119年ぶりの女帝~国母・後桜町天皇
文化十年(1813年)閏11月2日、第117代・後桜町天皇が74歳で崩御されました。
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宝暦十二年(1762年)から明和七年(1771年)まで、9年に渡って在位した第117代・後桜町(ごさくらまち)天皇・・・諱(いみな)を智子(としこ・さとこ)様とおっしゃいます。
そう、後桜町天皇は女性・・・
江戸幕府の初めに、朝廷と幕府の関係のギクシャク感にブチ切れた後水尾(ごみずのお)天皇が決行した前代未聞の意地の譲位で、その後継者となった第109代明正(めいしょう)天皇(11月10日参照>>)以来、119年ぶりの女性天皇です。
他の女性天皇の多くがそうであったように(例外あり)、彼女もまた、中継ぎとして立てられた女帝でした。
前天皇の第116代・桃園天皇が22歳で亡くなり、その息子である英仁親王(ひでひとしんのう・後の第118代後桃園天皇)が、未だ5歳という幼さであったため、彼が成長するまで・・・という感覚だったと思います。
ただ、5歳という年齢は特別に早いというわけではなく、現に、その父の桃園天皇も7歳で即位・・・そのお祖父ちゃんも9歳で即位していますから、普通なら、その5歳の皇子が、直接そのまま皇位についても良かったのですが・・・
実は、その先代・桃園天皇の時代の宝暦八年(1758年)に、一つの事件が起こっていました。
後に宝暦事件と呼ばれる出来事なのですが・・・
その桃園天皇が、未だ幼いのを良い事に、側近らが、その天皇の周囲を国学者や神道家で固めたため、その講義を聞くうちに、天皇自身が完全なる尊王論者になってしまったのです。
そこで幕府との関係を心配した時の関白・近衛内前(このえうちさき)らが、朝廷内の若き尊王論者を大量に処分し、養母の青綺門院(せいきもんいん・桜町天皇の中宮)が天皇に注意をうながすという事態に発展し、後から思えば、幕府の封建体制の崩壊の予兆とも言える出来事となったのです。
その事件からわずか4年・・・未だ幕府との関係が微妙な時期であった事から、あまりに幼い天皇の即位を心配した周囲が、亡き桃園天皇の姉である彼女を後桜町天皇として即位させたのです。
とは言え、彼女の即位は異例だらけでした。
もともと、あの江戸時代の初めに出された禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)によって、朝廷は、何事を決めるにも、いちいち幕府の許可を取らなくてはならなかったのですが、この即位に関しては「異常事態」と称して事後報告という形式をとりました。
また、宮廷内の行事に関しても・・・
なんせ、119年ぶりの女帝です。
現在のように、100年前の映像が残ってたりしませんから、119年前はどのように行っていたかが、ほとんどわからず、すべてが手探り状態・・・儀式を行う天皇の礼服(装束)すら、男性のそのままというわけにはいかず、「あーだ」「こーだ」と意見を出し合う事になるのです。
結局、後桜町天皇は、9年間の在位中に、「たった1回しか新嘗祭(にいなめさい=11月23日参照>>)に出席しなかった」なんて事も言われますが、もちろん、これは彼女一人の責任でもワガママでもなく、「女性の場合はどーすんの?」という周囲のとまどいもあった事でしょう。
そんなこんなで、9年間の時を過ごし、明和七年(1771年)に、無事、第118代・後桃園天皇に譲位して後桜町上皇となった彼女・・・
ところが、どっこい!
