祝・復活!日本に奈良県がなかった11年間
明治二十年(1887年)11月4日、大阪府から分離をして、奈良県が再設置されました。
・・・・・・・・・・・
このブログでも度々書かせていただいております通り、江戸時代の藩という物は、それぞれが法律も違えば政策も違う独立国家のような物・・・
明治維新となって、新政府がまず目指したのは、外国に追いつき追い越せの新しい国家・・・それには、なんとしても、中央集権を目指す必要があり、江戸時代のような独立国家の集合体ではやっていけないワケです。
・・・で、明治二年(1869年)に行われたのが版籍奉還(はんせきほうかん)(6月17日参照>>)・・・これは、「それまで各地の藩主が治めていた領地と、そこに住む人民を朝廷(新政府)に返還する」という物ですが、結局は、藩主が知藩事に名前を変えただけで、少しばかりは中央が関与する事が多くはなりましたが、現実は江戸時代とほとんど変わらず、江戸時代にあった300ほどの大名の領地は、ほとんどそのまま、300ほどの藩となっていただけなのです。
しかも、中央集権を目指そうと諸藩に兵力の縮小をうながしたりなんぞすれば、すぐさま反発の嵐を喰らうという現状・・・
・・・で、「これではイカン!」という事で、全国の知藩事を東京に集め、武力で以って決行したのが、明治四年(1871年)7月の廃藩置県(はいはんちけん)です(7月14日参照>>)。
それは、知藩事を即座にクビにして、諸藩は府県という地方行政区となり、そのトップには、中央から派遣された府知事や県令が座るというもの・・・
明治維新の中でも、トップクラスの大改革と言われる廃藩置県ですが、意外にも知藩事の抵抗は少なく、これによって一気に中央集権の確立へと進む事になります。
・・・とは言え、この明治二年の時点では、以前の藩をそのまま府県に置き換えただけでしたので、なんとその数は3府302県というものスゴイ数・・・
これは大変!!!
なんたって、地理のテストがエライ事に・・・なんて言ってる場合じゃない( ̄○ ̄;)!
たとえば・・・(今回は奈良県のお話なので、その周辺を中心に)
大阪府は今よりもずっと小さく、周囲には高槻県、麻田県、堺県、伯太県、岸和田県、吉見県なんていうのがありました。
京都府も昔の都だった場所だけが京都府で、伏見あたりは淀県でしたし、ひと山越えれば、亀岡県、園部県、綾部県、山家県、福知山県、篠山県、柏原県、舞鶴県、宮津県、峰山県と恐ろしい事に・・・
本日の主役の奈良県も、奈良県以外に柳生県、郡山県、小泉県、柳本県、芝村県、田原本県、高取県、櫛羅(くじら)県、五條県などが、現在の奈良県の場所にひしめいていたのです。
・・・で、この時点では飛び地も多く、地域としてのまとまりも薄かった事から、
4カ月後の11月には3府72県に統合され、
さらに、翌年の明治五年(1872年)には3府69県に、
そして明治六年(1873年)には3府60県・・・
明治八年(1875年)には3府59県、
明治九年(1876年)には3府35県、
と、毎年のように徐々に減って行き、
最終的に明治十四年(1881年)に大阪府へ堺県が吸収合併された事を以って一旦完了となったのですが、
今度は、逆に、一つの県の面積が大きすぎるとして大きな県が分割されて、明治二十二年(1889年)に3府43県となって落ち着き、その後、東京府が東京都になり、北海道が入って、現在の1都1道2府43県に至る・・・
というわけなのですが、この廃藩置県から明治二十二年の落ち着きまで、行政の様々な思惑によって、多くの県がめまぐるしく造られては廃止されるという紆余曲折の歴史をたどる事になるのです。
たとえば、廃藩置県の時点では、兵庫県なんて今よりずっと小さかったわけですが、神戸という港を国際的な港に変貌させるためには、多大なる資金がいるわけで、港以外の産業がない兵庫県では、その資金調達が困難であったため、産業が盛んな周囲の県=姫路県や明石県・尼崎県・小野県・赤穂県・生野県などなど(他にもいっぱい)・・・どんどん吸収していって、現在のように大きくなったのだとか・・・つまり、周囲の県からの税金で、神戸の港を発展させたというわけです。
そんな中で、消滅の憂き目に遭ったのが奈良県です。
廃藩置県当時の7月には15県に分かれていた旧・大和は、4カ月後の縮小の時に大和一円を統括する奈良県となっていたのですが、当時は、コレという産業もなく、明治九年の縮小によって、なんと、今はまぼろしとなっている堺県に吸収されてしまったのです。
堺県は、その名前でもわかる通り、現在の大阪府堺市に県庁所在地があった県なのですが、ご存じのように堺は戦国時代から栄えた自由都市・・・どのような経緯で吸収されてしまったのか???
