脱・仏教勢力?~光仁天皇&桓武天皇…父子2代の改革
宝亀元年(770年)10月1日、天智天皇の孫にあたる白壁王が第49代・光仁天皇として即位しました。
・・・・・・
あの壬申の乱(7月23日参照>>)で、兄・天智天皇の息子・大友皇子(弘文天皇)を倒して政権を勝ち取った第40代・天武天皇・・・
以来、約100年、9代に渡って天武天皇の遺志(2月25日参照>>)を継いだ天武系の天皇が続きます。
そして、この天武天皇が目指した律令国家は、大宝元年(701年)の大宝律令(8月3日参照>>)で実現され、和銅三年(710年)には平城京へ遷都(2月15日参照>>)・・・まさに♪あをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は咲く花の 薫(にお)うがごとくの大成長を遂げるわけですが、ここらあたりで天皇家を脅かす存在になって来るのが、あの藤原一族です。
ご存じのように、藤原氏の祖である藤原鎌足(かまたり)は、天智天皇の臣下・・・かの壬申の乱では負け組ですが、その逆境を乗り越え、知性と巧みな政治力で政界へと躍り出た鎌足の息子・藤原不比等(ふひと)は、さらに、橘三千代(県犬養三千代)という強い味方を得て、自分の孫を天皇に、そして、自分の娘をその皇后にする事に成功します(8月3日参照>>)。
それが、第45代・聖武天皇と光明皇后です。
(実際には、聖武天皇が即位した時点では、すでに不比等はこの世を去っていますが、4人の息子が、その遺志を引き継いでいました)
天武天皇が実践した天皇の周囲を皇族で固める政治体制は見事に崩れ、天皇の外戚(母方の実家)が実権を握るようになったのです。
こうなると、一旦握った実権は、なんとしても手放したくない物・・・しかし、聖武天皇と光明皇后との間に生まれた男の子が幼くして死亡する間に、聖武天皇と別のお妃の間に男の子が誕生し、「このままでは、その男の子に皇位を取られる」と感じた藤原氏は、まさかの奥の手=先に生まれていた長女を天皇にするのです。
それが、第46代・孝謙天皇です。
これまでも女性天皇は何人かいましたが、皆、皇后(妃)経験者・・・つまり、すでに亡くなった天皇もしくは皇子=夫の代わりに、次の天皇にバトンタッチするまでの中継ぎだったわけですが、彼女は、初の女性皇太子となって即位した女帝なのです。
しかし、この孝謙天皇が、両親の死後、ヤラかしてくれます。
・・・と言っても、すべての責任を彼女になすりつけるのも、お気の毒・・・なんたって彼女は、うら若き乙女の頃から、将来、天皇になる事が決まってしまったわけですから、当然、結婚する事は許されないわけで、そうなると、もちろん子供も望めないのですから、いつものように、彼女の次に、その子供が皇位を継ぐという、順調な皇位継承は、100%ありえないわけで、彼女の次の天皇の座を巡って、何やら良からぬ思惑がうごめく事になるのも当然です。
まずは、未だ母の光明皇后が生きている頃から、その光明皇后と孝謙天皇の二人から寵愛された藤原仲麻呂(なかまろ)・・・
彼は、皇后の兄・・・つまり、不比等の息子の藤原4兄弟の一人・武智麻呂(むちまろ)の息子なので、孝謙天皇の従兄弟に当たります。
仲麻呂に対する孝謙天皇の愛が、本当に男と女の愛だったのか?