そのわずか9年後、後桃園天皇が22歳の若さで亡くなってしまいます。
20歳であろうが22歳であろうが、そこに後継者がいれば、その後の問題もなかったのでしょうが、後桃園天皇には、亡くなったその年に生まれた皇女が一人いるだけ・・・
そこで、後桜町&桃園姉弟のお祖父ちゃんに当たる第114代・中御門(なかみかど)天皇の異母弟・閑院宮直仁親王(かんいんのみやなおひとしんのう)の孫にあたる人物が養子となって後を継ぐ事に・・・
この方が第119代・光格(こうかく)天皇です。
・・・で、ここまで、なんだかんだで、とまどいやら異例が目立って、ご本人のご活躍がかすんでいた感のある後桜町上皇・・・ここに来て、その人間性のすばらしさを発揮してくださいます。
そうです。
この光格天皇の即位が、わずか9歳だった事もあり、母として、天皇経験者として、影に日向に天皇を補佐するのです。
事あるごとに内裏に行幸して光格天皇と面会しながらお互いの情愛を深める一方で、君主となるべき教育を受けていない天皇に、その心得や道を説いてみせたと言います。
以前書かせていただきましたが、この光格天皇は、幕末の孝明天皇から明治天皇・・・そして、現在の天皇家につながる直系の祖先なわけで、最終的に維新へと向かう朝廷復権の基礎を築いたと言われる英明な天皇(11月18日参照>>)ですが、その人格の基礎となったのは、まぎれもなく後桜町上皇の教育であった事でしょう。
上記のリンクの御所千度参りの時にも、後桜町上皇は、自ら、幕府の許可を得ずに、飢えた市民に3万個のリンゴを配るという行為で、光格天皇に協力しています。
後に光格天皇が、強引に推しすすめた尊号一件(7月6日参照>>)では、「御代長久が第一の孝行」と言って、「あまりに強引な事をせずに、幕府との融和を図りながらやりなさい」的な事もアドバイスしています。
尊号問題だけでなく、ロシアとの関係や、きな臭くなってきた攘夷に対して、けっこう過激な光格天皇が、この後桜町上皇のアドバイスには「仰せの通りに・・・」と、実に素直な返答をしているところを見ても、彼女の教育のもとに、その性格が形成されていった事がうかがえますね。
京都・青蓮院の宸殿…左近の桜&右近の橘が御所であった事をしのばせます
晩年、京都の8割が燃えたと言われる天明の京都大火に見舞われた時には、東山粟田口にある青蓮院(しょうれんいん)を粟田(あわた)御所として住まわれ、庭園内にある弘文亭を御学問所として使用され、ひとときのやすらきを覚えられたとか・・・
青蓮院の庭園…くわしい行き方は、本家HPの歴史散歩【祇園・八坂・ねねの道】へGo>>
そんな後桜町天皇は文化十年(1813年)閏11月2日、74歳で崩御・・・この先の維新へとつながる朝廷復権の基盤造りに尽力する事になる光格天皇を育てた方という意味で、彼女は今、国母(こくも・こくぼ)と呼ばれます。
実際には、子供がいなかった天皇・・・ひょっとしたら国母とは、後桜町院という追号より、うれしい称号なのかも知れません。
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コメント
「後桜町天皇の時代は宮中内の行事が大変でした」と言う事は、1世紀前の明正天皇の時代にはもっと大変でしたね。何せ「8百何十年ぶり」の女性天皇でした(平安時代~安土桃山時代には女性天皇が1人もいない)ので。
しかし、海外を見ると1500~1800年代は「女王」が多い時代でしたね。
投稿: えびすこ | 2010年11月 2日 (火) 17時52分
えびすこさん、こんばんは~
>明正天皇の時代にはもっと大変…
確かに大変だったでしょうね。
ただ、明正天皇の時は、少し行事が少なかったようです。
たとえば、本文に登場した新嘗祭は、明正天皇の時代は行われていなかったので、特に後桜町天皇の時にはお困りになったとの事でした。
投稿: 茶々 | 2010年11月 2日 (火) 21時14分
はじめて聞く話ばかりで、たいへん面白かったです。比較的最近「女性天皇」が話題にもなっています、この様な方にスポットライトを当てた歴史ドラマがあっても良いと思います。
投稿: gontamosuke | 2010年11月 3日 (水) 10時15分
gontamosukeさん、こんばんは~
そうですね~
今年の龍馬伝で、すでに有名どころは、すべて登場しきった感のある大河ドラマ…
これからは、こういった、今まで、あまりスポットの当たらなかった方を主役にして描いていただきたいですね。
投稿: 茶々 | 2010年11月 3日 (水) 23時53分
当時のリンゴ、和リンゴなどとても食べられたものではござらぬ。渋くてガリガリで、甘みなどござらぬ。
青梅食べますか?同じようなもの。誤解を生むからリンゴを和リンゴとなされえ。
投稿: 早茶 | 2015年7月25日 (土) 14時10分
早茶さん、こんにちは~
おっしゃる通り、現在、果物屋さんで売られているリンゴは明治になって入って来た物ですから、当然、記事中のリンゴは、昔から日本で栽培されていたリンゴの事ですが、それは、野菜やくだものの多くが同様です。
ブログには大根だったかニンジンだったかも登場した事がありますが、そこにも注釈つけた方が良いのでしょうか?
ちょっと、考えてみます。
あと、「食べますか?」とおっしゃってますが、平安時代に大陸から渡って来てから、ずっと栽培されているのですから、当時の人は食べてたと思いますよ。
(そのまま生で食べるかどうかは存じませんが…)
明治になって、かの西洋リンゴが入って来たために和リンゴの栽培が激減しただけで、現在でもその復活を頑張っておられる農家さんもいます。
まして、餓死者が大量に出るほどの飢饉なんですから、あれば食べると思いますが…
(現在、甘みの強いトマトが登場したために、以前のトマトを「マズイ」「青臭い」と敬遠する人が多くなりましたが、何年が前までは普通に食べてましたから…そんな感じかと)
その証拠と言っては何ですが、現在でもお盆の時に、まだ収穫時期ではない青いリンゴをあえて収穫してご先祖様にお供えする風習が残っていますよね。
これは、昔に和リンゴをお供えしていた名残だそうです。
味も、確かに甘みは少ないですが、逆に独特の酸味がクセになる人もいるそうですよ。
これって…
「とても食べられたものでは無い」物をご先祖様にお供えしてたんでしょうか?
