乱でも1・2を争う重要な出来事です。
当然の事ながら、合戦後の重家は、それなりの恩賞に期待する事になりますが・・・・
あぁ、それなのに、それなのに・・・
御館の乱の勝利の後、多大な恩賞にありつけたのは、景勝の直属の上田衆ばかり・・・重家には何の恩賞もなかったのです。
そりゃ、不満ムンムンなります。
そんなこんなの天正九年(1581年)・・・先の御館の乱で上杉同志が争ってる間に、どんどんと北陸へ進攻(9月24日参照>>)して来ていた織田信長からのお誘いが・・・
そこで重家は、越後からの独立を決意・・・一門はもちろんの事、「昨日の敵は今日の友」とばかりに先ほどの秀綱ら旧景虎派をも抱き込んで、翌・天正十年から本格的に反旗をひるがえし、新潟や新発田周辺で景勝勢と戦闘を繰返します。
同時に、西側から越後を目指すのは信長の命を受けた配下の柴田勝家・・・上杉方の要所・魚津城を落とし、いよいよ本拠地の春日山城にあと一歩のところまで迫ります(6月3日参照>>)。
北東に新発田、南西に柴田・・・まさに絶体絶命のピンチとなった景勝ですが、ところがドッコイ、ここで一大事件が・・・
そうです・・・魚津城陥落の前日に起きた本能寺の変!(6月2日参照>>)
命拾いの上杉・・・
一方、信長の死を受けて、次々と撤退する織田軍でしたが、重家は、信長の要請に答えて挙兵したものの配下ではなく、その最終目標は、あくまで独立ですから、なおも戦い続けます。
その間に、信長の後継者となった羽柴(豊臣)秀吉とよしみを通じた景勝は、ターゲットを重家に絞り、兼続を大将に度々に渡って新発田を攻めてきますが、その都度、重家は守りぬき、上杉方を敗走させています。
しかし、天正十三年(1585年)には、同じ景勝を敵とした事で一時は協力体制にあった越中(富山県)の佐々成政(さっさなりまさ)が秀吉に降伏し(8月29日参照>>)、さらに翌・天正十四年(1586年)の6月には、景勝も上洛して秀吉の臣従となった事で(6月15日参照>>)、重家は孤立してしまいます。
逆に、秀吉という後ろ盾を得た景勝は意気揚々・・・
かくして天正十五年(1587年)、景勝は兼続の指揮下、1万の大軍を率いて重家討伐に乗り出すのです。
5月13日には、重家の本拠地・新発田城(新潟県新発田市)の北東に位置する出城・水原城(北蒲原群)を攻略・・・9月7日には、あの秀綱を討って加地城(新発田市)を落とし、さらに、9月14日には、赤谷城(新発田市)を攻撃し、城主の小田切三河守を討ち取りました。
ちなみに、この赤谷城は、重家と同盟関係にあった会津・芦名氏配下の城で、新発田と会津を結ぶ交通の要所でもあった事から、ここで新発田城は、会津との連絡も断たれました。
さらにさらに上杉軍は、10月23日には、新発田城とは目と鼻の先にある五十公野信宗(いじみののぶむね・重家の義兄弟)が守る五十公野城(新発田市)を落城させ、もはや、新発田氏の城は新発田城のみとなってしまいます。
その頃には、かの秀吉から重家へ、降伏勧告状が届いていましたが、重家はかたくなに拒否・・・翌・10月24日、上杉軍は、いよいよ新発田城に総攻撃を開始したのです。
城下の各所に火をかけ、焼き打ちにする上杉軍・・・やがて、覚悟を決めた重家は、自ら700余騎の兵を率いて城を打って出て、上杉軍へと突撃します。
・・・と、その上杉軍の中に、かつて、かの佐々木氏から枝分かれした同族の色部(いろべ)氏の色部長実(ながざね)を見つけた重家・・・
その色部隊の真っただ中に突入するや
「親戚のよしみや!この首、お前らに取らしたる!勇気あるヤツ…出てこいや!」
と叫び、やにわに鎧を脱ぎすてて、自らの刀で腹をかき切ったのだとか・・・
天正十五年(1587年)10月28日、享年・42歳・・・独立を夢見た勇猛な武者とともに、新発田城は陥落しました。
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コメント
ご指摘のとおり、昨年の「天地人」では触れていませんでしたね。反対に扱っていたら「新発田の内乱」で2週くらい割いていて、越後国内の情勢が混沌としたままでは、(新潟県以外の)視聴者にはわかりにくかったかもしれないですね。
そうなると関が原の戦いまでの日程を、短くしないといけない事情もあったのでは?むしろ上記のとおりになっても、短くしてほしかったんですが。
投稿: えびすこ | 2010年10月28日 (木) 18時06分
ご無沙汰のお詫びにコメントを
>昨年の「天地人」
あのときのスルーぶりは流石にそれはないだろと思いましたね。大河ドラマに歴史考証の正しさを問えるのは最早。。。(涙)。龍馬伝は呆然とするお話もあった。
>新発田重家
茶々さんなら私のブログを見ている茶々さんはご存知かもしれませんが、漫画感想で「義風堂々 直江兼続」を書いている私は、漫画で重家のドラマを読んでました。漫画では謙信公の戦の流儀を頑固に貫いた最後でした。凄腕の戦国大名の部下には仰ぐ主が亡くなると運が消える人がいるんですな。佐々も新発田もそうだったかも。
投稿: 五遷筲始 | 2010年10月28日 (木) 20時04分
茶々さんこんばんは~。
潔い散り際だとは思いますが、私の感覚だと信長が亡くなった時点で一旦引いておけば良かったんじゃ?と思います。この時点なら(まだ越後も混乱しているし、所領削減されず)帰参もかなった可能性が高いと思います。やはりもったいない気が。
それにしても、あまり重家に構ってられんからという理由以外に、兼続くんに花を持たせるためにも消されていたんですかね。哀れなり重家。
ところで、憲政の上杉氏が扇ケ谷になっておりますが、これは新説なのでしょうか。
通説では山内だったはず。
誤記ではなさそうなのでご質問させてくださいませ。
投稿: おみ | 2010年10月28日 (木) 21時35分
えびすこさん、こんばんは~
あの御館の乱がけっこう何週にも渡っていたので、ほんの少し、新発田の乱も描いてほしかったかな?って感じですね。
投稿: 茶々 | 2010年10月28日 (木) 23時50分
五遷筲始さん、こんばんは~
>凄腕の戦国大名の部下には仰ぐ主が亡くなると運が消える人が…
確かに、それはあるかも知れませんね。
それこそ、柴田勝家も丹羽長秀も、二人とも良い武将だと思いますが、信長あっての彼らだったような気もしますね。
投稿: 茶々 | 2010年10月28日 (木) 23時52分
おみさん、ありがとうございます。
ギョエ~(;´Д`A ```
な誤記ですがな!
