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2010年10月18日 (月)

家康とともに半世紀…四天王・本多忠勝

 

慶長十五年(1610年)10月18日、徳川四天王の一人としてその名を残す本多忠勝が63歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

♪家康に 過ぎたるものが 二つあり
  唐
(から)の頭(かしら・兜)に 本多平八♪

Tokugawaieyasu600 と敵将からも絶賛された徳川家康の家臣の中の家臣・・・本多平八郎忠勝(ほんだへいはちろうただかつ)は、もはや、ほとんどの方がご存じの人物だとは思いますが・・・

三河(愛知県東部)に生まれた忠勝は、当時、今川家の人質(11月6日参照>>)となっていた6歳年上の家康に、10歳の時に小姓として仕えはじめました

12歳の時に、家康の烏帽子親で元服し、忠勝と名乗ります。

その翌年起こったのがあの桶狭間の戦い・・・(2007年5月19日参照>>)

この時、まもなく今川義元の本隊が到着するであろう大高城への兵糧の運び込みを任された家康とともに(2008年5月19日参照>>)・・・いや、その家康の前に陣取り、馬印を掲げて先頭を進軍したのが忠勝でした。

これが、忠勝の初陣・・・まさに、家康の新たな人生のスタートとともに、忠勝も、武将としての人生をスタートさせたのです。

その後、彼が16歳の時に勃発したのが、徳川家臣団を真っ二つに分けた、あの三河一向一揆です(9月5日参照>>)

この時、多くの本多一族が敵に回る中、忠勝は、一向宗(浄土真宗)から浄土宗に改宗してまで、家康の味方となって奮戦しました。

その事が功を奏したのか・・・その3年後には、騎士・50余名を付けられて、旗本部隊の先陣の一翼を担う武将となります。

元亀元年(1570年)の姉川の合戦でも、大勢が入り乱れる中で織田信長の目に留まるほどの活躍をする忠勝でしたが、なんと言っても、その名声を高めたのは、元亀三年(1572年)・・・あの武田信玄が遠江(とおとうみ・静岡県西部)へ進攻してきた時です。

有名な三方ヶ原の戦いの前哨戦とも言える一言坂の戦いで、敵将をも魅了する見事な戦いぶり・・・冒頭の有名なフレーズは、この時、忠勝の勇姿を目にした信玄の家臣・小杉左近が残した言葉です(10月13日参照>>)

他にも、小牧長久手の戦い(4月9日参照>>)の時、家康軍が池田恒興(つねおき)森長可(ながよし)を相手にしている間、挟み撃ちに遭わないよう羽柴(豊臣)秀吉の本隊=8万の軍勢に、わずか500人を率いて牽制をかけた勇姿を見た秀吉が、後の小田原征伐で一緒になった際、佐藤忠信(源義経の忠臣)(12月20日参照>>)兜を与えたという逸話も残ります(4月9日参照>>)

もちろん、ここまで敵を魅了する忠勝の活躍はまだまだ・・・あの本能寺の変の直後、一番近くにいた家康に、「すぐにでも明智を討つべき!」「このまま明智勢に見つかって討たれるくらいなら死を選ぶべき」と、動揺した近臣が右往左往の進言をする中、冷静に伊賀越え(6月4日参照>>)を提言したのが忠勝だったとも言われます。

また、軍神に見守られているがごとき強運も、忠勝の魅力・・・

最前線で奮戦するタイプの武将である忠勝は、本来なら、具足の下に鎖入りの下着を着込むなどして安全を確保する物ですが、彼は、戦場での動きを重視して、そのような下着はつけず、具足もできるだけ軽い物にしていたのだとか・・・なのに、なぜか無傷で生還する・・・

先の一言坂の戦いもそうでした。

また、あの関ヶ原でも、島津の敵中突破を追撃した際、ともに行動した井伊直政(いいなおまさ)は銃弾を浴び、その傷がもとで命を落としますが、彼は無傷でした(9月16日参照>>)

やがて、世の中が徳川に向いて来た頃には、合戦で武功を挙げる武将よりも、政治に長けた武将が重用されるようになりますが、それでも、武勇の強の者という姿勢を崩さなかった忠勝・・・

彼が常々、家臣に言って聞かせたのは・・・
「わが本多の家臣は見た目の形から武士の正道に入るべし」
要は・・・
「家紋をつけなくても、身なりで本多の家臣とわかるようにしておけ」
って事らしいですけど、これって、いわゆる、形から入るタイプだったって事でしょうか?

いえいえ・・・彼は、こう続けます。

「烏帽子や狩衣(かりぎぬ)を着てる時と、具足や兜をつけた時とでは、その気持ちが違うやん。
着物の着方や、道具の持ち方もそれに合わせなあかん。
道具は新しくするんやなくて、ある物を使て・・・
烏帽子の時は、重々しくなりすぎんように、
けど、戦う時は、火のごとき闘志をあらわすように・・・」

そう、彼は、その人の見た目には、その人の心が現われるという事を言いたいのです。

その人の趣味嗜好、考え方が、服装に自然を溢れてくるものなのだから、「それを踏まえて着こなしなさい」と・・・

たぶん忠勝には、その人の服装を見ただけで、相手の器を見極める事ができたのでしょうね・・・それも、ピッタシ言い当てれるくらい。

戦場の最前線にて身軽な具足で奮戦しても無傷で生還・・・これは、彼が軍神に見守られている運なんかではなく、彼が、一目で相手を見極める軍神のごとき目を以って、冷静に観察していたという事なのかも知れません。

慶長十五年(1610年)10月18日、家康とともに生き、配下一番の勇将とたたえられた忠勝は、主君の天下を見届けるかのように、その生涯を閉じました。
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

あと5年生きていたら大阪の陣に従軍していたかも。ただ「夏の陣」時点で68歳なので、当時としてはかなりの高齢者だから微妙ですかね?
長年戦さに出て無傷と言うのはすごい!

投稿: えびすこ | 2010年10月18日 (月) 13時41分

えびすこさん、こんばんは~

ホント、平八さんはカッコイイですね~

投稿: 茶々 | 2010年10月18日 (月) 23時03分

「東の本多、西の立花」と言われていたと聞いたことがあります。まあ、戦国最強じゃないでしょうか?
あまりに強くて人間離れしていたせいか、「戦国BASARA」ではロボットになっていて城のカタパルトから発進していましたが・・・ファンには「ホンダム」と言われていました。
あまりに強烈で、忠勝というとどうしてもアレが思い浮かびます(笑

投稿: おみ | 2010年10月24日 (日) 00時52分

おみさん、こんばんは~

あまりにも最強だと、造り手もロボットにでもしたくなるんでしょうねww

強烈キャラですね。

投稿: 茶々 | 2010年10月25日 (月) 02時30分

今日の朝日新聞千葉面では、「本多忠勝の大河ドラマ化を実現する会」の代表の人が記事に出ていました。大多喜城の城主であったので、千葉県に縁があります。
「郷土の偉人を大河ドラマの主人公にしよう」と言う運動をしている人が、地元にもいる事を認識しました。篤姫や天地人は大河ドラマになるまで、10年くらい要したようですね。
先ごろ決まった再来年の主人公の新島襄・八重夫妻の場合は、地震の前から運動してた人がやはりいるんでしょうか?

投稿: えびすこ | 2011年6月29日 (水) 17時10分

えびすこさん、こんばんは~

ウチの地元は、400年記念の「大坂の陣」推しです。

経済効果がスゴイですからね~

今年は、「大阪城復興80年記念イベント」で盛り上がってます。

投稿: 茶々 | 2011年6月29日 (水) 23時12分

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