とにかく、この頃の堺県は、現在の大阪府東部や南部を含む非常に大きな県で、県庁所在地が海側にあった事から、、奈良地域は忘れられた存在のようになってしまうのです。
しかも、現在のように、交通が発達していない明治の時代では、役所に何かの届を出すだけでも一苦労ですから、住民の方も大変です。
やむなく、旧・奈良県庁舎に出張所なる物を設けますが、県庁所在地を失った奈良のさびれようは新聞にも報道されるほどで、しかも明治に吹き荒れた例の廃仏の嵐によって、大寺院だった興福寺の境内の土地が大幅に国に召し上げられていた事が荒廃に拍車をかけ、「こうなったら、奈良を捨てて堺に移住しよう」なんて人も後を絶たなかったのだとか・・・
しかし、一部の有志が立ち上がります。
そう・・・奈良は古の都、日本人の心のふるさとです。
史跡・名勝の宝庫として、霊験あらたかな仏の拠る所として、江戸時代には訪れる人が絶える事が無かった(6月18日参照>>)この場所を観光で復活させようと考えたのです。
明治十年(1877年)12月、民間の有志14名による嘆願書が堺県に提出されます・・・「もと興福寺の境内だった土地を、向こう10年間、無償で貸してほしい」と・・・
彼らの考えに賛同した堺県は、早速、翌年すぐに許可を出します。
彼ら14人は、すでに官公の建物がポツポツ建つものの、それ以外は草ボーボーの荒れ地に、木を植え、公園として整備しはじめたのです。
管理組織を立ち上げて貯金を積立て、案内人を常駐させたりするものの、個人の貯金や案内の報酬なんてしれた物・・・その運営は、ほとんど自腹のボランティアだったそうです。
しかし、その小さな波は、やがて国にも、そして県民にも、大きなうねりを与える事になります。
日本書紀には、こうあります。
「草木踏み平(なら)す
因(よ)りて其(そ)の山を号(なづ)けて
那羅(なら)山と曰(い)ふ」
これは、現在の奈良市の北方に連なるなだらかな山=平城(なら)山の事を指していて、奈良という地名の由来となっているとも言われる一文・・・
もちろん、あの「万葉集」の
♪あをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の…♪
や、「詩花(しか)和歌集」の
♪いにしへの 奈良の都の 八重桜…♪
(4月30日参照>>)
などなど・・・
「この歴史ある奈良という地名を消してなるものか!」
地元の人たちの心にも、そんな気持ちがよみがえってきます。
地元民による若草山の山焼きが復活し、南大門の跡地で薪能(たきぎのう)が催され・・・やがて明治十二年、内務省に上申していた内容を認めた内務卿・伊藤博文によって、正式に奈良公園が許可されたのです。
そんな中、明治十四年には、堺県が大阪府に合併され、奈良は、大阪府の奈良地区となりますが、もはや、動き出した奈良スピリッツは止まりません。
しかも、ここに来て強い味方が・・・そう、あの岡倉天心と、彼の師であるフェノロサの「日本美術スゴイゾ!」「これは守らなアカンぞ!」運動です(6月25日参照>>)。
全国の社寺を調査して、その素晴らしさを訴える彼らの影響で、観光客がドワッと増え、観光都市=奈良を復活させるのです。
