池田恒興・輝政…父子2代の補佐役・伊木忠次
慶長八年(1603年)11月10日、その手腕で池田家を支えた姫路藩の初代筆頭家老・伊木忠次が61歳で亡くなりました。
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尾張(愛知県西部)の清州で生まれたとされる伊木忠次(いぎただつぐ)は、もともとは、香川長兵衛(清兵衛)という名乗りで織田信長に仕えていましたが、信長の美濃(岐阜県)攻略(8月1日参照>>)の際に、犬山城近くにある伊木山に陣取って奮戦した事から、信長より伊木を賜り、以後、伊木姓を名乗ったとされます。
その後の信長が、自分と乳兄弟の関係にある池田恒興(つねおき)を家臣団の中で重要視するようになった事で、その意向で恒興の与力となります。
んん~
このあたりで、すでに、かなりのキレ者である事がわかりますね~
なんせ、あの信長さんが、自らの乳兄弟のサポートを、忠次に頼んだって事ですからね。
とは言え、忠次さんの活躍が表立って登場するのは、あの本能寺の変(6月2日参照>>)で信長が倒れてから・・・
忠次も、もうすぐ40歳になろうかという小牧長久手の戦いです。
これは、羽柴(豊臣)秀吉と対立した信長の次男=織田信雄が、徳川家康を味方につけて8ヶ月に渡って繰り広げる信長の後継者争いですが、すでにブログでも書かせていただいている通り、最初の口火を切ったのは、恒興の犬山城攻略(3月13日参照>>)です。
この犬山城の攻略が、わずか一日で成し遂げられた要因の一つに、ここの守りが手薄であった事が挙げられます。
もちろん攻める側は、それを狙って攻めたわけですが、実は、この前日に信雄方の神戸城主・神戸正武(かんべまさたけ)と蟹江(かにえ)城主・佐久間正勝らが、秀吉方についた関信盛(せきのぶもり)の北伊勢亀山城を攻めていて、この時点では信雄も家康も、「この戦いの主戦場となるのは伊勢だ」と考えていたからなのです。
つまり、信雄は、まさか恒興が秀吉側につくとは思っておらず、てっきり自分の味方になってくれる物だと思っていて、尾張方面の守りは、あまり強くしていなかったようなのです。
・・・と、ここで本能寺から、これまでの恒興の動向を振り返ってみましょう。
あの明智光秀を相手にした山崎の合戦でも秀吉とともに・・・(6月13日参照>>)
信長の後継者選びとなった清州会議では、秀吉の推す三法師(信長の嫡孫)を支持し・・・(6月27日参照>>)
柴田勝家との織田家家臣団のトップ争いとなった賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでも、秀吉側について・・・(4月21日参照>>)
と、完全に秀吉ドップリですやん!
信雄さんったら、なんで、この人が秀吉につくって気づかなかったの?
と思ってしまいますが、これは、この後の流れを知っている後世の私たちが思う事で、実は、この小牧長久手の戦いが始まる前までは、信雄自身が秀吉派だったのです・・・現に、賤ヶ岳の戦いの後、勝家が織田家後継者に推していた三男・神戸信孝(かんべのぶたか)を死に追いやるのは、この信雄さんです(5月2日参照>>)。
つまり、ここまでは秀吉の三法師を看板にした天下狙いの戦いではなく、あくまで織田家内の勢力争いだったわけで、家中の内紛なら、織田家の家臣である恒興は、どっちに味方しようが、本人の自由なわけです。
それは、以前、前田利家の賤ヶ岳戦線離脱のところ(4月23日参照>>)でも、離脱された勝家自身が、利家の行為を「裏切りだ」とは思っていなかっただろうという事を書かせていただいています。
・・・と、どっちにつくかは自由だったとは言え、なんせ恒興は、信長の乳兄弟ですから、「信長の血を引く自分に味方してくれるだろう」と信雄が思ったのも無理はありません。
実は、恒興自身も、直前までは信雄方で参戦するつもりだったのです。
その気持ちを変えたのが忠次の進言であったと言われています・・・やっと、出て来た~長い回り道、すんませんでしたm(_ _)m
どうやら、忠次さんは、すでに秀吉が天下を狙っている・・・そして、それが実現するかも知れない事を見抜いていたようで、ここで、信雄につこうとする主君=恒興に、「信雄に加担するのは、火で衣を包むのと同じである」と諭したのです。
この進言を聞き入れた恒興が、未だ信雄の目線が伊勢に向いている間に、いち早く、犬山城を奪取した・・・というのが、わずか一日で・・・の成功の鍵となったのです。
とは言え、ご存じのように恒興は、このすぐあとの長久手の戦いで、長男の池田元助(げんすけ)、娘婿の森長可(ながよし)らとともに、家康の急襲に遭って戦死してしまいます(4月9日参照>>)。
・・・と、本来なら、忠次も、恒興のそばにて同行していそうですが、この時、元助の指示により、尾張岩崎城(愛知県日進市)の攻略へ向かった恒興の次男=池田輝政のサポートすべく、輝政と行動をともにしていたので、すぐ、そばにはいなかったのです。
この後、輝政と忠次は、なんとか戦線離脱に成功し、無事、帰還しました。
当主と後継者を同時に失ってしまった池田家・・・ここから、忠次は、家督を継ぐ事になった輝政の補佐として、忠勤を誓う事になるのです。
秀吉も、この忠次がいかに重要人物であるか察していたのでしょう、知行5000石とともに、背中に秀吉のトレードマークである瓢箪(ひょうたん)をデザインした陣羽織を与えるという厚遇で対応しています。
その後の関ヶ原の合戦でも、家康側についた輝政とともに美濃などを転戦し、岐阜城の攻略(8月22日参照>>)にも一役買いました。
戦後に播磨(はりま)姫路藩52万石の藩主となった輝政の命で、姫路城築城の総奉行も任されました。
しかし、まもなく病に倒れる忠次・・・
それでも、見舞に訪れた輝政に・・・
「新規の召しかかえにばっかり力入れんと、譜代の家臣を大事にしなはれ~」
と、何かと新規のスカウトにばかり走る輝政を諫めています。
これに対して、輝政は、涙を流しながら
「その言葉は生涯忘れない」
と言ったという事なので、よほどこのアドバイスは的を射ていたんでしょうね。
慶長八年(1603年)11月10日・・・忠次は、最後の最後まで補佐役として、その生涯を終えました。
その後、池田家は備前岡山藩主に転封となりますが、伊木家は筆頭家老としての地位を保ち続け、「天下三大家老」の一つに数えられるまでになったのです。
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