独眼竜の在るところ片倉小十郎あり~片倉景綱の死
元和元年(1615年)10月14日、伊達家の忠臣・片倉景綱が白石城にてこの世を去りました。
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独眼竜(どくがんりゅう)の在るところ小十郎の姿あり
と称された伊達政宗(だてまさむね)の側近中の側近=片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)・・・
とは言え、彼は伊達家譜代の家臣ではないどころか、もともと武人でもありませんでした。
彼の父親は、出羽国(山形県)米沢の成島(なるしま)八幡宮の神官・片倉式部景重(かげしげ)・・・ただ、遠いご先祖は、あの源頼朝(みなもとのよりとも)の伊豆での挙兵(8月17日参照>>)に従った武将で、敵の代官を討ちとる功名を挙げ「猪武者」なるニックネームのあった人だそうですから、その大いなる血脈が、体の片隅に眠っていたのかも知れません。
そんな眠れる猪の隠れた才能を見出したのが、政宗の父・伊達輝宗(てるむね)の側近だった遠藤基信(もとのぶ)(10月21日参照>>)・・・実は、彼もまた、伊達家譜代の家臣ではなく、その才能を見込まれて登用され、その都度功績を上げながら、ついに、伊達家の宿老にまで上り詰めた叩き上げでした。
おそらくは、神社で見かけた神官姿の少年に、自らの少年時代と同じ匂いを感じたのかも知れません。
ここで大抜擢された景綱少年は、輝宗の小姓となり、やがて誕生した輝宗の嫡男=梵天丸(ぼんてんまる・後の政宗)の傅(もり)役となります。
この時から、政宗より10歳年上の景綱は、まさに兄貴分として、お互いの善きところも悪しきところもを知り尽くすまでの関係になっていった事でしょう。
ところが政宗5歳の時、天然痘にかかってしまい、命こそ取り留めたものの、右眼は失明し、病毒によって晴れあがった顔面は眼球が飛び出んばかりの形相となってしまいます。
以来、政宗は人前に出る事を嫌がるようになり、その性格も、引き籠りのネガティブな少年に・・・しかも、そんな見た目を嫌った母・義(よし)姫は、長男の政宗を避け、次男の竺丸(じくまる・小次郎政道)ばかりを可愛がる始末・・・
自暴自棄に陥った政宗は、
「いっその事、この眼球を潰せ!」
と、側近たちに命じますが、もちろん、誰もが尻込み・・・そこで景綱
「ほな、俺が!」
と、小刀で・・・
「時ニ片倉小十郎景綱小刀ヲモッテ衝(つ)キ潰シ奉(たてまつ)ル」(性山公治家記録)
これ以降、政宗は、その暗い性格から脱し、前向きになったと言われていますが・・・
もちろん、名僧・虎哉宗乙(こさいそういつ)という超一流の家庭教師の導きもあったのでしょうが、この小刀の一件も本当ならば、その後の二人の信頼関係たるや、もはや計り知れない強さとなった事でしょう。
やがて天正十二年(1548年)、当主・輝宗は、義姫をはじめとする「後継者に竺丸推し」の面々を押さえ込んで、政宗に家督を譲ります。
そして、この時、輝宗は景綱に「政宗を頼む」と一言・・・
以来、景綱は、その生涯を賭けて、先代・輝宗の期待に違わぬ働きをする事になるのです。
不慮の出来事で、父・輝宗を死に追いやってしまった拉致事件(10月8日参照>>)・・・その弔い合戦となった人取橋(ひととりばし)の戦い(11月17日参照>>)では、未だ若さ丸出しのイケイケ作戦を展開し、一時は、政宗自身が鎧に矢を受け、銃弾5発を浴びせられるという窮地に立たされますが、この時、景綱は「我こそは政宗である!」と大将を装い、その盾となって政宗を守ったのだとか・・・
続く、摺上原(すりあげはら)の戦い(6月5日参照>>)でも、宿敵・芦名を相手に、景綱は第二陣の大将を務め、主君・政宗とともに激闘の戦場を駆け抜けています。
こうして、政宗は奥州66郡のうち、30余りを手中に収め、まさに奥州の覇王に手が届くか・・・という状況になりますが、ここで、政宗最大のピンチが訪れます。
そう、豊臣秀吉からの呼び出しです。
もともと、秀吉とよしみを通じていた芦名氏を滅ぼした事で、秀吉から「釈明に来てチョー」と呼びつけられていたのを引き延ばしていたうえに、ここに来て、秀吉が、北条の小田原城を攻めるため、政宗を含む各地の武将に参陣を呼び掛けたのです。
小田原攻めを手伝うべきか否か・・・なんせ、その芦名の一件がありますから、ここで、のこのこ出かけていけば、その命無いかも知れません。
会議では、側近の一人・伊達成実(なりざね)が、
「小田原へ赴いて断罪されるくらいなら、ここで徹底抗戦といきましょう」
と主張・・・多くの家臣が、その意見に賛成しますが、政宗が最も信頼する景綱は、会議では黙ったまま・・・
その日の夜、政宗は、密かに景綱の屋敷を訪ね、その意見を聞こうとします。
すると景綱・・・なにやら、右手で追い払うようなしぐさ・・・
「ホンマ、夏のハエは困りますなぁ~
追い払ろでも、追い払ろても、また、群がって来ますわ~」
つまり、秀吉の大軍は、他とは別格・・・徹底抗戦で蹴散らしたところで、また、きりがないくらいにやって来て、最後までは防ぎきれないだろうと・・・