その頃には、奈良出身の議員らによる奈良県再設置運動も行われていて、嘆願書片手に各地を遊説する彼らの努力が実り、その嘆願書が国に提出される頃には、全町村の6割が賛同するという大きな物となっていました。
かくして、議員たちが再設置運動を起こしてから6年・・・一歩進んでは一歩後退する苦難の運動ではありましたが、明治二十年(1887年)11月4日、やっと、この日本の国に、再び奈良県が誕生したのです。
1ヶ月後の12月1日に行われた奈良県庁・開庁式では、各家々が日の丸を掲げ、県庁周辺には提灯が灯り、祭りの山車を引きだし、花火が打ち上げられたのだとか・・・
ちなみに、この時、古には都が置かれた都市として「奈良を府に・・・」という声もあったようですが、県が府になるメリットより何より、復活する事がうれし過ぎて、府になる運動は、あまり大きくならなかったようです。
とにもかくにも、めでたしめでたし・・・
「こんでおしまいや」(←奈良地方の昔話の結びの言葉です)
.
「 京都・大阪・奈良史跡巡り」カテゴリの記事
- 本多政康の枚方城の面影を求めて枚方寺内町から万年寺山を行く(2019.05.25)
- ほぼ満開!枚方~渚の院跡の桜と在原業平(2019.04.08)
- 枚方~意賀美神社の梅林(2019.02.27)
- 堺・南宗寺の無銘の塔~徳川家康のお墓説(2018.07.10)
- 豊臣秀次と近江八幡~八幡堀巡り(2015.04.04)
「 明治・大正・昭和」カテゴリの記事
- 日露戦争の最後の戦い~樺太の戦い(2024.07.31)
- 600以上の外国語を翻訳した知の巨人~西周と和製漢語(2023.01.31)
- 維新に貢献した工学の父~山尾庸三と長州ファイブ(2022.12.22)
- 大阪の町の発展とともに~心斎橋の移り変わり(2022.11.23)
- 日本資本主義の父で新一万円札の顔で大河の主役~渋沢栄一の『論語と算盤』(2020.11.11)
コメント
大阪と奈良が「部分的」とは言え、同じ自治体と聞いてびっくりしています。今年は観光面で「注目の奈良県」ですが、当時の復活運動がなければ、今年の「奈良・平城京1300年」は幻だったのかもしれないです。最近でも合併反対運動で、「独立」を守った自治体もありますね。
100年後の日本の自治体も、今と違う可能性もありますね。もし、近未来に大阪府「大阪都」になると、外国の人が「日本の首都は東京か?大阪か?」と混同しそうな感じです。
投稿: えびすこ | 2010年11月 4日 (木) 16時24分
こんにちわ~、茶々様。
>なんたって、地理のテストがエライ事に
確かに・・・
思わず吹いてしまいました
;・(゚ε゚ )ブッ!!
今日も面白い記事をありがとうございます
投稿: DAI | 2010年11月 4日 (木) 19時41分
じつは奈良県出身の私ですが、奈良県がこんな経緯で誕生?復活?していたとは知りませんでした(恥;
いつの時代も人々のパワーはすごいですね。
自分ひとりが騒いだってどうせ...なーんてグズグズ言っている自分がとっても恥ずかしいです。
投稿: ばいりんがる | 2010年11月 4日 (木) 21時12分
えびすこさん、こんばんは~
大阪都…ありますね~
どんな風になるのか??
どんなメリットがあるのか???
