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2010年11月 6日 (土)

強き勤王の母・野村望東尼

 

慶応三年(1867年)11月6日、幕末の女流歌人で、勤王の志士を支援した事で知られる野村望東尼が62歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

♪冬ふかき 雪のうちなる 梅の花
  埋もれながらも 香や隠るる ♪

「真冬の雪におおわれた梅の花・・・
 埋もれながら、その香りを隠している」

知り合いの福岡藩士から頼まれて、自宅の山荘でかくまう事になった青年を見て、彼女はこの歌を詠みました。

もちろん、そこには
「春になって雪が解ければ、その梅の花は極上の香りを放つであろう」
という意味もこめられています。

時は元治元年(1864年)11月の事・・・

その前年の八月十八日の政変(8月18日参照>>)で、中央政界から追い出された長州(山口県)が、この年、その復権を求めて兵を率いて上洛した禁門(きんもん・蛤御門)の変(7月19日参照>>)・・・その敗戦によって、朝敵(国家・天皇の敵)となった長州は、なんとか藩のお取りつぶしだけは免れようと、禁門の変は藩主の命令ではなく、先走った家老たちが、藩主の命に背いて起こした事件という事にして、関与した家老らを処分して(11月12日参照>>)、その後は、ただ、ひたすら反省の姿勢を示します。

つまり、藩を存続させるためとは言え、前年までは尊王攘夷派が牛耳っていた藩内で、総入れ替えするように、藩のトップに保守派を持ってきたわけです。

逆に言えば、残った藩内の尊王攘夷派は消される可能性があるという事・・・

Nomuraboutouni500as ・・・で、身の危険を感じた、かの尊王攘夷派の青年が、彼女=野村望東尼(ぼうとうに・もとに)さんの山荘にその身を隠しに来たというわけです。

望東尼は、福岡藩士・浦野重右衛門勝幸(じゅうえもんかつゆき)の三女として文化三年(1806年)に生まれました。

幼い頃から読書好きの聡明な少女だったと言いますが、17歳である福岡藩士と結婚するも、半年余りで離縁・・・24歳の時に、やはり福岡藩士の野村新三郎貞貫(さだつら)後妻となります。

二人の間に授かった4人の子供を、いずれも幼くして亡くしてしまうという不幸に見舞われながらも、夫の先妻の子供・3人を育てあげています(後に嫡男が亡くなりますが…)

27歳の時に、夫とともに入門した大隅言道(ことみち)のもとで和歌を学び、その才能が開花・・・歌人としての道を歩み始めます。

やがて隠退した夫とともに、福岡郊外(現在の福岡市中央区)平尾山荘に移り住み、42歳で夫を亡くした後は、剃髪して尼となって夫の菩提を弔うという武士の妻の定番の生活を送ります。

しかし文久元年(1861年)・・・望東尼・54歳の時、京都にて、歌の師である大隅に再会した事で、その人生が急展開します。

大隅から聞く、この国への憂い・・・
目の当たりにした寺田屋騒動やら、幕府と薩長の対立やら・・・

さらに、彼女はこの時、嵯峨野直指庵(じきしあん)で謹慎中の村岡局(むらおかのつぼね)(8月23日参照>>)に面会しに行ったりもしています。

福岡に戻った彼女は、すっかりと変わっていました。

平野国臣(くにおみ)中村円太(えんた)ら、勤王の志士との交流が始まります。

やがて彼女の平尾山荘は、そんな志士たちのたまり場&隠れ家として利用され、そこには、いつも若き志士たちを見守る母のようなまなざしの望東尼の存在があったのです。

やがて政変があり、禁門の変があり・・・その禁門の変では、かの国臣も命を落としています。

そして、変から4カ月後・・・円太の紹介で、彼女の平尾山荘に匿われる事になった青年・・

望東尼に、「いずれ時が来れば、香りを放つ梅」と言わせたその青年は、あの高杉晋作でした。

期間としては、わずか10日ほどの滞在だったようですが、親子ほど歳の離れた二人は、それこそ、ともに同じ夢を見る母子のように、そのひとときを過ごしたに違いありません。

まもなく晋作は、長州を再び尊王派にすべく立ち上がる決意をします。

追われる身でありながら、追手の長州を変えようと向って行く晋作に、彼女は自らの手で縫った着物を与えます。

♪まごごろを つくしのきぬは 国の為
 立ちかえるべき 衣手にせよ ♪

「真心を尽くして(筑紫で)縫った着物は、国の為に戻る時の衣にしなさい」

つまり、「これを着て、立ち向かえ」と・・・
まさに、やさしくも強い、母の思いです。

この時、常に死を覚悟して戦う立場にあった晋作は、彼女に「あの世でお礼します!」という感謝の手紙を送ったのだとか・・・。

はたして、望東尼に別れを告げた晋作は、すかさず翌月の12月、功山寺にて挙兵(12月16日参照>>)・・・ふたたび、長州の実権を尊王攘夷派が握る事に成功するのです。