この一言が、政宗に小田原参陣を決意させます。
そして、決死の覚悟で小田原に入った政宗・・・しかし、倉に閉じこめたまま、いっこうに政宗に会おうとしない秀吉の心を動かしたのは、従軍していた千利休(せんのりきゅう)に「茶道の手ほどきをお願いしたい」と、政宗が申し込んだ事・・・
「これから殺されるかも知れないのにお茶の手ほどきなどと・・・オモシロイ事を言う」
と、秀吉の心は一気に和らぎ、政宗は秀吉への謁見を許されます。
さらに、この謁見の時に、オカッパ頭の死に装束という秀吉のド肝を抜く作戦に出て、なんと、殺されるかも知れない覚悟で出向いたにも関わらず、芦名から奪った黒川城を没収されただけで許されたのです(6月5日参照>>)。
もちろん、この時も景綱は、政宗と行動をともにしていて、一説には、あの千利休のくだりは、景綱のアドバイスによる物だったとか・・・。
この後、政宗は葛西大崎一揆の件でもハラハラドキドキの危機一髪を経験しますが、それも見事にスルー・・・(11月24日参照>>)
この頃の秀吉は、武将の重臣で有能な者がいれば大名に取り立てて、自らの陣営に引きこむという作戦を何度か試していますが、この景綱にも、5万石を呈示して引き抜きをかけていますから、若さゆえ無謀な行動に出てしまう政宗が、度々のピンチを切り抜けた影には、この景綱の適格なアドバイスがある事を、秀吉も、うすうすと感じていたのかも知れませんね。
もちろん、このヘッドハンティングの話は、秀吉を怒らせる事無く、それでいて、主君への忠誠をアピールしながら、ご丁寧にお断わりしています。
関ヶ原の後の慶長七年(1602年)・・・政宗は陸奥仙台藩主となりますが、この頃は、すでに一国一城令が出されていたにも関わらず、景綱は特例として白石城1万3000石を許され、白石城の城主となっています。
ひょっとして徳川家康さんも、その有能さに気付いてた???
そんな景綱も、大坂の陣の頃には、中風を患い、やむなく、息子の重綱(しげつな)を、自らの代わりとして参陣させています。
果たして、その重綱は、あの夏の陣にて後藤又兵衛基次を討ち取るという、父の若き日を彷彿させる手柄を立てますが、そんな息子を、景綱が直接手をとって褒めてやる事は叶ったのでしょうか?
その夏の陣から5カ月後の元和元年(1615年)10月14日、景綱は59歳の生涯を閉じました。
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コメント
去年の「天地人」でも少し出ていましたね。
「戦国の名参謀」の1人ですね。
1987年の「独眼流政宗」でも重要人物でしたか?昭和時代の大河ドラマはあまりよく知らないので。
投稿: えびすこ | 2010年10月14日 (木) 08時40分
茶々さん、こんばんは!
小十郎はバサラでは準主人公ですよね~
伊達政宗と片倉小十郎はけっこう歴女には人気あるんではないでしょうか。バサラ2アニメでは、主人公であるはずの前田慶二よりよほどすばらしい働きだったですし。けっこう彼のコスプレイヤーとかいそうですよね。私個人としては、豊臣軍が好きなので、半兵衛を殺した彼はちょっと嫌いですが。ま、現実にはありえませんが。そもそも半兵衛に会ったことあるんでしょうか?。政宗も半兵衛には会ってないですよね?会う前に半兵衛は結核で死んでそうです。
てか、私が思ってたよりも小十郎長生きしてますね。三成とかと同年代でしょうか?
長々とすみませんでした。
投稿: 暗離音渡 | 2010年10月14日 (木) 22時55分
えびすこさん、こんばんは~
「天地人」ではセリフあったんですかね?
あんまり、印象に残ってませんねo(;△;)o
「独眼流政宗」では、きっと重要な役どころだっただろうと思いますが、こちらは古すぎてわかりません(。>0<。)
投稿: 茶々 | 2010年10月14日 (木) 23時47分
暗離音渡さん、こんばんは~
アニメやゲームで主役クラスに抜擢されると、一気に人気でますね~
でも、小十郎さんのコスプレは難しそう…確か、肖像画も甲冑も伝わってなかったような…
伝わってないならないで、そのぶん、自由に発想を膨らます事ができそうですが…
投稿: 茶々 | 2010年10月14日 (木) 23時51分
伊達政宗を支え続けた、片倉小十郎景綱は、伊達家に降りかかる危機から逃れるために、忠告し続けた、名参謀にして律儀者だと思います。政宗が景綱に対して、信頼し続けたのは、至極当然でしょう。余談ですが、景綱の嫡男である片倉重綱は、真田信繁(幸村)の娘を、妻にしたらしいです。それが本当であれば、すごいことかもしれません。
投稿: トト | 2016年5月 7日 (土) 09時17分
トトさん、こんばんは~
昨日の渡辺糺のページにも書かせていただきましたが、道明寺の戦いで殿を務めた真田幸村に猛攻をかけたのが片倉重綱で、その戦いぶりを見込んで、幸村は「娘と息子を重綱に託した」なんて事も言われますね。
一方では、落城時の混乱による「乱取り(誘拐)で真田の娘を手に入れた」という話もありますが、前者の方がカッコイイです…カッコ良過ぎて怪しい気もしますが
投稿: 茶々 | 2016年5月 8日 (日) 19時51分