それとも、信頼のおける臣下への愛だったのかは、ご本人に聞くしかありませんが、ともかく、仲麻呂を寵愛する孝謙天皇は、彼の勧めるがまま、第47代・淳仁天皇に皇位を譲ります。
しかし、その後、母の死にショックを受けて、ふさぎ込んでいるところをやさしく看病してくれた僧・道鏡へとその寵愛が向いてしまうのです。
かくして道鏡と強力タッグを組んだ孝謙天皇は、政権奪回に乗り出し、仲麻呂を討ち、淳仁天皇を廃し、第48代・称徳天皇として返り咲きます。
さらに、あろう事か、今度は、その道鏡を天皇に・・・という前代未聞の展開に・・・
これまで皇族でもない人物が天皇になった例はなく、さすがに、これは実現しませんでしたが・・・と、この道鏡事件については、称徳天皇即位のページ(10月9日参照>>)で、さらにくわしく見ていただくとして、そのページにも書かせていただいたように、この事件も、単に、称徳天皇と道鏡、二人の先走り過ぎだけではかたずけられない周囲の思惑があるのです。
確かに、称徳天皇は道鏡を愛していただろうし、道鏡もちょっとは天皇になりたいという個人的な野望もあったのかも知れませんが、彼らのバックについていたのが、奈良という場所に君臨する仏教勢力・・・そして、それを抑えたいのが藤原氏。
朝廷に匹敵・・・いやそれ以上の力をつけつつあった南都の仏教勢力が、仏教に帰依するあまり、高僧の道鏡に並々ならぬ信頼を置く称徳天皇の心を利用して、政界に君臨していた仲麻呂を排除させ、さらに天皇の座をも仏教勢力の支配下に置こうとした・・・それが、道鏡を天皇に・・・という事なのかも知れません。
とは言え、この時、道鏡を天皇にする事は叶わなかったものの、仏教の勢力はまだまだ健在・・・更なるチャンスを狙っていたかも知れませんが、その野望は称徳天皇の死とともに終焉を迎えるのです。
子供もいなければ、定めた後継者もいないまま亡くなった称徳天皇・・・ここを、巻き返しのチャンスと狙ったのが藤原氏です。
先ほど、書かせていただいた通り、失脚した仲麻呂は藤原4兄弟の長男・武智麻呂=南家の息子・・・残る3兄弟のうち四男・麻呂の京家は後継者に恵まれず、すでに失脚していましたが、まだ、次男・房前(ふささき)の北家、三男・宇合(うまかい)の式家が残っています(子供はたくさん産んでおくもんだ(*゚▽゚)ノ)。
そんな藤原氏の藤原永手(ながて・北家)や藤原良継(よしつぐ)・百川(ももかわ)兄弟(ともに式家)から白羽の矢が立てられたのが、天智天皇の孫・白壁(しらかべ)王・・・この方が、わずか2ヶ月間の皇太子を経て、宝亀元年(770年)10月1日に第49代光仁天皇として即位したのです。
やっと出てきました~長い前置き、お許しを・・・(;´д`)
しかし、長い前置きを書かねばならないほど、その即位は異例・・・なんたって、冒頭に書かせていただいた通り、約100年ぶりの天智系の天皇・・・しかも、この時、光仁天皇は、すでに62歳という高齢ですから・・・
光仁天皇は、ここまで、後継者争いに巻き込まれないよう、酒びたりの生活を送りながら行方をくらましていたとも言われ、これまでのゴタゴタにはいっさい関与していない人物・・・おそらくは、かの仏教勢力への脅威によって、天武系だ天智系だなんて言ってられない、せっぱ詰まった状態だったのでしょう。
さらに、決め手となったのが、光仁天皇の奥さんが井上内親王という、かの聖武天皇の皇女だったからでしょう。
聖武天皇は不比等の孫ですから、そこに藤原氏の血脈が流れています。
早速、光仁天皇は、道鏡を下野国(栃木県)の薬師寺の別当に左遷し、元号を宝亀へと改め、井上皇后との間に生まれた他戸(おさべ)親王を皇太子に立てます。
しかし、これが気に入らないのが、良継&百川の兄弟・・・仏教勢力排除のため、とりあえずは、北家の永手の意見に同調したものの、母親が藤原氏ではない井上皇后の息子となると、藤原氏の血脈はクォーターとなり、あまり勢力は奮えないかも・・・
そこで、良継・百川が推したのが、光仁天皇の第1皇子=山部(やまべ)親王です。
なんせ、この山部親王には、良継の娘も百川の娘も嫁いでいますから、将来、山部親王が天皇となって、自分の娘がその皇子を産んだりなんかしたひにゃ、ウハウハもんですがな。
・・・と、おそらくは、すでに、光仁天皇の即位後まもなく、そのような話が山部親王に持ちかけられた事でしょう。