しかし、そんな状況を、未だ保守派の福岡藩がほっておくワケがなく、尊王攘夷派の勤王活動に加担した者たちすべてに処罰を与えます。

切腹や斬罪、流罪がひしめく中、望東尼も姫島(福岡県糸島郡)への流罪を言い渡されました。

わずか四畳ほどの板の間にゴザが敷かれただけの部屋に、夜は灯りもなく、冬ともなれば厳しい寒さに襲われる・・・こんな劣悪な環境での生活は、60歳の彼女には大変つらく、病に倒れる事もありましたが・・・

♪うき雲の かかるもよしや もののふの
 大和心の かずにいりなば ♪

「疑いかけられたってええやん!大和魂を持った志士の一人に数えられてんねんで・・・私」

この歌を見る限り、めげる事はなかったと思います。

やがて、入獄から10ヶ月後・・・「あの世でお礼します」と言っていた晋作の手配した6人の脱藩浪士が、彼女を島から救出するのです。

慶応二年(1866年)9月、まさに、あの四境戦争(第2次長州征伐)が終わった直後の事でした(7月27日参照>>)

晋作の手配した6人の脱藩浪士って・・・おそらく、晋作なら、手配なんて事をせず、自らが、その救出劇に立ち合いたかった事でしょう。

しかし、できなかった・・・そう、晋作はすでに病魔に侵され、思うようには動けなかったのです。

晋作が詠んだとされる有名な句・・・
♪面白き こともなき世に(を) おもしろく ♪

このあとに
♪住みなすものは 心なりけり ♪
と、つけたのは、この望東尼でした。

・・・とは言え、高杉ファンの方には、
「何て事してくれるんだ!この尼」
「高杉らしいカッコエェ句が台無しやないかい!」
「この下の句のおかげで、説教みたいになってる」
という方がけっこうおられます。

なるほど・・・一理あるな~と思いますが、私個人的には、そこまでの怒りはありません。

なぜなら、伝え聞くところによれば、この望東尼の下の句は、病床の晋作が句を詠んだすぐあとに、晋作の目の前で彼女が詠んだとされ、彼女の下の句を聞いた晋作が、
「おもしろいの~」
と、言ったとされているから・・・。

それが本当なら、つまりは、晋作にとってイヤじゃなかった下の句であり、晋作が「おもしろい」と思った下の句なのですから、まぁ、いいのではないかと・・・

そんな晋作の死から半年後の慶応三年(1867年)11月6日・・・奇兵隊を支援した豪商・白石正一郎(8月31日参照>>)のもとに身を寄せていた望東尼は、愛しい息子の後を追うように62歳の生涯を閉じます。

かりそめの息子とともに夢見た新しい世・・・それは、新生天皇によって王政復古の大号令(12月9日参照>>)が発令される1ヶ月前の事でした。

♪ひとすじの 道を守らば たおやめも
 ますらおのこに 劣りやはする ♪

「か弱い女かて、筋の通った道を貫いたら、男にも負けへんで~!」

女は弱し・・・されど、母は強し
まして勤王の母は、このうえなく強し・・・
 .

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幕末・維新」カテゴリの記事

コメント

記載900人おめでとうございます。o(_ _)oペコッ
野村望東尼さんが「ブログ登場900人目」ですね。900人達成が予想より早かったです。「長州の勤皇の志士の母親」ですか。山口県では有名な人ですか?流罪がなければ80歳くらいまで生きたかもしれないですね。
ところで昨日のテレビで触れてたんですが、長崎の商家の女主人・大浦慶は慶応年間はまだ30代ですね。テレビでは「マダム」と言う感じですが、実際は意外にも若いんですね。

投稿: えびすこ | 2010年11月 6日 (土) 18時12分

えびすこさん、登場人数を気にしていただいてありがとうございます。

やはり高杉の句が有名なので、そこのところで望東尼さんも有名なのだと思います。

幕末の方々は、意外な年齢の方が多いですよね~
でも、写真を見ると、大浦慶役の余さん、けっこう似ている気がします。

投稿: 茶々 | 2010年11月 6日 (土) 23時39分

こんにちは。晋作の最期は、司馬遼太郎「世に棲む日々」に描かれていますね。NHKドラマ「花神」では、晋作を中村雅俊、野村尼を草笛光子が演じています。2人ともあまりやつれていなくて、違和感があるかもしれません。

投稿: やぶひび | 2010年11月 8日 (月) 07時18分

やぶひびさん、こんにちは~

そうですか…草笛光子さんが、、、

スミマセン
「花神」見てないんです(;´Д`A ```

でも、銅像を見る限りでは、草笛さんぽい雰囲気ありますね~
似合ってたのではないでしょうか?

