「荒城の月」のモデルの城は?~土井晩翠の告白
昭和二十七年(1952年)10月19日、明治の中頃から昭和にかけて、イギリス文学者・詩人として活躍した土井晩翠が、80歳でこの世を去りました。
・・・・・・・・
土井晩翠(どいばんすい・つちいばんすい)さん
・・・と言っても、それこそ、その道の専門的なお勉強をなさっている方以外は、
「誰っ?」「何した人?」
という感じでしょうね。
格言う私も、その一人ですが・・・
しかし、
滝廉太郎(たきれんたろう)の「荒城の月」と言えば、それこそ、音楽の授業で、日本の近代音楽の代表的な歌として、大多数の方がご存じのはず・・・
そう、
この荒城の月の作詞者が土井晩翠さんです。
♪春高楼(こうろう)の花の宴(えん) 巡る盃(さかづき)影さして
千代の松が枝(え)分け出(い)でし 昔の光今いづこ ♪
高楼とは高い建物・・・ここでは、天守閣のような・・・
そこでは、春になると花見の宴が開かれ、主君・家臣が入り乱れて「ご返杯」とばかりに回し飲み・・・その盃には、美しい月が映り込む。
しかし、今は永年の松が枝を張るのみ・・・その枝を分けて昔の面影を探すけれど、かつての栄華は今どこに・・・
物悲しくも美しいメロディと、見事にマッチした哀愁そそる歌詞は、今聞いても心に響く名曲ですが、やはり、歴史好きとして知りたいのは、この「荒城」とは、いったいどこなのか?という事・・・
現在、歌のモデルとなった城とされる場所は全国に5ヶ所あります。
まずは、大分県竹田市の岡城址・・・
こちらは、敷地にある歌碑以外にも、近くの豊後竹田駅にて、列車の到着を知らせるメロディに「荒城の月」を使用するほか、車が走るとメロディが流れる道路があったり、その名も「荒城の月」というお土産の和菓子があったりと、かなりの盛り上がりっぷりですが、実は、ここは、作曲者=滝廉太郎の出身地。
廉太郎は、地方官だった父親が非職となり、故郷の大分に戻った事で、小学校の途中からこの大分は竹田の地にやってきて、ここで高等小学校を卒業し、15歳で東京の音楽学校に入学します。
しかし、21歳で肺結核となり、再び大分にて療養生活を送り、明治三十六年(1903年)の6月29日にわずか23歳で亡くなるまで、この大分で過ごしたのです。
少年期に荒廃した城跡で遊んだ思い出が、この曲のイメージを構成しているとも考えられますね。
そして、もう一つの滝廉太郎ゆかりが、富山県富山市の富山城址・・・
廉太郎のお父さんの仕事の関係で、上記の竹田の前にいたのが富山・・・廉太郎が小学校1年から3年までの多感な時期を過ごした場所で、ここには城の西側に歌碑があります。
しかも、彼の通っていた小学校が富山城の敷地内にあった事や、ここで父親の非職による転校という、子供心にはつらい出来事もあり、それが荒廃した城のイメージと重なるのでは?という事だそうです。
・・・と、確かに、歌である以上、曲のイメージのモデルも、モデルなわけですが、やっぱり気になるのは、歌詞を書いた土井晩翠さんのイメージの出どころ・・・
そこで、晩翠がモデルにしたであろう場所の一番に挙げられるのは、やはり、彼の故郷である宮城県仙台市の青葉城・・・
仙台の北鍛冶町の質屋の息子として生まれた晩翠は、若き日に文学少女だった祖母の影響を受けて、小学生の頃から文学に興味を持ち、その後、第二高等中学校を出てから東京の帝国大学に入学・・・やがて、発表した詩集が評判を呼び、島崎藤村と並び称される詩人となります。
その後、英文学者として翻訳などを手掛けたりしながらも、母校の木町通小学校をはじめ、全国各地のたくさんの学校の校歌を作詞した事でも有名です。
そんな仙台では、かつては駅前の百貨店から、毎日「荒城の月」が鳴り響いていたのだとか・・・
また、かの伊達政宗(だてまさむね)が、もともと「千代」と書いて「せんだい」と呼んでいたこの地を、「仙台」に書き改めたものだという事で、歌詞に出てくる「千代」は、仙台を暗に示しているとも言われ、歌詞のモデルの第1候補と考えられて歌碑が建立されているのです。
また、仙台在住当時の晩翠が、よく立ち寄ったとされる岩手県二戸市の九戸(くのへ)城址もモデル候補の一つで、ここにも歌碑があります。
もともと、
♪秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁(かり)の数見せて