なんせ、山部親王はすでに37歳・・・母親の身分の低さゆえ、それこそ、他戸親王に何事かがない限り、皇位が巡ってくる可能性はありません。
そして、光仁天皇の即位から2年目の宝亀三年(772年)・・・天皇に呪いをかけたとして、井上皇后と他戸親王は、ともに皇后と皇太子の地位を廃されたのです。
もちろん、これが、山部親王を含む、良継・百川の陰謀という証拠はありません。
もしかしたら、本当に、井上皇后と他戸親王は、天皇に呪いをかけたのかも知れません。
しかし、光仁天皇の即位に尽力した、もう一人の藤原氏=永手が、この前年に亡くなっている事、また、この後、幽閉された井上皇后と他戸親王が、3年後に揃って亡くなる事など、あまりのタイミングの良さに、疑わざるをえないのが現状です。
かくして、身分は低いけど第1皇子の山部親王が、他戸親王の代わりに皇太子となり、光仁天皇が73歳で崩御した後、天皇として即位するのです。
この方が、第50代・桓武天皇・・・ご存じ、長きに渡って都が置かれた奈良を離れ、長岡京(11月11日参照>>)、そして平安京へと遷都する天皇です。
そうです。
桓武天皇が、藤原氏から託された、その使命は、「政界から南都の仏教勢力を排除する事・・・」
その証拠と言えるのが、寺院の移転です。
これまで、都が明日香であろうが、藤原京であろうが、平城京であろうが、その遷都のたびに、都へと移転していた寺院を、すべて奈良に置いたまま、桓武天皇は京都へと遷都したのです。
今で言えば、政界を牛耳っている官僚を、東京においてきぼりにして、総理大臣以下、政治家だけを引き連れて、新たな首都で新政権を運営するようなもんでしょうか?(脱官僚??)
まさに一大改革だったのですね~
もちろん、現在でもおわかりのように、京都にもたくさんの寺院がありますが、それらは、新たに許可を得て建てた、最澄や空海に代表される新勢力の寺院ですよね(6月4日参照>>)。
よく、「京都のお寺と奈良のお寺は、なんとなく雰囲気が違うね」というお話を聞きますが、そこには、もちろん、奈良時代と平安時代という文化の違いもありますが、なにより、もともとの仏教勢力の違いにあるのかも知れません。
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コメント
茶々さん、こんばんは!
今日は光仁天皇即位ですか!
その子供が桓武天皇ですね
桓武天皇は『薄紅天女』という歴史ファンタジーの本にでてきて、小学生のころから坂上田村麻呂と同じく好きですw
桓武天皇は素晴らしい功績をたくさん残していて、才能ある素晴らしい方だと思います。
たぶん小学生も彼の名は知ってるでしょう。まあ、聖武天皇も知ってると思いますが。
1600年の今頃、もう三成は死んでるでしょうね…天国にいけてたらいいと願います。
長々とスミマセンでした
投稿: 暗離音渡 | 2010年10月 1日 (金) 22時48分
暗離音渡さん、こんばんは~
個人的には、桓武天皇は、怨霊にビビリまくってる姿をまず想像してしまいますが、どうして…なかなか大胆な行動力のある人ですね。
>1600年の今頃…
小西行長もですね。
投稿: 茶々 | 2010年10月 1日 (金) 23時10分
そういえば首都移転論も自民党政権時代には言われてましたね。いまはさっぱりです。
投稿: 黒駒 | 2010年10月 2日 (土) 08時14分
黒駒さん、こんにちは~
そうですね。
一時は、首都・東京に地震が来たら…なんて話から、政府の機関を分散したほうが…
って事も言われていましたが、今は、すっかり聞かなくなりましたね。
投稿: 茶々 | 2010年10月 2日 (土) 11時25分
茶々さんこんにちは。
脱官僚。
私見ですが、平安京以降藤原氏という官僚が一人勝ちで、仏教勢力や橘氏など他官僚は没落…
と考えると、100パーセント脱官僚じゃないし、今も財務省官僚の一人勝ちで他省は陰が薄いので実は似たようなものかも?と思ってしまいました。
ただ、藤原氏は氏の集団なので何でもある程度やれ実務で支障ありませんが(無能でない限り)、財務省官僚が何でもできるわけじゃなく…。
