応仁の乱・終結~ゴネ得?大内政弘の帰国
文明九年(1477年)11月11日、西軍の主軸として活躍していた周防の大内政弘が帰国し、応仁の乱が終結しました。
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・・・と書いちゃいましたが、実は応仁の乱の終結という物も、なかなか一言では語れません。
そもそも、すでに書かせていただいているように、その勃発からして複数あります。
京都の上御霊(かみごりょう)神社の境内には「応仁の乱勃発の地」(写真→)という碑がありますが、管領・畠山家の後継者を争った畠山政長と畠山義就(よりなり)に、細川勝元と山名宗全(そうぜん・持豊)(3月18日参照>>)という2人の大物がそれぞれ加担して、この上御霊神社を舞台に行われた御霊合戦が勃発したのが、応仁元年(1467年)の1月18日(1月17日参照>>)。
一方、教科書年表や歴史書籍などに書かれている応仁の乱の勃発は、その5ヶ月後の5月20日・・・
先の御霊合戦で敗れた政長が勝元のもとに帰参し、東軍・細川側には総勢16万という大軍が用意され、一方の西軍・山名側にも11万が集まり、一触即発の状態となったところで、勝元が「戦火から御所を守る」という名目で、将軍・足利義政のいる花の御所を占拠して、敵対する山名の討伐を取り付ける・・・これが5月20日なのです(5月20日参照>>)。
・・・で、その後は、最初の戦闘となった
●5月26日の五月合戦(5月28日参照>>)から、
●10月2日の東岩倉(10月2日参照>>)、
●10月3日の相国寺の戦い(10月3日参照>>)
●翌年3月の稲荷山攻防戦(3月21日参照>>)
と、いくつかの大戦と多くの小競り合いがあったわけですが、すでに書かせていただいている通り、11年という長きに渡って行われる応仁の乱も、激しく戦ったのは、この最初の1年くらいで、あとは、ほとんどがダラダラ感満載の戦い・・・
お互いに1kmと離れていない場所に本陣を置きながら、名のある武将が命を落とす事もなく、その勝敗さえウヤムヤな乱なのです。
しかも、途中で総大将がトンズラしたり、復帰しちゃぁ寝返ったりのドタバタの中(11月13日参照>>)、文明五年(1473年)の3月に宗全が亡くなり(3月18日参照>>)、2ヶ月後の5月には勝元が亡くなり・・・と、双方の大将が相次いで死去した事で、さらにテンションだだ下がり・・・
結局、翌・文明六年(1474年)の4月に、双方大将の後継者である細川政元(勝元の嫡男)と山名政豊(宗全の孫)が和睦してチャンチャン!!・・・ある意味、ここで終結とも言えるわけで、現に多くの地方の武将が、ここらあたりで帰国しています。
ただ、実際には、さらに、その3年後、最後の最後まで京都にてゴチャゴチャやってた周防(すおう・山口県南東部)大内政弘が、文明九年(1477年)11月11日に帰国して終結という事になるのですが・・・
その9日後の11月20日、かの義政と息子の義尚(よしひさ)のもとに、各公卿や諸大名が集まって「天下静謐(せいひつ)」の酒宴が開かれたとの事で、この日を終結とする場合もあります。
この勃発の日をどちらかに決めかねるというのは、ひとえに、応仁の乱の要因が複数あり、どれもが微妙なバランスで絡み合っているせいなわけで・・・
もともとあった管領家(畠山家・斯波家)同士の後継者争いに、将軍家の後継者争いが絡んで・・・というのが、大きな要因ですが、それに拍車をかけるのが、将軍・義政のあいまいさであり、その妻・日野冨子の我が子かわいさであるわけです(将軍家の家督争いについては1月7日参照>>)。
それが乱の終結となると、そこには、乱のために京都にやって来た地方の大名の金と名誉も絡んでくるわけです。
細川&山名の後継者同士が和睦してから、本当の終焉を迎えるまでに3年もの期間があるのもそこです。
特に、最後まで居座った、本日の大内政弘・・・
ご存じのように、大内氏は、対朝鮮や対明(中国)との貿易で巨万の富を築いた西国の雄・・・
しかし、いくらお金を持ってるからと言っても、戦争にかかる膨大な費用は無視できません。
地方の大名が国許から呼び寄せた兵の駐屯費や移動費、もちろん武器にも多額の費用がかかるうえ、戦いが長期化すれば、現地でもバイトを雇わねばならず、さらに莫大な出費がかさむわけです。
こうまでしても、京都へやって来て戦う意味は、ひとえに名誉のため・・・地方の大名が、中央で大活躍をして、その名を天下に知らしめる事くらいしかメリットはありません。
しかし、今回の応仁の乱の場合は、勝敗もウヤムヤだし・・・第一、途中参加の大内さんは西軍に加担していますから、御所を占拠していた東軍が官軍だとすれば、賊軍(国家の敵)となってしまうわけで、はるばるやってきて賊軍のままじゃ、何のために参戦したんだか・・・。
そう、政弘は、このままウヤムヤに終わったのでは帰るに帰れない=故郷に錦を飾れない状態だったわけです。
それを解決したのが、誰あろう、冨子だったと言われています。
彼女は、この戦乱中に、軍費が必要な武将たちに年利6割という高利貸しをやっていて、かなり儲けていたのだとか・・・しかも、相手は東西両軍ともの武将だったと言いますから、実に商魂たくましい!
・・・で、まずは、政弘と同じように乱の終結にゴネていた畠山義就に、その貯蓄した中から多額のお金を貸してさしあげ、ご機嫌をとり、文明九年(1477年)の9月に帰国させます。
そして、名誉がほしい政弘には、朝廷と夫の義政に働きかけて、従四位下左京大夫(さきょうだいぶ)という官位と、周防・長門(ながと・山口県西部)・豊前(ぶぜん・福岡県東部と大分県北部)・筑前(ちくぜん・福岡県北西部)の守護と石見(いわみ)・安芸(あき)の知行地(ちぎょうち・支配権のある土地)を保証させたのです。
こうして政弘は、あたかも勝利将軍のように、見事な凱旋帰国が果たす事ができ、ここに、やっと応仁の乱が終結するというわけです。
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