戦いの空しさに出家した源氏の猛将・熊谷直実
建久三年(1192年)11月25日、源頼朝に仕えた武将・熊谷直実が出家して蓮生坊と号しました。
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永治元年(1141年)に、現在の埼玉県・熊谷に生まれた熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)は、幼い頃に父を失い、母方の伯父である久下直光(くげなおみつ)に養育されたと言います。
やがて、15歳の時に保元の乱(7月11日参照>>)で初陣を飾ってからというもの、平治の乱(12月25日参照>>)から石橋山の合戦(8月23日参照>>)、金砂城の攻略、宇治川の合戦・・・と、源平の戦いのほとんどに参戦し、一騎当千の荒武者として、その名を馳せました。
・・・とは言え、彼のライバルである梶原景時(かげとき)と同様、もともとは平家の傘下だったのが、石橋山をきっかけに源義朝の配下となった経歴でもあるんですが・・・。
そんな彼を最も有名にしているのは、一連の源平の戦いの中の一の谷の合戦・・・そう、あの青葉の笛で有名な貴公子・平敦盛(あつもり)の相手役としてですね。
直実が戦いの中で偶然遭遇した自分の息子と同じ年頃の美少年・・・しかし、敵に情けをかける事は許されず、心を鬼にして彼を討ちます。
討ち取ってから錦の袋を見つけた直実は、その人が笛の名手であった事、そして、昨夜、そこが戦場である事を忘れさせてくれるかのように聞こえていた美しい音色の主が彼であった事を知るのです・・・と、この平家物語屈指の名場面は2月7日のページ>>でご覧いただくとして・・・
このように、個人的な恨みなどあるわけもなく、味方にとっては惜しむべき愛する人を討ちとらねばならない戦というもの・・・
愛する人を失った家族は悲しみ、討ち取った本人も苦脳と空しさだけが残る戦いに、果たして意味があるのか?と・・・この敦盛との一戦は、直実の心の中に深く刻まれる出来事となったのです。
源平一之谷大合戦之図・直実&敦盛の部分(静岡県中央図書館蔵)
・・・とは言え、直実は、元来、気性の激しい武士の中の武士・・・
心痛めながらも、自らの置かれた立場を理解しながら、その使命を貫く実直な人でもありました。
やがて源氏の世となった建久三年(1192年)11月25日・・・かねてからモメ続けていた伯父・直光との領地の境界線を巡っての争いで、ついに公の場で話し合いによる決着をつける事になりますが、武闘派で討論の苦手な直実はかなり不利な立場に置かれます。
しかも、相手側には、弁のたつ梶原景時が味方についた事で、もう、話し合いは一方的に押されまくり・・・
ついにこらえきれず直実は、
「もう、ええ!!!なんぼ話してもムダや!(`Д´)」
と、証拠書類を投げつけて席を立ち、持っていた刀にて髪を落とし、その場で出家してしまったのです。
これには、そばにいた頼朝も、びっくり仰天したようですが、やはり、これは、あくまできっかけでしょうね。
おそらくは、彼は、あの一の谷以来、ずっと、出家の機会を模索し続けていたのかも知れません。
なぜなら、この時の直実は、席を立ったまま自宅にも戻らず、その足で京へ上って法然上人のもとへと訪れ、
「私は、数々の戦いの中で多くの人をあやめてしまいましたが、そんな私が浄土往生するには、どないしたらよろしいんでっしゃろ?」
と、その心の内を打ち明けているのです。
しかも、その手には武士の誇りである刀を握ったまま・・・
法然が
「罪の重い軽いは関係ないですよ・・・ただ、ひたすらお念仏を唱えなされ。
そうすれば、必ず極楽へ導かれるでしょう」
と、やさしく諭すと、
「自分は、この手足を斬り落としでもせん限り、ムリやと思ておりました」
(そのために刀を握りしめていたようです)
「けど、お念仏さえすればよいとは・・・」
と感激の涙を流し、以後、蓮生(れんせい)と号して、法然のもとで修業に励む事になります。
そんな彼の実直な性格は、僧になってからも発揮されました。
西方浄土のある西に背を向ける事はできない。
法然上人のおわす京に背を向ける事はできない。
と、長年の修業を終えて、関東の熊谷に帰る時には、馬の背に鞍をさかさまに置いて、反対向きに馬に乗って帰って行ったのだとか・・・
その後、多くの寺院の建立に尽力するとともに、仏の道にドップリと浸かる毎日を送った直実は、やがて建永二年(1207年)、自ら、「極楽浄土に生まれかわる」と高札を立てて予告し、その言葉通りに往生したという事です。
生前、出家を決意した直実が、門前の松の木に馬をつなぎ、脱ぎ捨てた鎧を洗ってかけたという京都の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)には、現在、直実と敦盛の五輪塔が向かい合わせに建っていると言います。
遠き浄土で再会した二人・・・今度は、お互いの立場を越えて心穏やかに、楽しい会話を弾ませている事でしょう。
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コメント
茶々さん、こんにちは!