この間の尖閣の事件でも、脱官僚で外務官僚が蚊帳の外、しかし政治家で中国とパイプのある人がいなく右往左往。挙句、「これで恩が売れるだろう」という甘い見通しで船長開放、という笑えない顛末も漏れてくるくらいなので、なんだか脱官僚が迷走してるようですね。
早くまともな脱官僚を見せて頂きたいものです。
投稿: おみ | 2010年10月 4日 (月) 14時43分
おみさん、こんばんは~
なかなか、スパッとやるのは難しいのでしょう。
確かに、この間の船長の一件は右往左往って感じでしたね。
投稿: 茶々 | 2010年10月 4日 (月) 18時22分
井上を淀君、他戸を秀頼として、山部、白壁、藤原を家康、秀頼・・としてみると、ここはやはり滅ぼされたものと見えます。奈良時代の歴史は怨霊や白亀など、まるで小説の世界。となると、本当の歴史は、実は壬申の乱として、移されて書かれているのではと疑うのですが。ここは最大の反乱ですよね。壬申の乱の記述はあの時代としてはあまりに詳しすぎます。ほかのことは、天皇はいつからかとか、ほとんどわからないのに、これだけはどうしてなのかです。
投稿: いしやま | 2014年1月16日 (木) 19時59分
いしやまさん、こんにちは~
そうですね。
そう言えば、継体天皇の磐井の乱>>も、そんなに昔の話ではなく、記紀編さんの少し前にあった出来事を、時代を置き替えて書いてる…なんてお話もありますね。
壬申の乱はその時代の皇室の正統性を決める出来事ですから、編纂者もリキが入るでしょうね。
投稿: 茶々 | 2014年1月17日 (金) 10時34分
こんばんは、茶々さん。
淳仁天皇の続きでこちらを見ていましたが、奈良と平安だと全然違います。それもある意味で言いますと光仁天皇、桓武天皇によってできたのかなと思いました。
でも不思議なのですが、南北朝の時もそうですけど何だか皇室の伝統でしょうか。直系と言いますか本来の系統に戻っています。何か不思議なパワーを感じます。
ところで天武系の子孫はどうなったのでしょうか?
親戚に天武系の子孫みたいなのがいますけどあまり親しくないので詳しく聞いたことが無いです。
でも何だか親戚が天智系、天武系に分かれていますとあまり歴史で偏ってしまう嫌われてしまうので、あまり言えないと思います。
その事からも天武系の政治が悪政とは思えないですが、時代が天智系に戻させたのかと思っています。
ただ南都と北嶺に分裂させたのは結構桓武天皇は仏教界を分断させたと感心します。
投稿: non | 2015年5月13日 (水) 00時03分
nonさん、こんばんは~
天武系は直系が途絶えて枝分かれしたりして消息がよくわからない方もいますね。
はっきりしているのは、清少納言や奥州藤原氏が有名な清原氏くらいじゃないでしょうか?
投稿: 茶々 | 2015年5月13日 (水) 01時38分
茶々さん、こんばんは。
以前平城宮遺跡で案内の人から聞いたのですが、政治的には光仁天皇から平安時代だと言っていました。
光仁天皇、桓武天皇は大の平城京嫌いだとその人は言っていました。
奈良時代は称徳天皇の崩御で終わったと言っていました。
それを考えますと井上内親王、他戸親王の失脚は前もって考えられたのかなと思いました。
多分光仁天皇と百川の二人三脚で決まった感じがします。
それで桓武天皇が京都に都を遷したのも光仁天皇の遺志もあるのかなと思いました。
投稿: non | 2015年6月20日 (土) 21時57分
nonさん、こんばんは~
>政治的には光仁天皇から平安時代…
はい、私も、そう思います。
都のある場所うんぬんよりも、100年続いた天武系から天智系への移行が転機だったと思いますね。
投稿: 茶々 | 2015年6月21日 (日) 00時43分
茶々さん、こんにちは。
体調が悪いので短文になりますが、桓武天皇もそうですが父の光仁天皇も良継、百川兄弟を重用しています。恩もあると思いますが能力も伯父の房前、父の宇合に似てかなり有能なのではと思いますが如何でしょうか?
投稿: non | 2019年3月16日 (土) 15時37分
nonさん、こんばんは~
一大転換期ですから、きっと有能な人をチョイスしたのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2019年3月17日 (日) 04時35分