植うる剣(つるぎ)に照り沿ひし 昔の光今いづこ♪
という2番の歌詞・・・
ここに登場する雁が、東北から北陸にかけての地方で越冬する渡り鳥である事や、この部分が、上杉謙信が七尾城攻略の時に詠んだ「九月十三夜」
♪霜は軍営(ぐんえい)に満ちて
秋気(しゅうき)清し
数行(すうこう)の過雁(かがん)
月三更(さんこう)♪(9月13日参照>>)
の複数のキーワードを踏まえている事から、なんとなく、東北か北陸の城のイメージが強い歌詞なのですが・・・
そんな中、5ヶ所めの候補地が、あの会津若松鶴ヶ城です。
・・・とは言え、若松城も東北の城ではあるものの、上記の4ヶ所の城のように、作者ゆかりの・・・という物はなかったのですが、これが、ある出来事で一変します。
ご存じのように会津には、あの戊辰戦争(9月22日参照>>)で壊滅状態となった中でも、有名な白虎隊の悲話があります。
今も、彼らが自害を遂げた飯盛山には、白虎隊記念館という歴史館が建っているのですが、その創立者である早川喜代次さんという方が、かねてからの知人であった土井晩翠夫妻を会津に招待した事があったのです。
それは昭和二十一年(1946年)の事・・・
戦後の荒廃した雰囲気の残る中、何か明るい話題で暗いムードを一新しようと考えた早川さんが、この年が、晩翠が「荒城の月」を作詞してから48年目の年に当たる事から、晩翠夫妻を迎えての「荒城の月作詞48周年記念音楽祭」なる物を企画し、開催したのです。
11月3日・・・当日の参加者・数千名による「荒城の月」大合唱のあと、挨拶を求められた晩翠が、おもむろにスピーチしはじめたのですが・・・
「今、皆さんがたが歌ってくださった私の荒城の月の基は、皆さま方のあの鶴ヶ城です」
と・・・
「えぇーっΣ(゚д゚;)━━!!」
まさに、寝耳に水!びっくり仰天!
もちろん、音楽祭を開催しようと提案した早川さん自身も、まったく、その事は知らなかったのです。
晩翠が、東京音楽学校からの依頼を受けて、この「荒城の月」を作詞したのは明治三十一年(1898年)=28歳の時・・・その時、真っ先に思い浮かべたのが、数年前に、二高の修学旅行で会津を訪れた際に間近に目にした鶴ヶ城の美しくも悲しい荒城の姿だったのだと・・
もちろん、故郷の青葉城をはじめ、今まで訪れた事のある城も思い浮かべはしましたが、彼の心を最も動かしたのは、たった一度っきりの鶴ヶ城の鮮烈な印象だったのです。
このスピーチに感激した早川さんら有志によって、現在の鶴ヶ城内にも歌碑が建立されています。
しかし、だからと言って、鶴ヶ城以外の城を「モデルではない」と一蹴してしまう事はいただけないでしょう。
晩翠が言うように、鶴ヶ城を思い浮かべながらも、他の城の事も考えつつの作詞です。
おそらく彼は、この国を、そして、この国の歴史を愛する者の一人として、日本の各地に残る古城すべてに当てはまるように、その歌詞を造ったに違いありません。
だからこそ、歌詞だけでは、どの城かが特定できない仕上がりになっているのでしょう。
それは、曲を作った廉太郎も同じ・・・
全盛期も、荒廃した姿も、ともに美しい日本の城・・・人が、その姿に感動するのは、命を賭けてこの国の歴史を造り上げて来た先人たちの勇姿を、そこに見る事ができるから・・・。
自分が感動したように、日本のすべての人が、日本の各地の古城を見て感動してほしい・・・晩翠と廉太郎のそんな思いが伝わってくるような気がします。
しかし、ここのところ、こんな美しい歌が音楽の教科書から消え、若者に親しみやすいJ-POPに変わりつつあるのだとか・・・
確かに、J-POPも歌って楽しいでしょうが、こちらは、楽しいだけではない「日本の心」が刻み込まれています。
どうか、その「心」を大切に、いつまでも歌い継がれて欲しいものです。
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コメント
鶴ヶ城、夏に訪れました。
荒城の月の石碑も見ましたが、こういう謂われがあったんですね。
仙台出身の土井晩翠が?と思っていたのでうが、謎が解けました。
投稿: 桃源児 | 2010年10月19日 (火) 21時31分
桃源児さん、こんばんは~
>仙台出身の土井晩翠が?と思っていたので…
そうですよね?
