ミジメな上洛を力に変えて~信長・尾張統一
永禄五年(1562年)11月1日、織田信長が織田家本宗の一つである岩倉城の織田信賢を攻めて追放し、尾張統一を果たしました。
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注:諸説ある信長の尾張統一ですが、とりあえず、本日書かせていただきます。
永禄三年(1560年)5月19日、ご存じ、桶狭間の戦い(2007年5月19日参照>>)で、当時、海道一と言われた駿河(静岡県東部)の今川義元を討ち、一躍、全国ネットの踊り出た尾張(愛知県西部)の織田信長・・・
とは言え、その後の信長の矛先が、義元を失って失速の一途をたどる今川ではなく、美濃(岐阜県)の斉藤家に向かったのは、皆さま、ご承知の通りです。
この時、なぜ、美濃だったか?
という事に関しては、
「他に駿河を狙う者(武田や北条)との直接対決を避けたかったので、三河という地を間に、ワンクッション置くほうが妥当と考えた」
「広大な領地である美濃だが斉藤家が統一しているので、斉藤さえ倒せばすべてが手に入るので」
などなど・・・他にも様々な見解があり、それこそ、ご本人に直接会って、その心の内を聞くしかないわけですが、個人的には、本日の尾張統一=対・織田信賢(のぶかた)がらみの出来事が大きく影響しているのではないか?と考えております。
この信賢さん、もともとは織田家の主筋・・・つまり本家です。
もともと主筋なのですから、当然の如く、「織田家のトップは俺!」って考えが強く、信長の父=織田信秀が、同族を倒しながら尾張にて勢力を拡大しつつある事を苦々しく思っていたわけで・・・
その信秀が亡くなって信長が家督を継いだ天文二十年(1551年)以降は、あからさまに敵対の意思を示し、「敵の敵は味方」とばかりに、隣国・美濃からの援助も受けていたのだとか・・・
そんな、尾張最後の大物とも言える信賢と、信長との直接対決が勃発するのは、永禄元年(1558年)の事でした。
当時、信賢が本拠としていたのが岩倉城(愛知県岩倉市)・・・この岩倉織田家内での内紛を絶好のチャンスと見てとった信長は、当時、犬山城(愛知県犬山市)主をしていた従兄弟(父・信秀の弟の息子)の織田信清(1月17日参照>>)を味方に引きずり込んで、岩倉城の北西・約5kmの位置にある浮野(うきの・一宮市)で合流・・・。
岩倉城から出撃してきた3000人とも言われる城兵との激戦に勝利し、信賢に大きな痛手を与えています(5月28日参照>>)。
実は、信長の一回目の上洛は、この戦いの直後であったと言われています。
そうです。
なんだかんだで、あの足利義昭(よしあき)を奉じての永禄十一年(1568年)の上洛(9月7日参照>>)が有名ですが、すでに、その前、ほぼ尾張を統一した気分ノリノリの雰囲気のまま、未だ26歳の若き信長は上洛していたのです。
もちろん、一番の目的は、時の将軍・足利義輝(よしてる)に謁見して、自らが尾張一の武将である事をアピールするためですが、それは義輝一人に対してではなく、都=中央にいる天皇や武将全員に対するアピールでもあったはずです。
だからこそ、はっきりとした記録は残されていないものの、その数・500人とも言われる大人数で、派手好きの信長らしく、とてつもなく目立つ雰囲気のいでたちで入京したのです。
それはそれは、都の人々のド肝を抜くような鳴り物入りの上洛だったのだとか・・・。
ところが、どっこい・・・その結果は散々な物でした。
もちろん、一番の目的であった将軍との謁見は叶ったものの、実りある話など何もなく、ただ、会っただけ・・・尾張統一も、未だ完全とは言い切れない立場の信長は、都の人々に体よくあしらわれ、振り返れば、田舎侍の大規模な都見物でしかなかったのです。
ド派手な格好で、満面の「どや顔」で入京しただけに、これは、かなり恥ずかしい・・・
しかも、信長の上洛に気付いた美濃衆からの襲撃の恐れがあったため、帰り道は鈴鹿山脈の八風(はっぷう)峠越えという、険しさ満載の抜け道を通らざるをえませんでした。
まだまだ若いとは言え、おそらくこの時の信長にとって、この上ないミジメな上洛&帰宅だったに違いありません。
(ここからは、個人的妄想が入ってますが・・・)
たぶん信長は、このミジメな上洛で、その心に誓ったのではないか?と・・・
「まずは、完全に尾張を統一し、そして、その次は美濃だ!」と・・・
「それでないと、中央には認められない」
こうして、信賢との初の激戦の翌年・・・かの桶狭間で義元を葬り去った信長は、その翌年の永禄四年(1561年)の斉藤義龍(よしたつ・道三を破った息子)(10月22日参照>>)の死を受けて、再度、岩倉城を包囲・・・
翌・永禄五年(1562年)11月1日に信賢を追放して尾張統一を果たす(2011年11月1日参照>>)とともに、この同じ年に、あの徳川家康(2008年5月19日参照>>)と同盟を組むのです。
これが、駿河への進攻は家康に任せて、自らは、美濃にターゲットを絞った瞬間ではなかったでしょうか。
ただし、厳密一には、もう一波乱あります。
信賢を倒す時ともに戦った信清・・・今度は、この人が反旗をひるがえすのですが、そのお話は、また関連する「その日」に書かせていただきたいと思います。
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コメント
織田信長は「自ら率いる行列の衣装」に関しては、なかなかパフォーマンスのある人だと聞きます。もっとも天正~慶長期は着物の柄や色合い、デザインが派手ですが。
誰でもそうですが、結果が出ないうちは世間に評価されないですね。織田信長の場合は思春期の時の「うつけ」の悪評が、京・洛中にまで届いてたのかも?
ただ私は若い頃の織田信長はうつけではないと思うんです。もしも、うつけだったら親の跡目を継げないので。
もうすぐ「登場900人」になりますね。
誰になるか待ってます。
投稿: えびすこ | 2010年11月 2日 (火) 09時25分
えびすこさん、こんにちは
おっしゃる通り、信長はうつけではありませんよね~
むしろ、彼の行動がうつけでない事を、周囲が見抜けないほど、彼は飛びぬけていたという事なのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2010年11月 2日 (火) 13時58分