相撲・第1期黄金期~谷風梶之助と釈迦ヶ嶽雲右門
寛政元年(1789年)11月19日は、横綱土俵入りの元祖・谷風梶之助が横綱免許を受けた日という事で、3年前の今日は、相撲の歴史や、免許制だった横綱が番付の最高位となった秘話など書かせていただいたんですが(2007年11月19日を見る>>)、本日は、その谷風さんやライバル・釈迦ヶ嶽さんの逸話など紹介させていただきます。
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3年前のページにも書かせていただいた通り、日本書紀にはじまり(7月7日参照>>)、その後、長きに渡って神に捧げる奉納相撲や武士の鍛錬として行われていた相撲が、あの織田信長の時代を経て(「織田信長と相撲大会」参照>>)、競技の形式となった江戸時代・・・
初めは神社や寺の境内で不特定に行われていましたが、なんせ、力自慢の男たちの勝負ですから、ちょっとしたモメ事が起こるたんびに大ゲンカに発展し、しかも彼らが暴れ始めると誰も止められない・・・って事で、「治安が悪くなる」として、一旦、禁止になってしまいます。
しかし、「やはり町の発展に興業は欠かせない」という事で、貞享二年(1684年)に、江戸の町おこしの一環として深川の勧進相撲が許可され、江戸幕府お墨付きの相撲が復活する事となります。
その頃には、プロの力士たちもチラホラ出現し、やがて、そのランキング=番付なる物が生まれる一方で、今回の谷風梶之助(たにかぜかじのすけ)が横綱免許を取得・・・相撲は、この寛政の時代に第1期の黄金期を迎えます。
そんな谷風は、陸前国宮城郡霞野(宮城県仙台市)の出身・・・農家の三男坊として生まれます。
生まれつき体が大きく、力も強かった谷風少年でしたが、家はかなりの貧乏・・・
7歳のある時、隣に住む東兵衛という男が、オモシロ半分に谷風少年に声をかけます。
「ここにある米俵・・・試しにお前に家まで運んでみろや。
運べたら、くれてやるゾ!」
見ると、その目の前には五斗俵・・・
「こんだけ、米があったら、思う存分食えるやんけ!」
家計に足しになる!とばかりに谷風少年は、ヒョイとなんなく米俵を持ち上げ、涼しい顔で家まで持ち帰ります。
慌てたの東兵衛・・・
五斗と言えば、今で言うところの約90kg。
「とても7歳の子供に持てるわけがない」
と安易に発言してしまったものの、東兵衛だって、それをポンをあげられるほど裕福でもなく・・・とにかく、平謝りで謝って、なんとか米俵を返してもらったのだとか・・・
そんな谷風とともに第1期黄金期を支えたのが、ライバルとされた釈迦ヶ嶽雲右門(しゃかがたけくもえもん)です。
その四股名でも察しがつく通り、六尺二寸五分(189cm)の谷風より一回り大きい六尺八寸(204cm)の身長を誇り、明和七年(1770年)の市ヶ谷丸板場所では谷風に勝利して大関(当時は最高位)にもなっています。
そんな釈迦ヶ嶽は、島根出身で第7代・松江藩主=松平治郷(はるさと)のお抱え力士でした。
ある時、治郷公の屋敷に招かれた医者が、座敷にて待っていると、そこに、そろりそろりとお茶を運んで来た稚小姓姿をした美少年・・・ではなく大男
稚小姓って・・・殿さまの横で刀持ったりなんかしてる、いわゆる美少年系の・・・森蘭丸とかのアレですよ!
あの格好を2mを越す大男が!!!w(゚o゚)w
そりゃ、医者もびっくり仰天ですがな。
もちろん、コレ、治郷公と釈迦ヶ嶽のイタズラ心・・・いわゆるドッキリです。
また、別の日、
「豆腐を買ってきてくれ!」
と、頼まれた釈迦ヶ嶽・・・・行ったは良いが、手ぶらのまますぐに帰宅し、
「まだ、閉まってたよ~」
と・・・
友人が確かめに行くと、普通に店は開店営業中・・・
なんと、釈迦ヶ嶽は2階の窓を表口だと勘違いしていた事がわかったとか・・・そんなアホな!
まったく~お茶目なんだから・・・
でも、お茶目でカワイイ釈迦ヶ嶽さんは、その後、わずか26歳で腸閉塞を起こして急死したのだとか・・・錦絵を見ると、けっこうイケメンなので残念ですね~~(。>0<。)
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