もちろん、そのルーツは古くて、もうわからないでしょうけど、「捨てる物をご先祖にお供えする」では、ご先祖様にも失礼な気が…
やはり、そこは、「貴重で大切な物だからご先祖様に…」と考えた方が良いような気がするのですが…
まぁ、あくまで推測の域を出ない私見ですので、お聞き流しを…。
投稿: 茶々 | 2015年7月25日 (土) 14時59分
茶々さん、おはようございます。
今の状況は後桜町天皇の頃に似ていますね。
悠仁親王以外に男子がいなく、まだ幼いです。
万が一の時には姉君たちが中継ぎ天皇として即位するかもしれないです。
それはそうと後桜町天皇の頃の日本は激動でした。
天明の大飢饉も起こりましたし、浅間山の噴火です。
世界も激動でした。そんな中で幼い天皇等の後見役とは本当に国母と言うのが相応しいと思います。
今の皇室は後桜町天皇と遠いとはいえ同じ東山天皇の血なので尊敬しないといけないと思いました。
アイスショーを一昨日見に行きましたが、まだ疲れていますので、今日はここまでにします。
投稿: non | 2015年7月27日 (月) 07時33分
nonさん、こんにちは~
>万が一の時には姉君たちが中継ぎ天皇として…
生前譲位がなくなった現代では、おそらく中継ぎの女性天皇はあり得ないでしょうね。
女系天皇が問題になった事もありましたね。
投稿: 茶々 | 2015年7月27日 (月) 16時58分
こんにちは、茶々さん。
体調不良で寝ています。ばててました。
どうも去年から不調です。
確かに今は退位、女性天皇を認めていませんが、ローマの教皇の例もありますし、明正天皇みたいな例もありますのであり得ないと思いません。
悠仁親王の事を考えますと姉君達が順番に天皇になった方が良さそうな感じがします。
まあこういう事は政府が決めるでしょうけど・・・
投稿: non | 2015年7月29日 (水) 17時02分
nonさん、こんばんは~
問題は女性天皇ではなく、女系天皇です。
奈良時代の孝謙天皇も、今回の後桜町天皇も明正天皇も、女系にならないよう生涯独身を貫かれましたね。
投稿: 茶々 | 2015年7月30日 (木) 01時19分
茶々さん、おはようございます。
女系で思い出したのですが、元正天皇の妹にあたる吉備内親王は皇位継承権はあったのでしょうか?長屋王は高市皇子の子ですのであったと思いますが、どうなのでしょうか?
里中真知子はあったと書いていましたが、そう言う点は気になります。
明正天皇、後桜町天皇は独身でしたが、孝謙天皇は独身でも噂はあります。(私は信じていませんけど・・・)そこを女系にしたい人は孝謙天皇、吉備内親王を利用しないかなと思いました。
でも悠仁親王を護る為に姉宮たちが即位するとなると独身を貫くのですが、大変でしょうね。
もしそうなったら明正天皇、後桜町天皇みたいな決意が無いと駄目でしょうね。
投稿: non | 2015年7月30日 (木) 10時56分
茶々さん、一番問題になるのは神功皇后、元明天皇のケースです。江戸時代までは神功皇后は天皇になっていましたし、元明天皇は皇太子妃から即位しました。そこで女系と言い出すのがいますし、元正天皇は元明天皇の血で即位したと言う所功などがいます。そこをはっきりさせないと女系天皇を認めようとしているかもしれません。
女系でないのですが、今のスペイン王家の先祖のイザベラ2世は従兄弟と結婚してその子が国王として即位しました。こういう男系だが、母系と言うのもどうするか考えないと駄目な感じもします。
その時に草壁親王の立場がどうなるかです。直接の血が無いので問題にならないと思いますが・・・
投稿: non | 2015年7月30日 (木) 11時28分
nonさん、こんばんは~
「皇位継承権のある無し」などは、けっこう後世になってからの考え方では無いでしょうか?
