油小路で命を落とす…元新撰組・藤堂平助
慶応三年(1867年)11月18日、新撰組が元隊士の伊東甲子太郎を襲撃した油小路の変で、高台寺党の藤堂平助が死亡しました。
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弘化元年(1844年)、江戸に生まれた藤堂平助(とうどうへいすけ)は、津藩主・藤堂高猷(たかゆき)のご落胤を自称するだけあって、なかなか上物の刀を持っていて、しかも、その刀にふさわしい腕前であったと言います。
千葉周作の道場で北辰一刀流を学びながらも、文久二年(1862年)頃からは、天然理心流(てんねんりしんりゅう)の近藤勇の道場・試衛館(しえいかん)にも出入りするようになります。
翌年、この3月に行われる事になった第14代将軍・徳川家茂(いえもち)の上洛に先駆けて、その身辺警護をする浪士組の募集に、近藤らが参加した事から、平助も、ともに浪士組に参加する事になります。
ところが、この浪士組が、一団を率いていた清河八郎の思惑で、京都についた途端に空中分解(2月23日参照>>)・・・多くの参加者が江戸に戻る中、近藤とともに参加した試衛館の仲間と、元水戸藩士の芹沢鴨(せりざわかも)の仲間だけが京都に残ります。
これが、後に新撰組となる集団で、やがて、会津藩主で京都守護職となっていた松平容保(かたもり)の配下として、京都の治安を守る事になるのです。
つまり平助は、最初の最初っからの新撰組という事ですね。
背丈は小柄なれど、その度胸と腕前は大したもので、あの池田屋事件(6月5日参照>>)の時にも、彼がトップで斬り込んだと言います。
ただ、この日は、最初の突入でこそ、続けざまに何人か斬ったものの、6月という暑さのために汗ダクダクとなり、やむなく、防具を緩めたところに、押入れに潜んでいた浪士からふいを突かれ、額を斬られてしまいました。
傷は、致命傷ではなかったものの、その出血が目に入って戦えなくなり、しかたなく、中庭にて休憩・・・戦線離脱となりましたが・・・
こんな風に、新撰組の副長助勤・八番隊組長として、あちらこちらの現場で活躍をする平助でしたが・・・
腕のたつ人というのは、たつ人なりに悩みがある物で・・・そう、自らの剣がバッタバッタと人を倒すにつれ、その剣の重みも痛感するようになるのです。
自分のやってる事は正しいのだろうか?
これは、京都の治安維持を口実にした殺人ではないのか?
やがて元治元年(1864年)、新撰組にさらに多くの隊士を募ろうと、近藤が江戸に向かう事になるのですが、それの下準備のため、一足早く江戸に入った平助は、かねてからの友人だった伊東甲子太郎(かしたろう)に会いに行きます。
伊東は、神道無念流(しんどうむねんりゅう)を体得しながらも水戸学(10月2日参照>>)に精通した文武両道に優れた人物で、生粋の尊王攘夷派・・・「彼のような優秀な人物が新撰組に加われば、何か自分の中のモヤモヤした物が解決できるかも知れない」と思ったのでしょうか、平助は、しきりに、伊東を新撰組に誘うのです。
やがて、平助の誘いに応じて新撰組に加わった伊東は、その優秀さから、入隊後まもなく要職につき、各地へ出張する総長=近藤に同行し、その参謀的役目もこなしました。
しかし、もともと、伊東は生粋の尊王攘夷派・・・佐幕一色の新撰組と思想的に合うわけがなく、やがて、意見が対立するようになります。
そして慶応三年(1867年)、天皇の陵墓を守る役人・御陵衛士(ごりょうえじ)を拝命した事を口実に、「今後も影ながら新撰組を支援する」という約束で、新撰組から円満離脱し、その仲間で高台寺党を結成・・・そうです、この時、平助も伊東とともに新撰組を離脱したのです。
高台寺党時代の平助の行動については、あまり詳しい記録が残っていないのが現状ですが、伊東が、まさに勤王運動に積極的に参加すべく、薩摩藩士らとしきりに連絡をとっていたという事なので、平助もまた、勤王運動に乗り出していたのでしょう。
しかし、先ほども書かせていただいた通り、新撰組は尊王攘夷の正反対の位置にいるわけですので、元新撰組の伊東が積極的に参加しようとすればするほど、
「あいつはスパイなんじゃないか?」
「この情報を新撰組に流すんじゃないか?」
と、尊王派からは疑われるわけです。
そこで、伊東は、新撰組との縁を絶ち切った証として、密かに近藤の暗殺をくわだてます。
ところが、この計画が新撰組の知るところとなり・・・
実は、彼らとともに新撰組を離脱して高台寺党にいた斉藤一が新撰組のスパイであったらしい・・・と、スパイだったかどうかは、ともかく、この情報を新撰組に流した事で、斉藤は、再び新撰組に戻ってますからね~
そして、起こったのが、慶応三年(1867年)11月18日の油小路の変・・・(2008年11月18日参照>>)
近藤が伊東を誘いだし、しこたまお酒を飲ませた後、ほろ酔い気分の帰り道に、隊士が襲撃したのです。
伊東の遺体は、残りの高台寺党をおびき寄せるため、命を落とした油小路から七条通りと交わる交差点に放置されます。
高台寺党の屯所だった月真院…くわしい場所は本家HPの歴史散歩:ねねの道・幕末編へ>>
伊東受難の知らせを聞いた時、高台寺党の屯所である月真院(げっしんいん)には、7人の隊士がいました。
すぐさま現場に駆けつける彼ら・・・そこを、待ち構えていた新撰組が襲います。
7人のうち4人は何とか逃走しますが、3人が命を落としました。
そのうちの一人が平助・・・一説には、この時、「平助だけは殺さないように」との指示が近藤から出ていたとも言われますが、平助を斬ったとされる三浦常三郎という隊士は、その事を知らなかったのだとか・・・
やはり、試衛館時代からの仲間ですからねぇ~
近藤さんには、何か思うところがあったのかも・・・
またしても惜しい命が散っていきます(´;ω;`)ウウ・・・
しかし、この高台寺党の生き残りが、最後の最後・・・近藤の運命に大きな影響を与える事になるのです(4月25日参照>>)。
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コメント
剣術 剣道での 流派 どういう違いなのかなぁ
投稿: 華道&カンフー&村石太マン | 2010年11月27日 (土) 19時58分
華道&カンフー&村石太マンさん、こんばんは~
私も、剣道は、学校の武道の時間に習った程度ですので、よくわかりませんが…戦国時代の剣豪の生き方などを垣間見ると、○○流の師匠に習った弟子が、そこにアレンジを加えると、また新たな流派に…という展開も多いので、大元は同じで、細かな違いがあるって感じなんでしょうね~
投稿: 茶々 | 2010年11月27日 (土) 23時29分