今川を支えた黒衣の宰相・太原雪斎
弘治元年(1555年)閏10月10日、今川家の軍師で臨済寺住持でもあった太原雪斎が60歳でこの世を去りました。
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太原雪斎(たいげんせっさい・崇孚=そうふ)・・・言わずと知れた今川義元の参謀です。
臨済宗の僧侶からの転身という事で、異色の経歴とされますが、彼の父・庵原左衛門尉(いはらさえもんのじょう)は今川家の重臣だったので、もともと、今川家には縁のあった人です。
駿河(静岡県東部)の善徳寺で修行し、その後、京都の建仁寺でも修業を積んだ雪斎が、駿河の戦国大名・今川氏親(うじちか)から呼び出されたのは大永二年(1522年)の事でした。
それは、その氏親が正室との間にもうけた三男坊・芳菊丸の教育係として・・・未だ万全な教育機関がなかった当時は、武将の子弟の教育を寺院に任せる事も少なく、まして芳菊丸には同じ正室から生まれた兄が二人もいるのですから、武芸より勉学に重きを置く事も当然かも知れません。
こうして、訪れた二人の出会い・・・この時、雪斎は27歳、芳菊丸は8歳でした。
雪斎は芳菊丸を連れて、何度か京都を訪れ、妙心寺や建仁寺で、ともに修業に励みました。
やがて雪斎に導かれた芳菊丸は、梅岳承芳(ばいがくしょうほう)と称し、何事も無ければ、このまま立派な僧としての一生を歩んでいたのかも知れません。
しかし、天正五年(1536年)・・・人生の転機はいきなり訪れます。
10年前に亡くなった父・氏親の後を継いで、今川家の当主となっていた兄・氏輝(うじてる)が急死・・・しかも、その弟の彦五郎も、同じ日に急死します。
兄弟二人が同じ日に・・・という不可解極まりない死であるがゆえに、昔から毒殺説や自殺説など、様々に推測されてはきましたが、未だに、記録として残るのは、「死んだ」という事実のみで、その死因についてはわかっていません。
とにかく、三男だった梅岳承芳にとって、二人の兄が同時に亡くなった事になります。
しかも、兄・氏輝の死の直後、当時、照光院(しょうこういん)の住職をしていた玄広恵探(げんこうえんたん)が「我こそは今川の後継者!」と名乗りを挙げたのです。
彼は、梅岳承芳の父・氏親の側室の子・・・つまり異母兄という事になります。
この時、氏親の正室だった未亡人・寿桂尼(じゅけいに)は、未だ健在ですから、もちろん「我が子に後を継がせたい!」とばかり動きます(3月14日参照>>)。
こうして勃発したのが花倉の乱(6月10日参照>>)と呼ばれる今川家の後継者争いですが、ここで、今川の家臣のほとんどを味方に引き入れて敵を孤立させ、見事な勝利に導いたのが、他ならぬ雪斎だったと言われていて、この時のあまりの手際の良さに、今川一門や家臣団は、皆、彼の事を尊敬するようになったのだとか・・・
こうして、乱に勝利して今川の家督を継ぐ事になった梅岳承芳・18歳・・・この時から、今川義元(よしもと)と名乗ります。
早速、義元は居館である今川館の近くに臨済寺(りんざいじ)を創建し、雪斎を住職に据え、自らの補佐役として、日々、館へ通わせ、政治面、軍事面、外交面など・・・この先、あらゆる方面で雪斎のアドバイスを仰ぐ事になるのです。
そんな雪斎の強みは、なんと言っても僧という立場・・・普通、A国の要人が敵対するB国の赴けば、殺されてしまう事が多いですが、出家した人は俗世界から「無縁の人」とされ、命の安全が保障されていたのが当時の価値観・・・。
雪斎は、それをフルに利用して自由に敵国との間を行き来して外交交渉を行ったのです。
交戦状態にある甲斐(山梨県)に赴いて、武田信虎の息子(後の信玄)に京都の公家で清華七家の一つである三条家の姫をあっせんして接近し、逆に、信虎の娘(後の定恵院)を義元の正室に迎えて両家を結びつけたりしました。
後に「甲相駿(きうそうすん)三国同盟」(3月3日参照>>)と呼ばれる義元と武田信玄と北条氏康の3者の同盟が実現するのも、各領国を行き来して、宗教的人脈をフル活用した雪斎の尽力に寄るところが大きいと言われています。
しかし、一方では、法衣の上に鎧をまとい、自らが戦場に出て奮戦する人でもありました。
普通、僧が戦場に赴く時は、軍師としてブレーンとして従軍するというのが一般的でしたが、雪斎は、自らが実質的な司令官として参戦し、最前線で戦うのです。