権力のある人がその力を維持するため、あるいは、権力の無い人が新たな権力を得るために、力で皇位を奪い取っていた時代には、「皇位継承権」なんて考えても仕方ないと思います。
権力者の思い通りになる人物に皇位を継がせるためなら、どんな理由をつけてでも皇位を継承維持させていたのが、その時代だと思いますので…
>男系だが、母系と言うのも…
すみません、これまでの言い方が悪かったですね。
日本の場合は「女系」が問題なのではなく、「男系でない事」が問題でしたね。
投稿: 茶々 | 2015年7月31日 (金) 02時40分
茶々さん、こんにちは。
明正天皇に対して母の和子は雛人形を贈ったと言う話を聞いたことがありますが、後桜町天皇は何をしていたのでしょうか?
桃園天皇は弟で、後桃園天皇は甥、降格天皇は甥の娘婿です。
この様な年下の天皇を見ますと何とかしないといけないと言う気持ちが強かっただろうと思います。
多分今で言いますとキャリアウーマンの姉が会社の跡継ぎになる幼い弟などを面倒見ながら代わりに会社のトップに立っている感じでしょうか。
男と女で違いますが、家の伯父は伯父の義理の弟が体調不良の時に臨時に社長になったこともありますし、その後も後見役みたいに副社長をしていましたのでそんな感じに近いのかなと思いました。すみません、皇室と会社は全然違うのに一緒みたいに書きまして・・・
後水尾天皇の院政下の明正天皇と違い後桜町天皇は昭和天皇もお手本にしているくらいにスーパー天皇と言う感じがします。ある意味で言いますと皇室の中興の祖と言える天皇なのかなと思いました。
リンゴで思い出しましたが、日本のリンゴを見たことが無いです。どうもリンゴと言いますと青森とか長野をイメージします。日本古来のリンゴはどんな感じでしょうか。また教えてください。リンゴと言いますと花田家が室戸台風でリンゴが壊されて、破産したそうですが、後で皇室に縁が深い力士になったのを見ますとリンゴつながりで皇室に縁がある相撲への道を進ませたのかなと思いました。
投稿: non | 2015年7月31日 (金) 16時56分
降格でなく光格天皇ですね。すみません。どうも私のPCは変換が上手くいきません。
後桜町天皇の時の新嘗祭は難しいし、そういう行事に関する記述が応仁の乱で焼けたのではないでしょうか?困ったと思います。
りんごを配ったころは幕府は少しずつ権威が落ちていましたので、朝廷が助けないと言うお気持ちが強かったのではと思います。
ある意味で皇位継承の順序を後桜町天皇が定めた感じがしました。
投稿: non | 2015年7月31日 (金) 17時02分
nonさん、こんばんは~
ここのところ多忙で…お返事が遅くなりましたm(_ _)m
とこかで、後桜町天皇は、本当の母子のように光格天皇と接したといったお話を聞いたように思います。
幕府相手に尊号一件で退けを取らない光格天皇は、やはり世の中の風の変化に気づいていたんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2015年8月 3日 (月) 01時45分
茶々さん、こんばんは。
後桜町天皇に光格天皇が母の様に接したのは院政と言うのは無くても後桜町天皇を中心にした朝廷は即位から出来ていた感じがします。
皇太后として清を支えた西太后は亡くなる時に女は政務を携わるべきでないと言い残しましたが、後桜町天皇はその様な遺言を残したのでしょうか?
光格天皇はどの様に幕府の終わりを感じたのでしょうか?後桜町天皇からの情報もあったのでしょうか?
投稿: non | 2015年8月 4日 (火) 20時58分
nonさん、こんばんは~
光格天皇は、かなりの情報通だったみたいですね。
ロシアなど、外国の事にも興味があり、よくご存じだったとか…
投稿: 茶々 | 2015年8月 5日 (水) 01時57分
茶々さん、こんばんは。
光格天皇の情報能力はジョージ4世と似ています。遊び人とか親不孝者と言われましたが、情報には詳しかったです。
光格天皇がロシアについて興味があったとしたら後桜町天皇にもエカチェリーナの事を教えたのかなと思いました。
投稿: non | 2015年8月 5日 (水) 22時49分
nonさん、こんばんは~
私は世界史はわかりません。
投稿: 茶々 | 2015年8月 6日 (木) 01時43分
どうも一昨年からの不調はまだ治らないみたいです。
私は桃園天皇みたいに寿命は短いのかなと思ったりします。
そういう寿命が短い天皇が多い中で後桜町天皇の寿命の長さには感嘆します。
昭和天皇も江戸時代の寿命の長い天皇には感嘆していたみたいです。
後桜町天皇の光格天皇に宛てた書なんかは熱心にご覧になっていたそうですから・・・
調子が悪いのでここで終わります。
投稿: non | 2016年10月25日 (火) 12時25分
nonさん、こんばんは~
お大事になさってください。
投稿: 茶々 | 2016年10月26日 (水) 04時07分