江戸幕府の農民支配~五人組制度
寛永十四年(1637年)10月26日、江戸幕府が五人組制度を強化しました。
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江戸時代の身分制度で「士農工商」というのが有名ですが、実際には、その農民の中にも身分制度がありました。
検地帳に記載された田畑を持つ本百姓(ほんびゃくしょう)、
田畑を持たず、日雇いでの小作をする水呑百姓(みずのみびゃくしょう)
本百姓の下で働く名子(なご)などの隷属農民です。
村は、本百姓を中心とする五人組で形成され、その運営は、この五人組の代表である名主(なぬし・庄屋または肝煎とも)、名主を補佐する組頭(くみがしら)、名主と組頭を監視する百姓代(ひゃくしょうだい)、の村方三役がこなしました。
これらの役職は、ほとんど世襲ですが、時には協議や入札される事もあったのだとか・・・。
そんな村内では、年貢の納入や村の共同経費の負担、犯罪防止などのいわゆる自治的活動は五人組単位で行われ、五人組は互いの五人組を双方で監視するシステムとなっていて、隠れキリシタンなどが発覚した場合は連帯責任を負わされました。
もちろん、農民のトップである名主の上には、領主である大名に代わって彼らを統轄する代官と呼ばれる幕府役人がいたわけですから、この五人組制度の確立は、まさに、江戸幕府の支配体制が、庶民の末端にまで浸透した事を意味します。
五人組制度自体は、14年前の徳川家光が第3代将軍に就任した元和九年(1623年)に始まってはいましたが、ここに来ての更なる強化というのは、2年前の寛永十二年(1635年)に参勤交代制度を確立させて、武士への支配体制を完成させた幕府ではあったものの、あまりの重税に、ポツリポツリと出始めた農民たちの不満を押さえつけるがための政策だったようにも思えます。
現に、この同じ年の、まさに同じ頃、九州では天草四郎率いる島原の乱が勃発しています(10月25日参照>>)。
島原の乱は、宗教の名を借りつつ小西行長の元家臣が指揮した反乱ですが、実際の参加者のほとんどは、重税に苦しむ農民でしたから・・・。
その負担はとにかくスゴイ!!!
田畑や屋敷にかかる本年貢は40%~50%くらいで、当時は収穫高に応じて決められる検見(けみ)法と、一定期間同じ比率で計算する定免法(じょうめんほう)があり、米か貨幣で納めねばなりませんでした。
これ以外にも、田畑以外での副業的収入があった時は、当然のごとく、その分の税金=小物成(こものなり)が加算されます。
また、このような、直接支払う税以外にも、幕府が行う土木工事に駆り出さる国役(くにやく)や、街道交通に人馬を出す伝馬役(でんまやく)、宿駅に応援に出る助郷役(すけごうやく)などの労働の納税がありました。
もちろん、これらの事を徹底管理するのは、管理する側も大変・・・
なので、幕府は、長年に渡って管理しやすいように、田畑の永代売買を禁止して本百姓は本百姓のまま、土地を失って水呑百姓にならないようにしたり、兄弟が分割相続して、その管理がややこしくならないように分地制限令を出したりしました。
その田畑の使い道も、勝手にタバコや綿花・菜種などを作らせないために田畑勝手作りの禁止令を出し、作れる物は米・麦・黍(きび)・粟(あわ)・豆だけに制限していたのです。
・・・で、さきほど書いたように、これらの事をちゃんと守っているかどうかを、お互いの五人組同志で監視させるというわけです。
まさに、五人組制度の強化は、末端の農民の生活までをも幕府が支配するシステムの象徴だったという事になります。
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コメント
茶々様、初めまして。日本史大好き河内式部と申します。最近こちらにたどり着き、夢中であちこち拝見いたしました。
実家は名前のとおり京阪沿線です。同じ大阪にゆかりのある大好きな和泉式部からいただきました。
この夏三年振りに実家に帰った時、偶然立派なお屋敷の前を通りかかり、びっくりしました。帰って調べたら「もりぐち歴史館、旧中西邸」というのだそうです。府下唯一現存の武家屋敷で(?)、松平家ともご縁のある由緒ある家系らしいのですが、ネットではあまり詳しくわかりません。ぜひ実際訪ねたいのですが、次に帰れるのはまた二、三年先なんですよね。
ちょうどこの時代の建物かと思い、お庭に年貢の米俵が積まれたところが思い浮かびました。
これからもブログ更新楽しみにしています。
投稿: 河内式部 | 2010年10月27日 (水) 23時23分
河内式部さん、はじめましてo(_ _)o
「もりぐち歴史館」という事は守口市にあるのでしょうか?
以前、守口周辺の文禄堤などを散策し、本家のHPにも写真等を公開しているのですが、「旧中西邸」というのは知りませんでした。
きっと、名主さんか組頭クラスのお家だったんでしょうね。
また、お暇な時に、ブログに遊びに来てくださいませ。
投稿: 茶々 | 2010年10月28日 (木) 03時22分
最近は孤独死が問題になっているので、団地とかでこれを応用した「安否確認」のための、「フロアサークル」があるといいですね。
例えばマンションのオーナー・大家が代表で、各階の責任者を決めて高齢者の単身世帯がある階で定期的に訪問する。
最近では都市部の町内会が機能していないようです。
町内会は「五人組」の名残りですね。
投稿: えびすこ | 2010年10月28日 (木) 10時30分
えびすこさん、こんにちは~
そうですね。
相互監視…ではなく、相互に連絡を取り合うのは良いかもしれません。
ただ、個人情報保護法がねぇ…アレのために200歳のお年寄りまで生存してしまう始末ですww
投稿: 茶々 | 2010年10月28日 (木) 12時01分
>幕府は、長年に渡って管理しやすいように、田畑の永代売買を禁止して本百姓は本百姓のまま、土地を失って水呑百姓にならないようにしたり・・・
とありますが、実態は違いますね。
金を貸してその質に取った土地を元の百姓に貸して小作人とした、質地地主というものがいました。戦後まで続いた多くの豪農と言われた人達は、本百姓ではなく、質地地主です。
現在の農地委員会は、戦後それらの小作から開放された農民が支配していますが、農業の近代化を遅らせています。
将来の歴史家は、『暗黒の農業委員会制度』と、揶揄するかも知れませんね^^
投稿: | 2011年3月25日 (金) 06時50分
おはようございます。
>質地地主
寄生地主みたいな感じですか?
いつの時代も法の網をくぐりぬける術を人は考えるものですね。
投稿: 茶々 | 2011年3月25日 (金) 07時56分
茶々様
五人組からGHQにより解散させられた隣組制度などの体質は今も村の自治会には根深く残っています。とりわけゴミ収集では村の自治会の力が強く、役場では自治会を通してゴミ収集を図っているため地域での個人拘束が強くあるのが現状です。市町村の施策として新たなコミニュテイをといいますが、まず村の自治会のあり方を検討していく必要があります。五人組・隣組の歴史を役場の職員は学ぶ必要があります。
投稿: 銀次 | 2011年4月10日 (日) 04時45分
銀次さん、こんにちは~
地方は特に、色々な事がまだまだ根強く残っているのでしょうね。
結束が固いのは、良い事でもある一方で、時代にそぐわない部分もあるかも知れません。
投稿: 茶々 | 2011年4月10日 (日) 17時20分