山内に扇谷…そこに山本寺が絡むので、いつも「間違えちゃぁいけない」と思いつつ、読み直すと、しょっちゅうテレコになってるんですよね~
今回は自分で発見できなかったので、ご指摘を受けなければ、そのままいっちゃってました…いつもありがとうございます。
投稿: 茶々 | 2010年10月28日 (木) 23時58分
もしかすると「天地人は後半部分の脚本を書き直した(脚本担当がストーリーを練り直した)のではないか?」と思うんですよ。前半と後半ではテイストが違うので、それのあおりで新発田の内乱を省略したのかも?
それとも小栗旬君や城田優君の出番を確保する狙い?
投稿: えびすこ | 2010年10月29日 (金) 08時40分
えびすこさん、こんにちは~
もう一人に養子の上条さんも、どっか行ったっきり出て来なくなったような気が…
とにかく、歴史に残る大河でした。
投稿: 茶々 | 2010年10月29日 (金) 15時25分
こんばんは
天地人が終わって4年もたつのに今更の書き込みお許しください、新発田重家が大好きな新発田市在住の物です。
天地人の放送では、重家の出演があるとばっかり思っていましたら、「新発田重家が謀反を起こした」と言う誰かの台詞だけでしたね(笑)
がっかりでした(笑)。
しかし、本能寺の変が無ければ新発田重家が勝って歴史も大きく違っていたと思うと、残念ですね。
投稿: 新発田重家 | 2013年7月21日 (日) 22時57分
新発田重家さん、こんばんは~
上杉主役のはずなのに、新発田重家も出なきゃ最上義光も出ない…
異常に長い御館の乱…
ホント、不思議な大河でしたね~
2年後にもっと不思議な大河が放送されて、ちょっと霞んじゃいましたが…
>本能寺の変が無ければ…
歴史に「もし」は禁物と言いますが、妄想は膨らみますね。
投稿: 茶々 | 2013年7月21日 (日) 23時26分
茶々様、こんばんは。
新発田重家の乱後、上杉景勝が会津に国替えになり新発田には、織田信長の家臣だった溝口秀勝が、加賀大聖寺から国替えになり入国してきましたが、秀勝は重家の息子が生きていると知ると、召しだして剛勇の将の息子を、是非家臣にしたいと言ったそうですが、重家の息子は武士は懲り懲りですと、辞退して町人になり石川屋と言う旅籠を始めたそうです。
昭和の初めころまで、石川屋と言う旅館が有ったそうで。
なのでもしかしたら今でも新発田重家の子孫の人がいるかもしれませんね。
その内、溝口秀勝についても書いて頂けましたら子孫のかたの奥様とお話したことなども、コメントできましたらと、思っています。
投稿: 新発田重家 | 2013年8月14日 (水) 21時08分
新発田重家さん、こんばんは~
そうですね。。
戦国武将の場合、武将として滅亡という形になっても、血脈が続いている家もありますね。
きっと子孫の方もおられるんじゃ無いでしょうか?
投稿: 茶々 | 2013年8月15日 (木) 01時44分
茶々様、新発田の住人です。
まったく地元のことを知らなかったのですが、たまたまこちらのブログを拝見して、好意的に書いていただいているのをみて調べてみようと思いました。
で、うちの町内に重家が自刃したお寺(全昌寺)があることがわかりました。色部長実の陣屋になっていたそうです。おそらくここ目がけて最期の突撃をしたのでしょう。200回忌・300回忌と人知れず溝口家が法要をして碑まで建ててありました。そうとうなリスペクトぶりです。
他の新発田市在住の方が書かれていたように、重家の次男の子孫が旅館業を営み、いまは地元の信金の監査役でご存命だそうです。
直江兼次スゲーと思っていたくらい歴史には素人ですが、地元でも風化しつつあることを教えていただいた茶々様にとても感謝しています。
ありがとうございます!
投稿: 新発田のこと | 2015年10月 6日 (火) 10時19分
新発田のことさん、こんにちは~
>重家が自刃したお寺(全昌寺)がある…
>色部長実の陣屋になっていたそうです…
わぁ(*゚▽゚)ノそれはワクワクしますね~
歴史文書に、地元の知ってる地名が出て来るとテンションあがりますよね~
これからも新発田のステキな場所、いっぱい発進してくださいね。
コメントありがとうございました。
投稿: 茶々 | 2015年10月 6日 (火) 16時00分