天狗となった天流の開祖~剣豪・斎藤伝鬼坊
天正九年(1581年)11月21日、剣客・斎藤伝鬼坊勝秀が鎌倉鶴岡八幡宮に百日間の参籠中、剣の奥義を悟りました・・・「天流」の誕生です。
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斎藤伝鬼坊勝秀(さいとうでんきぼうかつひで)・・・戦国時代にその名を馳せた剣豪です。
常陸国真壁村(茨城県桜川市)にほど近い場所にて、北条氏康に仕えた近習(馬廻りなど身近な世話をする家臣)の子として生まれたと言いますが、幼い頃の事は、ほとんどわかりません。
とにかく、伝鬼坊・・・まずは、下僕のような形で、あの塚原卜伝(ぼくでん・卜傳)(2月11日参照>>)に弟子入りし、新当流を学びます。
「どんなみじめな形でもいい!とにかく剣術を学びたい!」
それが、剣術好きの伝鬼坊の方針だったようです。
正式な門弟ではなかった彼・・・卜伝の死後は、名も無く地位も無く、ただ一人で修業の旅に出たのです。
しかし、たった一人で、ちゃんとした師匠につく事もない身の上では、そう簡単に剣の道を極められるはずもありません。
思い悩んだ伝鬼坊が、鎌倉に立ち寄った時、鶴岡八幡宮に百日の願をかけたのです。
以来、雨の日も風の日も、日夜休まず参籠(さんろう・神社などに願掛けのため籠る事)・・・そして、いよいよやってきた満願の日、伝鬼坊は夢を見ます。
光り輝く天から舞い降りた一つの巻物・・・そこには、兵法の秘伝が書かれていました。
そうです・・・伝鬼坊は奥義を悟ったのです。
天から授かった秘剣・・・彼は、これを「天流(てんりゅう)」と名づけました。
時に、天正九年(1581年)11月21日
・・・と、何やら妖術のようなアヤシイ雰囲気で、にわかに信じがたいですが、お察しの通り、これは、あくまで伝説・・・
実際には、満願成就の日に知り合った修験者と、夜を徹して剣術について語り合い、あるいは手合わせしながら過ごすうち、奥義にたどり着いたというような事のようです。
とにもかくにも、こうして誕生した天流をたずさえ、剣客として諸国を巡る伝鬼坊・・・
いつも羽毛で織った袖の無い衣装を身につけて、まるで天狗のような風貌から繰り出す剣は、その姿に見合った実力で、人々を納得させ、そして魅了します。
いつしか、彼が京の都に上る頃には、もう、すっかり有名人・・・
しばらく、都にとどまって、訪れる武芸者に指南したりする毎日を送っていましたが、やがて、その噂が朝廷にまで伝わり、なんと、時の天皇・正親町(おおぎまち)天皇が、「その秘剣を、一目見たい!」と、ご所望・・・
ご要望にお応えして参内(さんだい)した伝鬼坊は、紫宸殿の前にて「一刀三礼(いっとうさんらい)の太刀」を披露して、その見事さに天皇は大いに喜ばれたのだとか・・・
*一刀三礼=仏師が仏像を彫る時、一刀を下すごとに3度礼拝しながら彫る事で、転じて、一つの事に、それだけの敬虔な態度で事を運ぶ事
その褒美として、天皇から、井出判官左衛門尉(いではんがんさえもんのじょう)の位官を賜った伝鬼坊は、同時に出家して入道となり、その名も井出判官伝鬼坊と名乗ります。
こうして、名声を得た伝鬼坊は、その後、生まれ育った故郷=真壁村へと戻り、近くの下妻城主・多賀谷重経(たがやしげつね)に仕えたとされます。
重経に仕えながらも、真壁村で道場を開くと、当然の事ながら、入門者が後を絶たない人気道場となります。
そんな伝鬼坊の人気ぶりがおもしろくないのは、真壁城主の真壁氏幹(うじもと)です。
この人は、伝鬼坊と同じく卜伝に剣を習い、父が編み出した「霞流(かすみりゅう)」なる流派を引き継いでいた剣豪城主・・・しかも、出家して、その名を暗夜軒闇轢斎(あんやけんあんれきさい)と号したという、悪役丸出しの雰囲気をかもし出してるお方ですが、れっきとした実在の人物・・・
東北の雄・佐竹義重(よししげ)の配下として、常に最前線に立って戦場を駆け抜け、「鬼真壁」と呼ばれて恐れられた強の者です。
その氏幹には、桜井霞之助(つゆのすけ)という家臣がいたのですが、これがまた、腕自慢ばかりする嫌われ者・・・
この霞之助の悪意丸出しのチクリによって、すっかり伝鬼坊を憎むようになった氏幹は、
「あんなの殺っちまいな」
とばかりに、伝鬼坊に果たし状を突き付けます。
ところが、どっこい、立ち合いが始まると、伝鬼坊に一撃で頭を割られ、霞之助はあっけなく息絶えてしまいます。
もともと気に喰わない伝鬼坊に、家臣一の腕前を持つ霞之助を殺されたら、ますます気に喰わなくなるのは、当たり前・・・
「こうなったら、どんな手を使っても、伝鬼坊を亡き者にしよう」
と、良からぬ計画を練る氏幹・・・
天正十五年(1587年)のある日の真夜中、真壁の不動堂の前で、弓矢を準備して物影に潜む家臣が14~5人・・・
そこに、呼び出した伝鬼坊が現れると、いきなり
「矢切りの秘術が見たい!」
と言って、突然、矢を放ちます。
さすがの伝鬼坊も、四方八方からの矢の攻撃は防ぎきれず、針ネズミのような姿で落命・・・享年38歳という、剣豪としては、未だ志半ばの死でした。
・・・と、書けば、
「霞之助&氏幹、許せん!」
と、怒り心頭ですが、これは、あくまで伝鬼坊側から描いた剣豪伝説とも言えるもので、実際の霞之助さんには史料がほとんどなく、氏幹さんも猛将の噂はあっても、このようなコスイ事をしたという話しは伝わっていませんので、それを踏まえてお読みくださいませ。
こうして無念の死となった伝鬼坊ですが、その志は実子に受け継がれ、「天道流」と名を変えながら現在に伝わります。
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