投稿: 茶々 | 2010年11月 8日 (月) 13時40分

「望東尼」気になる歌人ですね。

わたくし太宰府に住んでいるものですから、どうしても筑前の歴史に関心がいきます。

太宰府天満宮の参道に「松屋」という梅が枝餅屋があります。この「松屋」はそのむかし薩摩藩の定宿だったらしいく、安政の大獄の難を逃れんとして清水寺の塔頭成就院の「月照和尚」が西郷隆盛を頼って落ち延びるとき、ここに数日泊まっています。

このとき薩摩まで護衛したのが筑前藩士で勤王派の平野國臣です。

この時点ではまだ平野は望東尼を知らなかったのでしょうね。望東尼が亰・大阪の旅行に発つ1年ほど前ですから。知っていれば月照を「向陵の岡」にかくまってもらうには格好の場所だったはずです。

ところで、「ひとすじの道を守らば」という歌は有名ですが、この歌、「向陵集」に収まっているのでしょうか。「浮雲のかかるもよしや」という歌は載っておりますが、「ひとすじの道」が探しあぐねています。

もし、ご存じであれば教えていただけませんでしょうか。


投稿: 大和 正典 | 2012年11月17日 (土) 15時08分

大和正典さん、こんばんは~

♪ひとすじの道を守らば♪の歌…
私も「向陵集」だと思っていたのですが、違うのですか?

改めて調べてみますが、早々に見つからないかも知れませんので、何かわかりましたら、お知らせください。

投稿: 茶々 | 2012年11月17日 (土) 20時09分


大変失礼しました。わたくしの間違いでした。お詫びいたします。


野村望等尼著・楢崎桂枝子校訂「向陵集」(文献出版)のP243に載っていました。1420番がそれです。

ところが、この歌には「わかき女のいましめになるうたをとて人のこひければ」という詞書が付されていることです。

この詞書には驚きました。


1419番の歌は「わかさとのはるゆくほとを見せむとて」とあるように、これは晩春の歌です。そして1421番の歌は「七夕」と題しています。

ということは、1420番の歌は春から夏にかけての作ということになります。

そして、この年は文久元年です。


望東尼が京阪の旅に出るのが、文久元年の11月です。帰福するのが翌年の5月です。

歌集の1424番には「都にて藪ぬしにこかねを借りてかへりきてかへす時息てふものもなくかへすとて」という詞書を付して、「うれしさは八重やまぶきのちへなるにそへてかへさむ一花もなし」詠っています。1425番の歌は「8月はかり月」と記しています。

「藪ぬし」とは、福岡藩の当時の京都聞役(情報収集担当)藪孝三郎のことでしょう。


ということは、

「ひとすじのみち」とは、俗に言われているような、「勤王の道」ではないのではないか、という疑問です。


望東尼は京阪の旅で、自身の目で亰の尊王攘夷の騒動を見ているはずです。藪孝三郎から江戸の「安政の大獄」や「桜田門外の変」の経緯を聞いているはずです。

馬場文英からはのちの「元治夢物語」の草稿を見せてもらっているはずです。特に馬場文英からは、朝廷をないがしろにする徳川幕府のやり方に大いなる憤りをもたされたはずです。

そして帰福後に、平尾山荘(向陵の岡の山荘)で幾人もの勤王の志士たちを匿った行為と、馬場文英とのたびたびの文通の咎で姫島流罪を言い渡されまから。

望東尼は上の流罪の決定前に尋問を受けているのですが、「夢かぞへ」(小河扶希子編・葦書房刊)の中(p23)に、「世に知られたる皇国の義士とかいふ人々の中に、いひ甲斐なき尼法師の身にて連なれる。人笑へもなかなかにとて」と記して

「うき雲のかかるも嬉しもののふのやまと心の数に入る身は」とあります。

谷川桂枝子氏の「野村望東尼」(花乱社刊)では「うき雲のかくともよしやもののふの大和心のかずにいりなば」(p229)と記しています。

思うに、先の「ひとすじのみちをまもらば」ですが、まさに姫島流罪の事件の前後の時期にこそ詠まれてしかるべきだったように思われてしかたがありません。

なにしろ、望東尼は勤王の尼僧としての活躍ばかりが広く知れ渡っていますから、「ひとすじのみち」は、その歌詞だけみるとまさに女志士の気概をよく表している歌と評価されてしかるべきですから。