でも、言われてみると、特に明治の頃の鶴ヶ城は、「荒城」って感じだったでしょう。
投稿: 茶々 | 2010年10月20日 (水) 00時12分
母の話では、戦前、紀元2600年云々ということもあって高島はどこだと全国で誘致、いや認定合戦があったそうです。
もめるのであまり認定合戦に加わらなかった岡山の児島湾の高島に決まったとか??
関連のゆかりの日が、もしあったら記述お願いしますとか??勝手な書き込みで済みませんでした。
投稿: syunchan | 2010年10月20日 (水) 06時49分
syunchanさん、こんにちは~
ゆかりの地とかっていうのは、とかく争奪戦になりますね~
記念の地の誘致というか、観光客の誘致なんでしょうが、今も、大河ドラマのご当地の誘致合戦が行われてますからね~。
投稿: 茶々 | 2010年10月20日 (水) 14時29分
こんばんわー。
私も若松城に行ったとき歌碑を見て(その前に仙台でも見ていて晩翠は仙台出身と知っていたので)「あれ、なんでここにあるんだ?」と思いました。
仙台の百貨店で荒城の月ですかぁ。それは知りませんでした。閉店のときの音楽でしょうか?どこの百貨店か気になります。私もこの歌好きですが、さすがに百貨店であの物悲しい曲を流すと売り上げが落ちるような・・「荒城」ですし・・(^^;
昔、音楽の教科書で載っていた曲だと「箱根八里」が特によかったです(これも滝連太郎)。今でもフルコーラスで歌えます。
古い歌もいいと思うんですけどねえ。
投稿: おみ | 2010年10月24日 (日) 00時45分
おみさん、こんばんは~
百貨店は、当時は「丸光」…現在はさくら野百貨店というところだそうで、10時12時15時17時の一日4回鳴ってたそうですよ。
私も、実物を聞いてないので、なんとも言えませんが、確かに、曲調が物悲しいので、その時の周囲の雰囲気が気になりますね~
投稿: 茶々 | 2010年10月25日 (月) 02時28分
この記事を参考にしたいのですが、参考文献など教えていただけたら幸いです。
投稿: みゅー | 2010年11月 8日 (月) 23時06分
みゅーさん、こんばんは~
昭和21年11月3日のイベントでのスピーチのお話は、PHP文庫の中村彰彦氏の「戦国時代の裏を読む」で知りましたが、それ以外は、複数の新聞雑誌等で調べさせていただきました。
「荒城の月」で検索すれば、ネットでもかなりの情報が得られるのでは?と思います。
何か発表されるのでしょうか?
頑張ってくださいね。
投稿: 茶々 | 2010年11月 8日 (月) 23時53分
お返事ありがとうございます!
投稿: みゅー | 2010年11月 9日 (火) 00時29分
この記事が「最近の人気記事ランキング」の、2017年6月14日時点でのベスト10に入っている理由は何でしょう?
「滝廉太郎の命日が近い」という理由以外では思いつきません。意外な記事がランクインしていて驚きました。
投稿: えびすこ | 2017年6月14日 (水) 17時05分
えびすこさん、こんばんは~
このページは、毎日コンスタントに一定の閲覧数あるページで、「今の時期に特別多かった」というよりは、「他のページの閲覧数との関係で、この日にランキングに入った」という感じなんです。
投稿: 茶々 | 2017年6月15日 (木) 00時59分