織田信虎の息子・織田信広の三河安祥城(愛知県安城市)を攻めた時にも、今川方の大将として奮戦して、見事、信広を生け捕りにしたかと思うと、今度は、逆に僧としての利点をフル活用して織田家との交渉を重ね、以前、織田方に拉致されていた松平家のお坊ちゃん=竹千代(後の徳川家康)(8月2日参照>>)との前代未聞の人質交換を成功させています(11月6日参照>>)。
しかし、このあまりに優れた才能で「神のごとき智謀」と称された参謀の存在こそが、義元の不幸を招いてしまったという見方もあります。
たとえば、
『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』では、あの武田の軍師・山本勘助の言葉として・・・
「今川家の事…悉皆坊主(しつかいぼうず・雪斎の事)なくてはならぬ家」
と、書き残しています。
つまり、何もかもを雪斎の指示をあおぐ事で決断して来た義元や今川の家臣たちには、危機管理能力が育たなかったのではないのか?という事です。
ご存じのように、永禄三年(1560年)、義元は、あの織田信長の奇襲によって、桶狭間にて命を落とす(5月19日参照>>)事になりますが、それは、この弘治元年(1555年)閏10月10日に雪斎が病死してから、わずか5年目の事でした。
やはり、雪斎の存在がなかった事で、義元は見誤った・・・という事なのでしょうか?
ちなみに、2007年の大河ドラマ「風林火山」では、伊武雅刀さん演じる雪斎の最期のシーンが、未だ人質時代の家康少年が怪しい雰囲気で運んで来たお酒を飲んだ後に、野卒中を連想させる高いびきをかいて亡くなるという、毒殺とも、お酒の飲みすぎによる病死ともとれるような描き方でしたが、雪斎は高僧でもありますので、たぶんお酒は飲んでいなかっただろうし、「飲んでいた」とする史料もなかったように思います。
また、家康が人質生活を送っていたのは、今のところ、三河吉田(愛知県豊橋市)とする説が有力で、そうなると、この当時、義元や雪斎のそばにはいなかった可能性か高いと思われているようです。
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コメント
こんにちは。アニメだと雪斉と少年家康と接点があったように描かれていますね。児童向けの日本史にも。
今川氏の滅亡は、義元の公家趣味もあるようですね。武将より僧侶の方が幸せだったかも。
投稿: やぶひび | 2010年10月10日 (日) 12時56分
やぶひびさん、こんにちは~
>アニメだと雪斉と少年家康と接点があったように描かれていますね。児童向けの日本史にも。
いくつかの文献に、「人質時代の家康が雪斎から兵法を習った」という事が書かれていますので、「接点があった」という見方をするのも間違いではないと思いいます。
ただ、本文に書かせていただいたように、最近の研究で、家康の住んでいた場所と時期が特定されつつあり、「それだと可能性が薄い」って事のようです。
投稿: 茶々 | 2010年10月10日 (日) 13時16分
晩年には人質・竹千代時代の徳川家康の教育係だったという有名な逸話でしたが、少年期の家康は駿河ではなく三河にいたんですか?これは意外。
投稿: えびすこ | 2010年10月10日 (日) 17時58分
えびすこさん、こんばんは~
>少年期の家康は駿河ではなく三河に…
最近はその説が有力なようです。
まぁ、歴史は日々書きかえられるので、また、別の説が登場するかも知れませんが…
投稿: 茶々 | 2010年10月10日 (日) 23時15分
こんばんは。
家康は織田家から今川家の人質になって、駿府に
行ったのかと思っていました。三河にいた方が、
生まれ育った所だし、優遇されていたのかな。
投稿: やぶひび | 2010年10月11日 (月) 23時36分
やぶひびさん、こんばんは~
>三河にいた方が、生まれ育った所だし、優遇されていたのかな。
どうでしょうね?
義元に近しい築山殿を奥さんに貰ってるし、意外と優遇されていたようにも思いますが、服属というのは、それだけで屈辱的な物ですから、どんなに優遇されても、家康の心境は穏やかではなかったでしょうしね。
投稿: 茶々 | 2010年10月12日 (火) 00時25分