ともあれ、実にインパクトがある歌ですね。

投稿: 大和 正典 | 2012年11月20日 (火) 04時12分

大和 正典さん、こんにちは~

おっしゃる通り、歌とはいつどのような状況で詠まれたかによって、その解釈が大きく違ってしまうもの…

よく、そこまで考察されましたね。スゴイ!
お教えいただいてありがとうございました。

投稿: 茶々 | 2012年11月20日 (火) 14時38分

お茶々 さま


谷川桂枝子氏の「野村望東尼 ひとすじの道をまもらば」をおもしろく拝見したのですが、読み終えて、表紙のカバーに紹介している問題の歌が本文の中のどこで紹介されているんだろうと再度点検したけどありません。

恥ずかしながら、わたしはそのときはまだ「向陵集」を本気で読んでいませんでしたし、かの歌は「夢かそへ 獄中記」あたりに入っている歌であろうぐらいしか考えていなかったのです。

しかし、それなら谷川氏は「野村望東尼」の中でなぜ抜き出して、勤王活動に邁進する望東尼を拵えるのに使わなかったんだろうと不思議に思いますよね。

でもあの歌が、京阪への旅へ出る以前に書かれていて、しかもそれは、若い女にどういう姿勢で生きればいいのか、その教育のために書いてくれと頼まれて作った歌ということが事実なら、勤王歌人と変身した帰福後の望東尼が書いたというわけにはいかなかったんでしょうね。

谷川氏(楢崎氏)はそのことをよく知っているわけですから。

研究者としてウソはつけない。しかし、あの歌ほど、字づらだけなら、勤王歌人の面目躍如なる歌もない。

捨てがたかったんでしょうね、だから、表紙カバーにこっそり、注釈なしで載せたんでしょうね。読み手がかってに誤解するのを半分期待して。

しかし

投獄前の60過ぎの女、その自らをして「たをやめ(手弱女)」とは、厚かましすぎて言えないでしょうね(笑) 谷川さんも困ったでしょうね。

実は、わたしにはもう一つ疑問があるのです。

わたしにとってはこっちの疑問の方が大事なのですが、それは、幕末の歴史を語るとき、なにゆえ多くの人は志士たちの陰にある「吉田松陰の思想」を語らないんだろうということなんです。

幕府の獄で松陰は、処刑の2日前から高杉晋作や久坂玄随などの門下生50数名にあてた国家覚醒の要を書きこのしており、それ(留魂録)は処刑後すぐに門人たちの手に渡り、今では4部の写しが残っています。

加えて、松陰の思想の元は孟子ですが、萩の野山獄時代に「講猛余話」は孟子について語ってものですが、それは孟子の「王道」と「覇道」について講義したものです。

孟子は、孔子の「徳」と「仁」を思想を受けて
、特に「仁」を発展させて「仁義」について説いています。

長州藩士たちの「勤王統幕」の運動は、倒幕しなければ天皇親政はないじゃないかというもので、これは松陰の思想「王道」の実現そのものなんですね。

谷川さんの「望東尼」においても、高杉の口から松陰のことは一言も語らせていません。そんなことがあるでしょうか。10日以上も匿っているのですよ。「安政の大獄」と「桜門外の変」、「寺田屋事件」「禁門の変」、「勤王討幕」「尊王攘夷」、日本の天下国家を論じないはずはありません。

そして、これらの幕末の薩長志士たちの思想背景には松陰が孟子から引き継いだ「仁」と「王道」の実現の思いをつづった「留魂禄」があったはずです。

特に高杉にあてて書いた最後のことづて「君は問う、男子の死ぬべきところはどこかと。昨年の投獄されて以来このことを考え続けてきたが死についてついに発見した。死は好むものではなく、また憎むべきものでもないが、世の中には生きながら心が死んでいる者がいるかと思えば、その身は滅んでも魂の存する者もいる。死して不朽の見込みあらばいつ死んでもよい。生きて大業をなす見込みあらばいつまでも生きよ。思うに、人というものは生死を度外視して、なすべきことをなす心構えが肝要である」

このことづては高杉だけではなく、門下生はみんな読んだと思う。かかることばが人を走らせるのだと思うのです。高杉だけではなく、幕末の若き志士たちの行動の背景には吉田や、そのほかの思想家たちの教えがあったと思うのです。

事件や斬り合いの勇ましさばかりが強調して語られているのが幕末の志士たちの姿のように思われてなりません。

わたしも「望等尼」を主人公に小説に仕上げられないかと考えているのです。望東を縦糸に、高杉や松陰、馬場文英たちを横糸にして。


投稿: 大和 正典 | 2012年11月21日 (水) 02時36分

大和 正典さん、こんばんは~

>「望等尼」を主人公に小説に…

良いですね。
すばらしい作品になる事を期待しています。

投稿: 茶々 | 2012年11月21日 (水) 04時10分

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