先日、某番組で熊谷直実の50数年の半生を描いたという「直実ぶし」という謡曲を聞きました。
現在でも熊谷市内の小学校では運動会などで踊るそうです。
日の丸が描かれた扇子に白の鉢巻が必須のアイテムのようで…いかにもご当地で愛される歌謡って感じです。
歌詞のメインは『平家物語』巻9「敦盛の最期」を中心に、一ノ谷の合戦で熊谷次郎直実が平敦盛を討った場面が書かれてますよ。
PS.その昔、中学での古文の授業でこの「敦盛の最期」を暗唱するテストがあったのですが、何度やっても、「熊谷」を「くまがい」ではなく、「くまがや」と言ってしまい、ミスった事が懐かしく想い出されます(笑)
投稿: 御堂 | 2010年11月25日 (木) 12時55分
こんにちは!またまたお久しぶりです。戦いの空しさは、やはり出家することでしか埋められないのでしょうね。あの世で二人が仲良く会話していることを祈ります。私事ですが、今、あることで周りと戦っておりまして、ふと空しさを感じているところなので、出家まではいかなくても何かのきっかけがほしいと思っています。
投稿: 露草 | 2010年11月25日 (木) 13時17分
御堂さん、こんばんは~
>「直実ぶし」
私も見てました~
今日(木曜日)やる、アノ番組ですよね。
「直実」だけ聞いた時は「誰?」って思いましたが、すぐに苗字も出たので「はは~ん」と…
いつまでも、踊り継がれて行ってほしいですね~
投稿: 茶々 | 2010年11月25日 (木) 20時22分
露草さん、こんばんは~
何か戦っておられるんですか?
>出家まではいかなくても…
お寺巡りなど、スローな雰囲気の場所でゆっくりと…リフレッシュしてくださいね。
投稿: 茶々 | 2010年11月25日 (木) 20時24分
はじめまして
歴史に興味はありながらも、どの本を読んでも素人にはいまいち解りづらい…と思っていた時に此方のサイトにたどり着きました。
どの記事も解りやすく書いて下さっていて凄く有り難く、読んでいてとても楽しいです^^ありがとうございます
直実節、小学生の頃に踊りました!
あの頃は何も知らず、全国的に踊っているものだと思い込んでいました(笑)
投稿: 彩 | 2012年8月 2日 (木) 16時30分
彩さん、はじめまして、
そうですか、ご当地のご出身なのですね。
>全国的に踊っているものだと…
そういう事ありますね~
私も、物の名前など、テレビで見て、初めて、自分の呼び方が全国ネットでは無い事を知る事がよくあります。
でも、地元のヒーローは、大人になっても永遠のヒーローですね。
投稿: 茶々 | 2012年8月 3日 (金) 02時31分