よくわかりませんが、とにかく、良い方向に向かってほしいです。
投稿: 茶々 | 2010年11月 4日 (木) 23時34分
DAIさん、こんばんは~
>地理のテストが( ̄Д ̄;;
まずは、純粋に、そう思いましたww
それを答えるだけで、テストの時間が終わってしまいそうです。
投稿: 茶々 | 2010年11月 4日 (木) 23時36分
ばいりんがるさん、こんばんは~
私も…
「現在の奈良公園が、もともとは興福寺の境内だった土地で、明治になって伊藤博文が公園にした」というお話は、以前に聞いた事があったのですが、そのおおもとが一般市民の運動から起こっていたという事は、けっこう最近知りました。
市民の力ってスゴイですね。
投稿: 茶々 | 2010年11月 4日 (木) 23時40分
奈良県つまり奈良市が・・・唖然・・・
神戸市といえば・・・神戸空港(財政赤字)
奈良県・・・
関西広域連合に入っていない・・・
私は、奈良県がちょっと駄々をコネテいるかと思っていたのですが。。。
改めて確認すると、その理由として、広域
連合は、分権ではなく集権との批判・・
これも、かつて都があった自治体ならではの発想・・・
そして、堺市・・・
こちらは大阪都構想に待ったをかけている自治体(市長は府知事のかつての部下なのに)
なんか、昔も今も興味を持ってみてみると、
面白いですねえ。。。。
またまた、勉強になりました。
投稿: やませみ | 2011年2月18日 (金) 21時49分
やませみさん、こんばんは~
それぞれ何に重きを置くかで、色々な意見がありますから、ズバッと解決する事は難しいかも知れませんね~
今の世の中、廃藩置県のように武力行使で決めちゃうわけにいきませんから…
投稿: 茶々 | 2011年2月19日 (土) 00時39分
奈良がこんな憂き目にあっていたとは知りませんでした。
大阪京都に比べ、圧倒的にガイドブックが地味なこととか、食事をするお店が少ないとか色々寂しいことはありますが、仏像やら何やらと日本の他の地域の追随を許さないものが奈良にはあるのに・・・びっくりでした。
現在の姿が過去から確定していたっかのような
根拠のない思い込みです。
かつて、奈良復活運動をした人達のおかげで、
今私たちはのんびり奈良公園を散策できるんですね。
日本に奈良があってよかったです。
投稿: momo | 2013年11月13日 (水) 23時22分
momoさん、こんばんは~
ホント、奈良がなくならなくて良かったです。
私としては、もっともっと宣伝して有名になって、人がいっぱい来ていい場所がたくさんあると思うのですが…
なかなか知られていない所が多いですね~
まぁ、その一歩退いた雰囲気が良いのかも知れませんが…
投稿: 茶々 | 2013年11月14日 (木) 02時02分
九州でも同じことがありました。はなわの歌(古いなァ~😅)でお馴染みの佐賀県と、かつての新婚旅行のメッカにして神話のふるさと宮崎県です。日本史辞典やウィキペディアなどによると、佐賀県は1876(明治9)年4月18日の旧三潴県(みずまけん、筑後国(現福岡県筑後地方)に設置)編入を経て同年8月21日の三潴県廃止によって長崎県に編入され(筑後地方は福岡県に編入)、宮崎県も同年同日に鹿児島県に編入されました。そして熱心な分県運動の結果、1883(明治26)年5月9日、国により長崎県、鹿児島県からの分県及び佐賀県、宮崎県の再設置が認められ両県が復活しました。ちなみに同日富山県も石川県からの分県及び富山県の再設置が認められています。
投稿: アッチ君 | 2018年4月 6日 (金) 09時39分
アッチ君さん、こんにちは~
そうですね。
この頃は大忙しでしたね。
四国では徳島と香川が消滅して「四国ちゃうんやん!」てな時期があったり、アッチ君さんがご指摘の他にも鳥取や福井が1度消滅してますね。
ちゃんと落ち着くまでは全国的にも大変だったのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2018年4月 6日 (金) 16時29分