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2010年11月12日 (金)

主君に届け!この思い~大友宗麟の軍師・角隈石宗

 

天正六年(1578年)11月12日、激戦となった耳川の戦いで、大友宗麟の軍師・角隈石宗が討死しました。

・・・・・・・・・

上司と部下、主君と家臣・・・
ある時は、見事に相乗効果を発揮し、難関なプロジェクトを切り抜けたりもしますが、その関係が永遠に続くか?というと、そうでなかったりもします。

Ootomosourin600 角隈石宗(つのくませきそう)は、九州は豊後(ぶんご・大分県)にその名を轟かせた大友宗麟(そうりん)の軍配者・・・つまり軍師です。

「大事の所伝(しょでん)と呼ばれる軍配術の奥義を体得していた事から宗麟の信頼を一身に受け、永禄年間(1558年~69年)頃から記録に登場します。

天から脇差を降らせたかと思えば、その脇差を谷へと投げ込む・・・しかし、いつの間にやら、その脇差は石宗の手元に戻っている・・・
まさに、超魔術!!ミスターセキック(-▼_▼-)の世界・・・

とは言え、そんな妖術的なものばかりでなく、智謀や兵法にも長け、気象予報の名人でもあり、礼儀作法や物の道理、人の道も説く・・・って事で、まさに万能な軍師として、宗麟のみならず、家臣たちからの信頼も厚かったのです。

ところが、そんな主従関係に亀裂が入る時がやってきます。

それは、キリスト教の伝来でした。

これまでの大友家では、田原八幡宮筥崎(はこざき)など・・・地元の神社や氏神などに戦勝祈願を行い、その籤(くじ)や占いの結果によって軍事行動を起こすが度々あり、何度となく勝利もしていました。

しかし、宗麟がキリスト教ドップリになってからというもの・・・それらの占いの結果を軽視するようになります。

もちろん、キリスト教がいけないわけではありませんし、神社のお告げだって21世紀の世の中から見れば、当たるも○○当たらぬも○○の世界なのですから、どの神様を信心しようがかわまないのですが、問題は、軍団が氏神様のもとに結束している家臣らの心情を、宗麟がまったく無視して、強引に軍事行動を起こしてしまう事にあったわけです。

このあまりの無視っぷりには、後に、重臣の立花道雪も苦言を呈していますが、奥さんだって心配して、正室の立場からキリスト教を排除しようとしました。

しかし宗麟は逆にその奥さんと離婚して、自分の考えを推し通します。

こうなると、それまで、何をするにも石宗に意見が求められていたのが、当然、それもなくなるわけです。

そんなこんなの時に起こったのが、宗麟の生涯で屈指の敗戦となる耳川の戦いです。

もちろん、発端となるのは、隣国・日向(ひゅうが・宮崎県)伊東義祐(よしすけ)(8月5日参照>>)が、その領国の南半分を薩摩(鹿児島県西部)島津義久に奪われ、「何とか取り戻してヨ~」と、宗麟に泣きついて来た事に始まるわけですが、その時に義佑が言った「領地、取り戻してくれたら、その半分あげちゃう」に心動いた宗麟・・・

そう、かねてより造りたくてしかたがなかったキリシタンの王国・・・しかし、上記の通り、家臣や元奥さんの反対に遭い、なかなか実現できなかったその夢も、新しく手に入れた領地ならやりやすい・・・「よっしゃ!やったろ!」と心動きます。

その話を耳にした石宗・・・
●宗麟が49歳の厄年である事
●今、未申
(南西)の方角へ進むのが凶である事
●彗星の動きが凶を示している事

の3点を挙げて、進攻作戦に反対の意を表明します。

ただし、石宗は作戦そのものを反対しているのではなく、現段階で事を起こす事に反対なのです・・・要するに「時期が悪い」という事です。

もちろん、そこには占いの結果だけではなく、家臣の動揺や軍団の雰囲気も含めての総合的は判断で、それこそ軍配術の奥義を駆使してはじき出した結果だったのです。

しかし、もはや宗麟は聞く耳を持ちません。

「石宗言上(げんじょうの様には、御同心(ごどうしん)更になし」(大友興廃記)
と、まったく以って冷たい仕打ち・・・

もはや、自らの失脚をさとった石宗・・・それこそ、大事に大事にしていた「大事の所伝」を焼き捨てたうえで、この出兵に従軍・・・しかも、軍配者の地位を捨てて、一兵士として参戦したというのですから、その決意のほどもうかがえます。

しかし、そんな捨て身の決意も、どうやら宗麟には伝わらなかったようです。

天正六年(1578年)11月12日・・・まさに、決戦間近の当日、

白々と明ける空を見て、石宗は愕然とします。

そこには、「血河(けっか)の気(き)という不吉な兆しが、味方の上空を覆っていたのです。

石宗は、すぐさま主君・宗麟に伝令を派遣・・・「血河の気が上空を去るまで、兵は動かさないように」と進言したのです。

しかし、それを受け取った重臣は、その事を宗麟に伝えず・・・というより、すでに宗麟からの出撃命令が出ていたため、その命令に従い決戦に及んでしまったのです。

そしてご存じのように、この戦いは未曽有の犠牲者を出してしまう、悲惨な結果となってしまいます。

*耳川の戦いについては以前のページを・・・
  (2日に渡って書いています)
 11月11日:初日=高城川の戦い>>
 11月12日:2日目=耳川の戦い・終結>>

重臣の連絡ミスを含むとは言え、立て続けに2度も進言を無視された石宗・・・

無謀な戦いを止める事が出来なかった自分に、もはや、軍師としての存在価値があるのだろうか?・・・

果たして、本当にそう思ったかどうかはわかりませんが、自ら、敵の大軍の中に躍り込み、壮絶な死を遂げたと言います。

ところで、石宗が体得していたと言われる「大事の所伝」の奥義・・・実は、この戦いに挑む前、石宗は、この大事な奥義の一部を、自らが最も見込んだ人物戸次鎮蓮(べっきしげつら)託していたのです。

この鎮蓮という人は、あの立花道雪の養子となる人物・・・つまり、屈指の名将とされる立花宗茂(11月3日参照>>)の義弟にあたる人です。

しかし、この鎮蓮が、父の亡きあとに大友家を継いだ宗麟の息子・大友義統(よしむね)に仕えていた時、義統を諫める書状を提出した事から謀反の疑いをかけられて誅殺(または責められて自刃)されてしまったため、「大事の所伝」は、現在には一言一句たりとも伝わらず、幻の奥義となってしまいました。

宗麟から義統・・・石宗から鎮蓮

この地上には、上司と部下による幾万の縁(えにし)がある中で、「もう少し何とかならんかったのか?」と、胸の痛くなる思いですね。
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コメント

大友宗麟………キリシタン、キリスト教に溺れる(失笑)
耳川の合戦時は石宗のみならず殆どの家臣がそれぞれで別れ酒やら最期の茶会を催して「もうどうにでもなれ!」という状態だったそうですね
宗麟の自分勝手な行動が家臣達の結束を瓦解させ、結果として命令を無視して勝手に突撃する者もいた始末………
まさに大友家の黒歴史ですね

投稿: 百万一心 | 2016年5月 4日 (水) 11時18分

百万一心さん、こんばんは~

宣教師に王と呼ばれて、つい調子に乗っちゃったんでしょうか?
若い頃の家督相続劇がコッコイイだけに残念ですね。

投稿: 茶々 | 2016年5月 5日 (木) 03時00分

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